artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

デザインに恋したアート♡アートに嫉妬したデザイン

会期:2023/04/15~2023/06/18

大阪中之島美術館[大阪府]

1980年代にアートがちょっとしたブームになったとき、なにかと制約の多いデザイナーは自由なアーティストに憧れ、逆に食えないアーティストは稼げるデザイナーを羨んだ。お互い「ないものねだり」だったのだ。だから40年前は本展のタイトルとは反対に、「アートに恋したデザイン♡デザインに嫉妬したアート」だったことを思い出した。アートとデザインは隣接領域であるがゆえに、相互に越境もすれば、近親憎悪のような対立も生まれるらしい。

「デザインに恋したアート♡アートに嫉妬したデザイン」展は、アートとデザインを活動の両輪とする大阪中之島美術館ならではの企画。アートとはなにか? デザインとはなにか? 両者の違いはなにか? 同展はその答えを美術館が出すのではなく、観客に問いかける。そのため、アーティスティックなデザイン、デザインに見まがうアート、どっちつかずの作品など111点を集め、会場の各所に置かれた投票用のデバイスで各作品のアート度、デザイン度を観客に決めてもらおうというのだ。ただし、アートかデザインかの二者択一ではなく、アート73%とか、デザイン95%とか、選択肢がグラデーションになっているのがミソ。下世話といえばそれまでだが、下世話だからこそ見てみたくなるものだ。

出品されているのは、亀倉雄策の東京オリンピック(1964)のポスター、東芝の自動式電気釜、柳宗理のバタフライスツール、シャープのスマホとロボットを合体させた「ロボホン」など、明らかにデザイン寄りの製品から、草間彌生の網目絵画、森村泰昌のゴッホに扮したセルフポートレート、河原温の「100年カレンダー」、村上隆のネオポップ絵画などどうみてもアートな作品までさまざま。おもしろいのはどっちつかずの作品たちだ。荒川修作がデザインしたミュンヘンオリンピックのポスター、倉俣史朗による赤いバラの造花を埋め込んだ透明アクリルの椅子、日比野克彦のダンボール作品、藤浩志がポリ袋でつくったトートバッグ、名和晃平が半球状の透明アクリルをつけたテレビなどはどっちだろう? ここには出てないけど、イサムノグチの「あかり」、岡本太郎の「坐ることを拒否する椅子」などは悩んでしまう。別に悩むことはないけどね。

だいたいアートにもデザイン感覚は必要だし、デザインにもアーティスティックな発想は欠かせない。違うのは目的だ。アートはなんだかんだいっても自己表現だし、デザインはつべこべいっても機能があって売れる製品をつくらなければならない。だからだろう、アーティストの手がけたデザインが比較的おもしろいのに対し、デザイナーがヘタにアートに手を出すと失敗する。京セラ美術館でもアートとデザインを横断する特別展「跳躍するつくり手たち:人と自然の未来を見つめるアート、デザイン、テクノロジー」が開かれていたが、どこかチグハグさを感じてしまう。やはりアートとデザインは同じ土俵に並べないほうがいいし、もし並べるなら本展のように両者の違いを前提とした工夫が必要だろう。


公式サイト:https://nakka-art.jp/exhibition-post/design-art2023/

2023/05/10(水)(村田真)

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近代日本の視覚開化 明治──呼応し合う西洋と日本のイメージ

会期:2023/04/14~2023/05/31

愛知県美術館[愛知県]

関西に行くついでに名古屋でもなにかおもしろそうな展覧会はないかと調べてみたら(もちろんartscapeで)、やってました! 愛知県美術館の「明治」展。神奈川県立歴史博物館からの出品が多いようだが、どうも横浜に巡回する予定はなさそうなので、名古屋で途中下車して寄ってみた。結果、今回いちばんの収穫だった。

出品点数300点以上。展示替えがあるので実際に見たのはもっと少ないが、それでも大量だ。これらを「伝統技術と新技術」「学校と図画教育」「印刷技術と出版」「博覧会と輸出工芸」の4つに括っている。質・量ともに圧巻なのは第1章の「伝統技術と新技術」だ。幕末・維新に西洋から流入した油絵や写真、あるいは遠近法や明暗法といった新しい素材や技法を採り入れ、伝統的な絵画と擦り合わせて独自の視覚表現を模索した明治の画家たちの軌跡をたどっている。こうしたテーマだとたいてい高橋由一を軸に語られることが多いが、ここでは五姓田派が中心だ。神奈川県立歴史博物館が五姓田派の作品を多数所蔵しているからでもあるが、それだけでなく、彼らこそ明治維新期に試行錯誤しながら西洋絵画の普及に努めた先駆集団であるからだ。五姓田派は、横浜の居留地に住む外国人の土産用に、西洋絵画の技法を採り入れた写真のような肖像画を制作した初代五姓田芳柳をはじめ、13歳のころから高橋由一とともにチャールズ・ワーグマンの下で油彩画を学び、父に次いで皇室からの制作依頼も受けるようになった息子の義松、さらに初代芳柳の娘(義松の姉)で最初期の女性洋画家のひとり渡辺幽香、初期の愛知県令(現在の知事)の肖像画も制作した二世芳柳など、逸材ぞろい。

そんななかでも目を惹くのが、彼らの手になる肖像画だ。和服姿の外国人やチョンマゲを結った侍が写真のようにリアルに描かれ、しかもそれが絹本着色の掛け軸仕立てというチグハグさ。また、渡辺幽香の油絵《西脇清一郎像》(1881)は仏壇みたいに観音開きの扉がついてるし、二世芳柳の《国府台風景図屛風》(1882)は六曲一双の屏風をバラして、12枚のパネルを面一で並べている。いったいこれらは日本画なのか洋画なのか? というより、まだ日本画と洋画の対立概念さえなかった、まさにタイトルどおり「視覚開化」の時代の産物なのだ。

五姓田派以外では、橋本雅邦の《水雷命中図》には驚かされた。雅邦といえば東京美術学校で横山大観を指導した近代日本画の立役者だが、この作品は油絵の戦争画。こんなものを描いたのは、日本画の不遇時代に海軍兵学校で図学を教えていた関係だそうだ。洋画家が日本画をたしなむのは珍しくないが、日本画家が油絵に手を染めるのはこの時代ならではのことではないか。日本画家の荒木寛畝による《狸》は、野原で堂々とこちらを見つめる狸を描いた油絵だが、人を化かしそうでちょっと不気味。

また、高橋由一と見まがう鮭の絵が2点あるが、それぞれ五姓田義松の《鮭》と池田亀太郎の《川鱒図》。由一と義松は同じワーグマン門下だから、どっちが先に鮭を描いたのか気になるところ。池田の川鱒は由一と逆に頭が下で尻尾に縄をつけて吊っているのだが、縄の最上部に小さな穴が空いているのがわかる。おそらくここに釘を打って絵を止めていたと思われるが、同時に、本物の鱒を縄で吊っているように見せかけるだまし絵としての役割も果たしていただろう。

第2章以降の図画教育、印刷、博覧会関連でも興味深い作品・資料が目白押しだが、キリがない。これはぜひ横浜にも巡回してほしいなあ。


公式サイト:https://www-art.aac.pref.aichi.jp/exhibition/000391.html

2023/05/09(火)(村田真)

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喜多村みか「revenant」

会期:2023/04/21~2023/05/14

kanzan gallery[東京都]

東京工芸大学大学院在学中の2006年に、キヤノン写真新世紀で優秀賞を受賞して以来、喜多村みかはゆっくりと、だが着実に自らの写真の世界を深化させてきた。写真家、写真批評家の小池浩央のキュレーションで開催された今回のkanzan galleryでの個展には、2013年刊行の写真集『Einmal ist Keinmal』から10年を経て、「喜多村が写真で捉えようとしてきたものをこれまでの活動を振り返りつつ複数の視点から再考し、これからに向けた新たな出発点となるもの」を目指して構成された19点の作品が展示されていた。

8×10インチほどの、小ぶりなサイズにプリントされ、額装されたそれらの写真群は、「Paris 2013」から「Saga 2021」まで、撮影場所も時期もかなりばらついている。だがそこには、種々雑多な日常の眺めから、何ものかを切り出し、矩形の画面に封じ込めようとする強い思いを湛えたものが選ばれており、どこか切迫した緊張感を感じさせる写真が多かった。扉、窓など、区切られた空間にカメラを向けたものが多いのは、何かの訪れを待ち、それをそこに呼び込もうという意志のあらわれだろうか。この世界に回帰してくるrevenant=亡霊の訪れを、怖れつつも強く期待するような気分が、独特のくぐもった質感をもつ写真群に刻みつけられているように感じた。

こうなると、もう少し写真の数を増やして『Einmal ist Keinmal』に続く写真集の刊行を考えてもいいのではないだろうか。喜多村の写真作家としてのものの見方、姿勢が、くっきりと形をとった写真集をぜひ見てみたい。


公式サイト:http://www.kanzan-g.jp/mika_kitamura.html

2023/05/08(月)(飯沢耕太郎)

第14回 光州ビエンナーレ(フランスパビリオンでの展示、ジネブ・セディラ《꿈은 제목이 없다 Dreams Have No Titles》)

会期:2023/04/07~2023/07/06

楊林美術館(フランスパビリオン)[韓国、光州]

2022年のヴェネツィア・ビエンナーレでもフランスパビリオンで展示されたジネブ・セディラ(Zineb Sedira)の《Dreams Have No Titles》(2022)が光州ビエンナーレでもフランスパビリオンに出展されていた。ジネブが生まれ育ったのはフランス、両親の出身地はアルジェリア、そしていまイギリスに在住している。アルジェリアは1954年から1962年にかけての「アルジェリア戦争」を通してフランス領からの独立を目指し、達成した。本作はアルジェリア独立後のある映画史にジネブが入り込んだものだ。


Zineb Sedira, Dreams Have No Titles, 2022 Duration: 24 mins, Shot in 16 mm and digital film
Commissioner French Institute, Paris & Production ARTER, Paris. Courtesy the artist and Mennour, Paris. © DACS, London 2023
14th Gwangju Biennale: soft and weak like water, South Korea, April 7 – July 9 2023, 14gwangjubiennale.com


会場はその映画についての映像作品と、その撮影セットが部分的に組まれたインスタレーションで構成されている。特に映像ではジネブ本人がナレーションを務め、『ル・バル』(1983)をはじめとした数々の映画をリメイクしたシーンに自身が登場した。ここでの映画史はとりわけ、フランス、イタリア、アルジェリアにおける1960年代、1970年代、そしてそれ以降に焦点を当てたものだ。そのなかでジネブは時代をつくった諸映画に入り込むのであるが、その所作は1970年代以降のシミュレーショニズム──作者がある既存の作品を参照し、その既存作品の登場人物とはアイデンティティや国籍が異なる自身の身体を提示することによって先行作品の意味を読み替えたり、特定のステレオタイプを再演することである社会や文化を戯画化するといったアプローチ──とは違っている。ジネブ自身はそれを「リメイク」と呼んでいるが、シミュレーショニズム(例えば、シンディ・シャーマンや森村泰昌)とここでのジネブ作品との差分をどこに見出すことができるだろうか。そのリメイクの特徴としては、シミュレーショニズムの多くが映画→写真、絵画→映像、絵画→写真等々メディアを変更している一方で、映像→映像であること(もちろん福田美蘭のように絵画→絵画というものもある)、そして、先行作品を模倣しているシーンがあったかと思えば、リメイク撮影をしている現場が広角のショットで挿入されることが顕著だろう。

参照されている映画はいずれも、アルジェリアとフランスとイタリアの共同制作である。ジネブは2017年に初めてアルジェリア・シネマテックのアーカイブを訪れ、そこで独立後につくられた映画が第三世界の価値観と美学をいかに遵守していたかということに感銘を受けた。そんなジネブのいうところの第三世界で開発された「戦闘的で反植民地的なアプローチ」は、フランスや特にイタリアの監督たちと共振し、1960年代からアルジェリアとの共同制作が行なわれていたのだ。

特に中心的な参照先である『ル・バル』は言葉のない映画だ。第二次世界大戦から1980年代までの変遷を、ダンスフロアでの身振りと音楽だけで描き切ったものになっている。すなわち、いずれの参照映画も三国間での文化的同盟の模索が形になった映画なのだ。しかし、作品の冒頭からオーソン・ウェルズの『F for Fake』を引き合いに、「この映画はトリックについての映画だ」と主張して始まるように、本作では具体的にその協働について分析・描写されることはないが、その参照先のリメイク映画が別のリメイク映画に切り替わるとき、ミザンナビーム(紋中紋=入れ子構造)が幾重にも行なわれている★1

本作でのミザンナビームは主に、1960年代、70年代、それ以降のラジオやブラウン管テレビといった時代とともにあるメディアの当時の音質や画質を、目下の視聴覚環境(本作はフルハイビジョン、画素数1080p)のなかでの画中画、作中音楽としてシミュレーションし、出現させている。ミザンナビームによって発生する1080p以前の映像の質感の衝突は、映像や音声の解像度の低さへ移り変わり、作中での映画の時代の変遷を示唆するのだ。

この演出が本作にとってどのような意味をもつのかというと、『ル・バル』に現われる時代を代表する音楽や人物や雰囲気といったものではなく、その媒体の質感の変遷に世界的な共感や同期性が現在は見出せるということだろう。いまのダンスホール、文化の結晶はスクリーンの中にあるから。こういった現代性の表出によって、本作はアルジェリアとイタリアとフランスの外にもメッセージを送ることができているとわたしは思う。

シミュレーショニズムの作品の多くが媒体を変更することによって、あるいは、自身の身体を古今東西の名作に入れ込むことによって、当時の時代の在り方を批判的に再考させてきた。しかしジネブはそうではない★2。著名な作品を再考させるためというよりも、フィルムの存在が忘れ去られていた映画『Tronc de figuier』の再発見を出発点に、映画というフィクションのなかに、いまを生きる自身や自身のファミリーヒストリーを挿入することで、1960年代以降の映画での協働を現在に結び直そうとしている。

アルジェリア戦争当時から長きにわたり、フランス政府はアルジェリアの独立に向けた一連の活動を「事変」や「北アフリカにおける秩序維持作戦」と見なしていたが、1990年に正式に「アルジェリア戦争」と呼称を変更した。韓国の軍事政権に対する民主化要求である光州事件(1980)がかつて内乱陰謀と位置づけられていたこととパラフレーズするパビリオンになっているといえるだろう。

光州ビエンナーレではどのキャプションも作家の出自を地域名で記載していた。それは「国家」というものと作家の表現が同一視される狭窄的な受け取り方を是正するためのやり方だ。「soft and weak like water」をメインパビリオンのタイトルとし、実際多くの作品が実直に「水」をモチーフとしていたが、それはあらゆる観賞者が作品に対して一瞥で政治的判断を迫られないようにするという共感可能性の幅を広げるという方法でもあっただろう。西欧との別の方法、知恵の模索といったものが、水をはじめとした「自然とともにある」といった様相を呈しているように見えることはまた別稿で検討したいが、そんななかで、国を代表するパビリオンを並置するということは、パビリオンに向けたビエンナーレ側からの「なお国を代表する作家をどのように選ぶことができるのだろうか」という問いでもある。フランスパビリオンの本展は、光州の人々に向けたメッセージを、国際展を見に来るあらゆる人々へどのようなメッセージをつくるのか、ひとつの明快な解答に見えた。



★1──本作については詳細なプレスキットが出ている。
★2──とはいえ、例えば森村泰昌もシンディ・シャーマンもキャリアを積み重ねた後、「自伝的」な作品が多くなっている。



第14回 光州ビエンナーレ:https://14gwangjubiennale.com/


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第14回 光州ビエンナーレ(Horanggasy Artpolygonでの展示)

会期:2023/04/07~2023/07/09

Horanggasy Artpolygon[韓国、光州]

韓国の光州ビエンナーレのうち「Horanggasy Artpolygon」という会場があるのだが、そのなかの三つの作品を紹介したい。

真っ先に対面するのは天井から大量に吊られた画布、ヴィヴィアン・スーター(ブエノスアイレス生まれ、バーゼル育ち、1949-)の作品群。屋外の地面に置いて描かれたという作品は、火山性物質や壁材塗料といった絵画のためではないメディウムで描画されているもので、具象や抽象のいずれにもところどころスレや斑点があるのだが、それはスーターの周囲にいた牛や犬や蟻やポッサム等々……といった自然の痕跡だ。1982年にグアテマラにあるかつてプランテーション農園だった場所に移り住んだスーターは、2005年の大豪雨に見舞われた結果、多くの作品が泥にまみれることになる。当初、彼女はその泥の除去に腐心していたのだが、それを辞めた。絵画の保全にとって糞尿や土といった有機物は大敵だが、彼女はそれらもすべて残すという選択を行なったのである。


ヴィヴィアン・スーターの展示の様子(筆者撮影)


次の部屋にはブラウン管テレビが四つ並ぶ。次々と流れる映像は1990年頃に撮影されたもので、いずれも芝生や川沿いといった公園でのパフォーマンスの記録だ。1980年に光州市民による民主化を求めるデモが軍事政権下の空挺部隊と衝突し、市民に対する凄惨な武力行使が行なわれた光州事件を契機のひとつに、韓国では美術館やギャラリーの外、公共の場、屋外でのパフォーマンスが模索された。それらはほとんど記録されていないというが、「Outdoor Art Association」(1981-)や「Communication Art Club」(1990-06)などの活動を記録し、それらを映像作品化したのがキム・ヨンジェだ。

パフォーマンスの動作の詳細や印象的なカットはもちろん、その周囲の観賞者の様子も収められている。本展で観賞可能だったパフォーマンスは、布やトイレットペーパーを用いたものが多く、そこに公共空間でのポータビリティと空間的な延性の大きさを両立する戦略性を垣間見た(この方法論のバリエーションは、関連展示であるAsian Cultural Centerの「Walking, Wanderting」でも見ることができるだろう)。映像はいずれも細かく編集されており、これらのパフォーマンスを残すためにどのように撮影すべきか、何が入っている必要があるのか(例えば、観賞側の佇まい)、過分な冗長性を排そうとするかのような緊張感がある。

このように当スペースではとりわけ、表現が何を排除しているかということと、何を残すためにどうやって切り捨てる造形を行なうかという、拮抗に焦点が当たるキュレーションが明確に行なわれている。


キム・ヨンジェの展示風景(筆者撮影)


キム・ヨンジェの展示風景(筆者撮影)


ヨンジェと向かい合わせに展示が始まるのがチョン・ジェ・チョル(1959-2020)の《Map of South Island and North Sea》(2016)だ。本作は韓国の地図がチョルの日記と共に描かれたものだが、チョルがアクセスすることができる範囲が記されているので、地図に北朝鮮は描きこまれていない。韓国の北側には「North Sea」と書かれていて、チョルは「韓国は島のようだ」と海辺に流れ着いたゴミを手に取り、「島の外」を手繰り寄せようとする。チョルは描かないことによって、ありありと朝鮮半島の北部を示す。光州学生運動(1929)や光州事件を念頭に、日本の戦争責任、国とは何かということ、そしてある事物や所感を記録する、表現するとはどういうことかということを、今回の光州ビエンナーレのなかでもっとも作品間から考えさせられたスペースだった。

メインパビリオン以外は無料で観覧可能でした。


ジョン・ジェ・チョルの展示風景(筆者撮影)


ジョン・ジェ・チョルの展示風景(筆者撮影)



参考文献:
・Oliver Basciano, “Vivian Suter: Forces of Nature”(ArtReview, 13 December 2019)
https://artreview.com/ar-december-2019-feature-vivian-suter/
・『5・18民主化運動』(光州広域市5・18紀念文化センター史料編纂委員会、2012)
http://www.518.org/upload/board/0040/20120730115615.pdf



第14回 光州ビエンナーレ:https://14gwangjubiennale.com/

2023/05/07(日)(きりとりめでる)