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美術に関するレビュー/プレビュー

吹きガラス 妙なるかたち、技の妙

会期:2023/04/22~2023/06/25

サントリー美術館[東京都]

本展に出品されている現代ガラス作家、関野亮の作品「Goblet(mezza stampatura)」シリーズを、実は私が関わるクラウドファンディングで販売させてもらったことがある。彼は若い頃からヴェネチアングラス様式に憧れ、挑戦し、自らの腕を磨いてきた実力派だ。ヴェネチアングラス特有の超絶技巧を透明ガラスで再現することで、装飾的でありながら洗練された作品を多く生み出している。吹きガラスの道に進んだ理由として、「一つひとつの制作時間が非常に短いので、結果がすぐにわかり、何度も試行錯誤できる」ことを彼は挙げている。確かに熔解炉でガラス種を熔かし、熱いうちに息を吹き込んで成形・加工する吹きガラスは、スピード勝負だ。それゆえに型を用いたとしても、つくり手の技量に大きく左右される技法と言える。


船形水差 イタリア 16〜17世紀 サントリー美術館


籠目文赤縁碗形氷コップ 日本 20世紀 個人蔵


本展は古代ローマ、中世ヨーロッパおよび東アジア、近代日本と、古今東西の吹きガラス作品を一覧できる展覧会である。こうして見ると、吹きガラスの成形・加工(ホットワーク)が、15〜17世紀のイタリア・ヴェネチアでひとつの頂点に達したというのは頷けるし、現代ガラス作家が自らの技を磨くうえでひとつの目標にする様式であるのも納得できた。おそらく現代よりも設備が整っていない工房で、当時の職人たちは切磋琢磨して複雑かつ繊細な装飾をつくり上げたに違いない。その彼らの情熱が遺された作品からもヒシと伝わった。

一方で、日本の明治末期から昭和初期にかけて多くつくられたという「氷コップ(かき氷入れ)」にも心惹かれた。確かにこの形状のガラス器を骨董品でよく見るような気がする。まだ紙コップが普及しておらず、冷菓といえばかき氷くらいしかない時代に、氷コップは産業吹きガラスの象徴と言えるものなのだろう。至極シンプルな形状で、凝った技巧があまりないからこそ、親しみがじんわりと湧く。近代日本の文化の一端を知れて興味深かった。また、新進気鋭の若手作家の現代アート作品を鑑賞できたのも有意義だった。器という機能を離れ、純粋にガラスを使って造形表現をした作品は、どれもダイナミズムにあふれている。このダイナミックさは、吹きガラスだから実現できたに違いない。ガラスを熱で熔かすと、まるで飴細工のごとく操れるからだ。現代アートとして見ても、吹きガラスは魅力的な素材と技法であることを痛感した。


小林千紗《しろの くろの かたち 2022》(2022)作家蔵



公式サイト:https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2023_2/

2023/04/28(金)(杉江あこ)

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ARTIX㎥オープン記念展「中間地帯 interface」

会期:2023/04/28~2023/05/28

ARTIX³(アーティクス・キューブ)[東京都]

近年、大学の写真学科や写真専門学校の学生のうち、中国人留学生が占める割合が、急速に上がってきている。一部の写真専門学校では、半数以上が中国人という学年も出てきているほどだ。また、各種の公募企画でも中国人作家が入賞することが多くなった。今後、彼らの影響力はさらに大きくなっていくのではないだろうか。

 

そのような状況において、ともに東京藝術大学先端芸術表現専攻で学んだ許力静と王露を中心として、日本と中国の写真家たちの交流を促進することを主な目的として、日本国際文化芸術協会(JCA)が設立された。その展示・発表の場として、東京・根岸にギャラリー・スペース、ARTIX㎥(アーティクス・キューブ)が開設され、オープン記念展として林志鵬(リン・チーペン)、張克純(ジャン・クゥーチュン)、陳蕭伊(チェン・シャオイ)による3人展が開催された。

若い男女の「愛と混沌」の状況をポップなタッチで描き出す林、植木や庭石の流通センターの情景を批評的に切りとってくる張、中国中西部の山岳地帯の鉱山遺跡を、重厚な叙事詩を思わせる映像作品として提示する陳――彼らの作品が、まったく別な方向に引き裂かれているところに、中国現代写真のあり方が端的にあらわれている。だが逆にそれぞれの制作環境の違いが、作品にヴィヴィッドに反映されていて、見応えのある展示になっていた。ARTIX㎥が今後どのような方向に進んでいくのかはわからないが、日本と中国の実りの多い相互交流の場としての活動を期待したい。


公式サイト:https://www.jca3.art/interface

2023/04/28(金)(飯沢耕太郎)

マティス展

会期:2023/04/27~2023/08/20

東京都美術館[東京都]

近代絵画のなかで「わかりにくい」画家というのが何人かいる。その代表がセザンヌとマティスだ。このふたりは近代美術史上きわめて重要な地位を占める割に、日本では同時代のモネやピカソほどの人気はない。要するに「通好み」なのだ。

このふたりに共通するのは、ここだけの話だが、絵がヘタなこと。もちろんヘタといっても、マティスの場合ライバルとされるピカソに比べればということで、今回の展覧会冒頭に展示されている《読書する女性》(1895)を見れば、いちおうアカデミックな描写力を備えていることはわかる。でも見るたびに、なんでこんな雑な塗り方をするんだろうとか、なんでこんな不細工なデフォルメをするんだろうとか、いちいち気になるのだ。でもひょっとしたら、マティスはピカソほど画力がなかったからこそ、色彩表現と対象描写という両立しがたいふたつの要素を結びつけることができたのかもしれない。なーんて思ったりもする。

今回の出品作品は、パリのポンピドゥー・センター(国立近代美術館)から借りてきたもの。会場に入ると、おお《豪奢、静寂、逸楽》(1904)があるなあ、《豪奢Ⅰ》(1907)も来ている。でもヘッタクソだなあ、と見ていくと、《金魚鉢のある室内》(1914)《コリウールのフランス窓》(1914)《アトリエの画家》(1916-17)《窓辺のヴァイオリン奏者》(1918)が並ぶ一画で足が止まった。みんな窓を描いている。窓はそれ以前にも《サン・ミシェル橋》、以後も《ニースのシエスタ、室内》などにも登場するので珍しくないが、この4点はいずれも第1次大戦中の制作(1914-18)。



展示風景 左:《アトリエの画家》 右:《金魚鉢のある室内》  [筆者撮影]


《金魚鉢のある室内》と《アトリエの画家》はセーヌ河岸のアトリエ風景で、いずれも右上の窓から外の景色が見えている。前者の金魚鉢はガラス製で水をたたえているので、ガラス窓の向こうのセーヌ川と水色でつながっているように見える。後者は画家と女性モデルとイーゼル上の絵が描かれているが、着衣のモデルは画中画と合わせてダブルで登場し、画家のほうは男性らしいが、なぜか裸のようだ。着衣の男性画家と、ヌードの女性モデルという従来の立場が入れ替わっている。

一方《コリウールのフランス窓》と《窓辺のヴァイオリン奏者》は、どちらも観音開きのフランス窓を正面から描いている点では同じだが、中身はまるで違う。前者は、左右を青白色と緑白色および灰色の帯が縦に走り、開口部に当たる中央が黒く塗り込められ、ほとんど抽象絵画。いわれてみれば確かにフランス窓だが、だとすれば窓の外は真っ暗闇なのか。この絵が制作されたのは1914年。第1次世界大戦が始まった年であり、マティスがパリを逃れて南仏コリウールに一時的に滞在したときの作品だ。そんな暗黒時代に暗い気分で描いたから真っ黒なのだ、といわれて真に受けるほど素直ではないけれど、つい納得したくなる。ちなみに「フランス窓(フレンチ・ウィンドウ)」をもじったマルセル・デュシャンの《フレッシュ・ウィドウ》(なりたての未亡人)も、窓のガラス部分を黒くして向こう側を見えなくしている。デュシャンはマティスを参照したのだろうか。



展示風景 左:《コリウールのフランス窓》 右:《窓辺のヴァイオリン奏者》  [筆者撮影]


もうひとつ、1914年といえば、カンディンスキーとモンドリアンが抽象絵画に至った時期でもある。マティスは最後まで再現描写を捨てなかったので、本作を抽象と見るのは無理があるが、多くの芸術家が抽象に向かっていた時代であることは事実だろう。

《コリウールのフランス窓》が開戦の年なら、《窓辺のヴァイオリン奏者》は終戦の年の作品。前者の中央の黒い部分が明るくなり、そこにヴァイオリンを弾く人物の立ち姿が描かれている。この一夜明けたような明るさを、未曾有の戦いが終わったことと関連づけるのは単純すぎるだろうか。それにしてもこの奏者は《アトリエの画家》の画家と同じく斜め後ろ向きで、なんでここまでヘタに描く必要があるのかと訝るほどデフォルメされている。

この4点の前で足が止まったと述べたのは、窓が描かれているからというだけでなく、実はこれらの額縁がほかに比べて装飾のないシンプルなものだったからでもある。シンプルな額はほかにもあるが、この連続する4点の額がまとまってシンプルだったのは偶然とは思えない。西洋ではしばしば絵画は窓にたとえられるが、それは世界を四角く切り取って(フレーミング)向こうを見通す装置だからだろう。だとすれば、窓を描いた絵に額縁(フレーム)をつけるのは屋上屋を架すようなものではないか。そう考えてこれらの作品はシンプルなフレームに抑えたのではないかと想像するのだ。ポンピドゥー・センターの見識というものだろう。


公式サイト:https://matisse2023.exhibit.jp/

2023/04/26(水)(村田真)

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山城知佳子 ベラウの花

会期:2023/03/21~2023/06/04

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館[香川県]

「山城知佳子 リフレーミング」(2021、東京都写真美術館)、「Tokyo Contemporary Art Award 2020-2022 受賞記念展」(2022、東京都現代美術館)、初期作品が一挙に収蔵された「コレクション1 遠い場所/近い場所」(2022、国立国際美術館)と、国公立美術館での大きな展示が続く山城知佳子。西日本初の大規模個展となる本展では、初期の「オキナワTOURIST」3部作(2004)から新作《ベラウの花》(2023)までの計18点が展示された。映像中心の展示は「音響の干渉」がネックだが、本展ではあえて展示壁での分断やヘッドホン着用を設けず、作品どうしの音が戦略的に共振する秀逸な音響設計が行なわれた。

会場に入ると、まずはくぐもった水音が聴こえてくる。海中に沈み、奇妙な水中植物のように揺らめくマイクの束から空気の泡が立ち上り、「抑圧された声の解放」とその「聴きとれなさ」を同時に示す《沈む声、紅い息》(2010)だ。会場を進むにつれ、作品どうしの境界線が音響とともに混ざり合い、波の音に歌う声や銃声が重なり合い、死者/生者の境界線も揺らいでいく。マイクに封じられた(匿名的な死者たちの)記憶と声。木漏れ日の濃い陰影の中に潜む人々が大地と一体化したかのように横たわる《コロスの唄》(2010)(本展出品作ではないが、代表作の《土の人》[2016]を予感させる)。




《肉屋の女》(2012)から《チンビン・ウェスタン 家族の表象》(2019)へと続く展開では、神話的世界と基地をめぐる沖縄の生々しい現実が交錯する。《チンビン・ウェスタン 家族の表象》で描かれる2組の家族のうち片方には、辺野古の埋め立て用の土砂を運搬する仕事に就く父親が登場する。リビングを舞台に、父親と母親がそれぞれオペラと琉歌で「理想的な家族愛」を歌い上げる噛み合わない掛け合いと、それを冷静に見つめる子どもの眼差しは、「基地問題」が政治の世界だけのものではなく、家庭内をきしませる要因でもあることを突きつける。本展では新たなインスタレーションとして構成し、真っ赤な布に包まれた一見かわいらしい「子ども部屋」の中で上映された。だが、中央のテレビ画面を見つめるのは、米軍基地の子ども向け土産品と思われる、陸軍や海軍の制服を着たテディベアたちだ。



この子ども部屋に開けられた「窓」からは、隣の作品の巨大なスクリーンが視界に入り込み、「ある老人の記憶」を思わせる映像が流れ込んでくる。新作《ベラウの花》だ。ゆっくりと町を歩き、バスに乗る老人。窓際の席に座る老いた横顔。だが、「車窓の風景」のトーンは粗くざらついた質感に変わり、どこか外国の南国の風景が流れていく。ヤシの木が続く道、廃墟を背に泣いている幼い男の子、草の上を転がる白い花、波しぶき、伐採が進むジャングル。「バスに乗る老人」の鮮明な映像と、南国の粗い映像が交互に映される。

本作は、山城自身の父親である小説家の山城達雄が、戦時中、日本の委任統治領だったパラオで幼少期を過ごした経験をもとに制作された。「ベラウ」とはパラオ共和国の言語で「パラオ」を指し、作品タイトルは山城達雄の同名の短編小説に基づく。沖縄の映像はデジタルで、パラオの映像は8ミリフィルムで撮影された。映像の質感の違いは、「記憶を旅するバス」に私たちも乗り込み、現在と過去、沖縄とパラオを行き来する旅に同行しているような感覚を生み出す。同時に、現在と過去の境目が混濁する時間感覚は、認知症的でもある。また、しばしば挿入される「何も映らず、感光の跡だけが赤く焼きついたコマ」は、フラッシュバック、記憶の空白、「編集」済みの記憶を示唆する。

さらに本作が周到なのは、「現在・沖縄・客観性=鮮明なデジタル映像/過去・パラオ・主観的記憶=粗い8ミリ映像」という二項図式が崩される瞬間だ。幼少期の断片的な記憶を再生するように次々と映されるパラオの風物。「歩く老人の後姿」にカットが切り替わるが、映像の質感は粗くざらついたままで、「現在」には戻れない。だが老人がバスに乗り込むと、鮮明な「現在」に時間が移動する。キャプションには上映時間は明記されず、「ループ」とだけ記される。「終点」「目的地」でバスを降りず、メビウスの帯のようにつながった現在と記憶を永遠に行き来する老人は、認知症が方向感覚を喪失した「記憶のなかの徘徊」でもあることを示す。パラオの風景は光にあふれてひたすら美しく、沖縄戦の記録映像を引用した《土の人》とは異なり、「戦争」の映像は不在だ。だが、隣接する《チンビン・ウェスタン 家族の表象》で「インターバル」として挿入される、ヒューマンビートボックスによる激しい銃撃の音が侵入し、「トラウマ的な記憶の欠落」を音響的に示唆する。そして、彼の抱える個人的な「記憶障害」は、「移民政策により、パラオやサイパンなどの南洋諸島、ハワイや南米に移住した沖縄人」をほぼ記憶喪失している現在の日本についての謂いでもある。



この《ベラウの花》の先に広がるのは、同じ老人が佇む浜辺を、シルエットがぼかされた無数の人々が行き交う8チャンネルの映像作品《彼方》(2022)だ。靴を履いた老人に対し、裸足の人々は「死者」を思わせる。死者の幻影と生者が交錯する記憶の波打ち際。ここでもまた、老人自身の幼少期にも見える男児が登場する。男児が掬い上げる泥遊びの土は、泥を掴む老人の指とオーバーラップし、「無邪気な遊びの記憶の再演」とも「指の間からこぼれていく記憶の形を留めたい」願望ともとれる。そこに、これまで通過してきた作品群の音響──波しぶきの水音、銃声あるいはブルドーザーの轟音、女性の歌声──が重なり合い、観客自身の鑑賞体験も「記憶の残響」として混ざり合う。

この《彼方》は、「Tokyo Contemporary Art Award 2020-2022受賞記念展」での初公開時は、《チンビン・ウェスタン 家族の表象》とともに展示されたが、両作品の関連性が見えず、展示としてはまとまりを欠いた印象だった。だが本展では、《ベラウの花》がクッションとなり、説得力のある軸線を描き出していた。



《ベラウの花》は、また別の角度から見ると、「沖縄の記憶」という山城のライフワーク的テーマに対し、映像メディウムへの自己言及を組み込んだ点で新たな展開でもある。実際には、山城の父親がパラオにいた戦前、カラー8ミリフィルムはまだ一般的に普及していない。にもかかわらず、私たちは「山城の父親自身の記憶」であるかのように錯覚してしまう。「映像メディウム自体の歴史や差異により、“時間差”を発生させ、記憶をフィクショナルに捏造する」という新たな語り方を手にした山城の今後にも注目したい。

なお、「沖縄における記憶と現在」をメディウム内部の差異とともに扱う姿勢は、同時期に開催されたオサム・ジェームス・中川、タイラジュン「UNDERFOOT」展とも共通しており、同評をあわせて参照されたい。


公式サイト:https://www.mimoca.org/ja/exhibitions/2023/03/21/2652/

関連レビュー

オサム・ジェームス・中川、タイラジュン「UNDERFOOT」|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年05月15日号)
コレクション1 遠い場所/近い場所|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年08月01日号)
KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2017 山城知佳子「土の唄」|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年05月15日号)
山城知佳子作品展|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年12月15日号)

2023/04/23(日)(高嶋慈)

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開館20周年記念展 ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会

会期:2023/04/19~2023/09/24

森美術館[東京都]

なんだと? 現代美術を国語、算数、理科、社会などの科目に分けて紹介する? しかも出品作品の約半数が同館のコレクションだと? いよいよ森美術館もネタに尽きて子どもだましの企画に走ったか……と思ったが、実際に見てみたら、確かに取ってつけたようなテーマでまとめたり、総花的に紹介したりするより、このほうが圧倒的におもしろいし、わかりやすい。なんだ、すっかり術中にハマってしまったではないか。

科目は国語算数理科社会に、哲学、音楽、体育、総合を加えた8科目。出品作家は計54組だが、社会だけ19組と飛び抜けて多く、全体の3分の1強を占めている。これは社会的テーマを扱った作品が多いということで、森美術館の志向・嗜好を反映したものだ。興味深いのは、どの作品がどの教科に分類されているかだ。

「国語」は、シャベルを実物、写真、言葉によって表わしたジョセフ・コスースの《1つと3つのシャベル》(1965)や、著名人の原稿を本人の眼鏡越しに撮った米田知子の「見えるものと見えないもののあいだ」シリーズなど、やはり文字や言葉が出てくる作品が多い。でもコスース作品は、ものとイメージと概念について考えさせるという点で「哲学」のほうがふさわしいかも。

「社会」は、社会彫刻を提唱したヨーゼフ・ボイスの《黒板》(1984)から、インドネシアのコレクティブ、ジャカルタ・ウェイステッド・アーティストが集めた商店の看板まで幅広い。そういえば、巨大な黒板にチョークでびっしりメッセージを書き込んだワン・チンソン《フォロー・ミー》(2003)は「国語」なのに、ボイスの《黒板》が「社会」に入っているのは単に文字が少ないからだろうか。おや? と思ったのは、森村泰昌がマネの《オランピア》の登場人物に扮して写真にした《肖像(双子)》(1989)と《モデルヌ・オランピア2018》(2017-2018)の2点があること。前者は白人と黒人の女性をそれぞれ日本人男性が扮することの違和感が焦点だったが、30年近い年月を隔てて制作された後者では、明らかにジェンダー、人種、身分といった社会的な差別問題が強調されているからだと解釈すべきか。

「哲学」も悩ましい。現代美術は基本的に哲学なしに成り立たないから、この科目は入れないほうがよかったかもしれない。豆腐の表面にお経を書いていくツァイ・チャウエイの映像《豆腐にお経》(2005)は、分類するなら「哲学」より「国語」ではないか。1万個のLEDが9から1までカウントする宮島達男の《Innumerable Life/Buddha CCICC-01》(2度目のCCは裏返し)(2018)は、端的にいって「算数」だろう。いちばん首を傾げたのは、目を瞑る少女を描いた奈良美智の《Miss Moonlight》(2020)。確かに少女は沈思黙考しているようだが、「本作の持つ精神性やある種の神聖さはマーク・ロスコの絵画にも通じ、その作品と対峙する体験は、自己の精神との対峙を促すとも言える」との解説は言いすぎだろう。

突っ込んでいけばキリがないが、最後に思ったのは「美術」という科目がないこと。もちろんすべて「美術」だから入れる必要はないだろうけど、でもひょっとしたら、ここには「美術」の名に値する作品がないからだったりして。まさかね。


公式サイト:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/classroom/02/index.html

2023/04/18(火)(村田真)

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