artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
郷津雅夫展
会期:2018/04/28~2018/06/03
安曇野市豊科近代美術館[長野県]
郷津雅夫は1971年に渡米してニューヨークに住み、ダウンタウンの住人たちにカメラを向けた写真作品を制作し始めた。その後、空き家になってイースト・ヴィレッジの自宅の近くに放置された建物の窓枠を、その周囲の煉瓦や装飾物とともに切り出し、再構築(reconstruct)する彫刻/インスタレーション作品を制作するようになる。故郷の長野県白馬村に近い、安曇野市豊科近代美術館で開催された本展は、その彼の50年近いアーティストとしての軌跡を辿り直すものである。
これまでの郷津の展覧会は、写真かインスタレーションかのどちらかに限定されていることが多かった。定点観測的な手法を用いた「Window」(1971~1989)、「Harry’s Bar」(1976~79)、「264 BOWERY STREET」(1978~79)などの初期の写真作品は、それぞれユニークな質感と厚みを備えた完成度の高い仕事である。だが、生々しい煉瓦の感触を活かした「窓」のインスタレーションと対比して見ることで、郷津がなぜこのようなシリーズを構想したのかが、強いリアリティをともなって伝わってきた。
もうひとつ、今回あらためて感じたのは、「Twin Towers」シリーズ(1971~81)の凄みである。煉瓦を積み直した窓枠の作品を、ニューヨークのツイン・タワーが見える場所に据え、太陽、炎、波などの自然の要素を取り入れて撮影した、スケールの大きな写真作品である。郷津はツイン・タワーの2つの高層ビルを、「対立するもの」の象徴として捉えていたのだという。言うまでもなく「9・11」の同時発生テロで、ツイン・タワーは消失してしまうわけで、そう考えると、郷津はなんらかの予感を覚えてこの建物を被写体に選んだのではないだろうか。この作品に写っているツイン・タワーは、あたかも墓石のようにも見えてくる。
2018/05/24(日)(飯沢耕太郎)
井上佐由紀「私は初めてみた光を覚えていない」
会期:2018/05/19~2018/06/23
nap gallery[東京都]
志が高く、長期にわたって撮影されたいい作品である。井上佐由紀は、病床にあった祖父に、2年間にわたってカメラを向け続けた。「終わりに向かう祖父の目」が次第に光を失い、宙をさまようのを見ているうちに、「ふと初めて光を見る赤子の目を見たい」と思いつく。井上は産院と交渉して、生まれてから5分以内の赤ん坊を、分娩室で撮影させてもらうことにした。この6年間で20人以上の新生児を撮影したのだという。
今回のnap galleryでの展示では、大伸ばしの連続写真のプリントのほか、フィルム1本分をそのまま焼き付けたコンタクト・プリントも並んでいた。それらを見ていると、まさに赤ん坊が目を開け、初めて光を感じとったその瞬間が捉えられているのがわかる。むろん、その瞬間を「覚えて」いる人は誰もいないだろう。それでも、それらの写真はどこか懐かしい気がする。それは「初めて光を見る」という体験が、人種や性別を超えた普遍的な体験だからだろう。まだ顔つきもしっかりと定まっていない新生児たちが、互いに似通って見えてくるのも興味深かった。
このシリーズはこれで終わりというわけではなく、さらに続いていきそうだ。ただ、数を増やしていくことが問題ではないはずなので。そろそろ写真集にまとめることを考えてもよい。会場には大判のプリントを綴じ合せた、ポートフォリオが置いてあったが、もっと小ぶりな造本でもいいのではないかと思う。ぜひ実現してほしい。
2018/05/23(水)(飯沢耕太郎)
石塚公昭「ピクトリアリズム展Ⅲ」
会期:2018/05/12~2018/05/25
青木画廊[東京都]
1957年、東京生まれの石塚公昭は、著名な文学者たちをモデルにした人形作家として活動しながら、それらを画面に配した写真作品を発表してきた。タイトルの「ピクトリアリズム」(pictorialism)というのは、19世紀から20世紀諸島にかけて流行した、絵画の構図やマチエールを写真で表現しようとする傾向である。石塚はこれまで、オイル印画法のような、その時代の古典技法を使った作品を主に制作してきたのだが、3回目の個展となる今回は「人物像の陰影を出さずに撮影し、画面に配した作品」を試みている。もともと、1850~60年代の「ピクトリアリズム」の草創期には、オスカー・G・レイランダーやヘンリー・P・ロビンソンのような作家が、複数のネガをひとつの画面に合成した「活人画」を思わせる作品を発表していた。今回の試みには、「ピクトリアリズム」の原点回帰という意味合いもありそうだ。
三島由紀夫の「潮騒」や「金閣寺」、江戸川乱歩の「黒蜥蜴」や「怪人二十面相」、三遊亭圓朝の「牡丹灯籠」、葛飾北斎の「蛸と海女」などに題材をとり、人形と実際の風景、あるいは石塚自身が描いた絵を合成して、幻想と現実が一体化した画面をつくり上げていく手際は見事なもので、高度に完成されている。カラープリントの色味を強調し、手漉和紙(阿波紙)にプリントする手法もうまくいっていた。27点の作品のなかには、文学作品や浮世絵の図像から離れて、石塚自身のイマジネーションを定着した「陰影のある作品」も含まれているが、それらもなかなか面白い。石塚の「ピクトリアリズム」の探求は、さらにさまざまな可能性を孕んで展開していきそうだ。
2018/05/22(火)(飯沢耕太郎)
21世紀の美術 タグチ・アートコレクション展 アンディ・ウォーホルから奈良美智まで
会期:2018/04/21~2018/06/17
平塚市美術館[神奈川県]
ついでに入った展覧会だが、おもしろい作品がいくつかあった。まず入口脇の壁に掛けられていた淺井裕介の泥絵。高さ7メートルはあろうかという大きな布に土で絵を描いた作品だが、ふだんどうやって保存しているのか、土は落ちないのか心配になる。ジョナサン・モンクの《アフター・スプラッシュ》は青いプールと家を描いたものだが、これはホックニーの有名な《ビガー・スプラッシュ》を知らないとわからない。ホックニーは水しぶきの上がるプールを描いたが、モンクは飛沫を消しているのだ。今津景の《サルダナパールの死》も似たような発想で、ドラクロワの同題の物語画の現代版で、人物や馬が去った後の散乱した室内を描いたもの。これは見事。
ヴィック・ムニーズの《デルフトの眺望(裏面)》は、フェルメールの《デルフト眺望》というタブローの裏側を見せた作品。もちろんニセモノだが、ムニーズはこのために綿密に調査して裏側を正確に再現したという。青山悟の《About Painting 2014-2015》は小さな刺繍で再現した名画を、縦軸の「ラディカル―コンサバティブ」、横軸の「パーソナル―ソーシャル」という座標に当てはめていった作品。ここに挙げた作品は淺井を除いて、すべて美術史を主題にしたり名画をいじったものばかり。ぼくの好みもあるが、外の世界に目を向けるより美術内に宝物が隠されているという認識は、ポストモダン時代ならではの見方だろう。
2018/05/20(村田真)
岡村桂三郎展―異境へ
会期:2018/04/21~2018/06/24
平塚市美術館[神奈川県]
熱海から「岡村桂三郎展」の開かれている平塚へ。岡村の作品は毎春コバヤシ画廊で開かれる個展を何度か見たくらいで、こうしてまとめて見るのは初めて。会場に入ると、まず80-90年代の初期作品が並ぶ。最初の作品は東京藝大の大学院を修了した1985年の《肉を喰うライオンA》で、このころから動物をモチーフにしていたことがわかる。これが導入部で、次に魚や幻獣などを描いた高さ2メートル少々の板パネルが迷路状に並んでおり、そのあいだを通っていくと、高さ3メートルを超す屏風状の大作に囲まれる。これらがここ10年余りのうちに描かれた作品群であり、画廊サイズに合わせて制作されたシリーズをいったん解体し、再構成したものだ。だから1点1点を絵画としてみるより、全体でひとつのインスタレーションとして見るべきだろう。
照明が暗く、画面もほとんどモノクロームなので、そこに彫られた(ここでは「描く」と「彫る」がほぼ同じ)目や動物の輪郭は把握できるものの、それがなんであるかはよくわからない。わからないのも当然で、迦楼羅とか龍とか百鬼とか実在しない怪物が多い上、身体がはみ出して画面に全体が収まっていないからだ。いわゆる群盲象をなでる感覚。それで思い出したが、長沢蘆雪の《白象黒牛図屛風》にどこか似ている。ともあれこの入魂のインスタレーション、「動物画」とか「日本画」みたいな狭い枠で語られることがないよう祈るばかりだ。
2018/05/20(村田真)