artscapeレビュー
マティス展
2023年06月01日号
会期:2023/04/27~2023/08/20
東京都美術館[東京都]
近代絵画のなかで「わかりにくい」画家というのが何人かいる。その代表がセザンヌとマティスだ。このふたりは近代美術史上きわめて重要な地位を占める割に、日本では同時代のモネやピカソほどの人気はない。要するに「通好み」なのだ。
このふたりに共通するのは、ここだけの話だが、絵がヘタなこと。もちろんヘタといっても、マティスの場合ライバルとされるピカソに比べればということで、今回の展覧会冒頭に展示されている《読書する女性》(1895)を見れば、いちおうアカデミックな描写力を備えていることはわかる。でも見るたびに、なんでこんな雑な塗り方をするんだろうとか、なんでこんな不細工なデフォルメをするんだろうとか、いちいち気になるのだ。でもひょっとしたら、マティスはピカソほど画力がなかったからこそ、色彩表現と対象描写という両立しがたいふたつの要素を結びつけることができたのかもしれない。なーんて思ったりもする。
今回の出品作品は、パリのポンピドゥー・センター(国立近代美術館)から借りてきたもの。会場に入ると、おお《豪奢、静寂、逸楽》(1904)があるなあ、《豪奢Ⅰ》(1907)も来ている。でもヘッタクソだなあ、と見ていくと、《金魚鉢のある室内》(1914)《コリウールのフランス窓》(1914)《アトリエの画家》(1916-17)《窓辺のヴァイオリン奏者》(1918)が並ぶ一画で足が止まった。みんな窓を描いている。窓はそれ以前にも《サン・ミシェル橋》、以後も《ニースのシエスタ、室内》などにも登場するので珍しくないが、この4点はいずれも第1次大戦中の制作(1914-18)。
《金魚鉢のある室内》と《アトリエの画家》はセーヌ河岸のアトリエ風景で、いずれも右上の窓から外の景色が見えている。前者の金魚鉢はガラス製で水をたたえているので、ガラス窓の向こうのセーヌ川と水色でつながっているように見える。後者は画家と女性モデルとイーゼル上の絵が描かれているが、着衣のモデルは画中画と合わせてダブルで登場し、画家のほうは男性らしいが、なぜか裸のようだ。着衣の男性画家と、ヌードの女性モデルという従来の立場が入れ替わっている。
一方《コリウールのフランス窓》と《窓辺のヴァイオリン奏者》は、どちらも観音開きのフランス窓を正面から描いている点では同じだが、中身はまるで違う。前者は、左右を青白色と緑白色および灰色の帯が縦に走り、開口部に当たる中央が黒く塗り込められ、ほとんど抽象絵画。いわれてみれば確かにフランス窓だが、だとすれば窓の外は真っ暗闇なのか。この絵が制作されたのは1914年。第1次世界大戦が始まった年であり、マティスがパリを逃れて南仏コリウールに一時的に滞在したときの作品だ。そんな暗黒時代に暗い気分で描いたから真っ黒なのだ、といわれて真に受けるほど素直ではないけれど、つい納得したくなる。ちなみに「フランス窓(フレンチ・ウィンドウ)」をもじったマルセル・デュシャンの《フレッシュ・ウィドウ》(なりたての未亡人)も、窓のガラス部分を黒くして向こう側を見えなくしている。デュシャンはマティスを参照したのだろうか。
もうひとつ、1914年といえば、カンディンスキーとモンドリアンが抽象絵画に至った時期でもある。マティスは最後まで再現描写を捨てなかったので、本作を抽象と見るのは無理があるが、多くの芸術家が抽象に向かっていた時代であることは事実だろう。
《コリウールのフランス窓》が開戦の年なら、《窓辺のヴァイオリン奏者》は終戦の年の作品。前者の中央の黒い部分が明るくなり、そこにヴァイオリンを弾く人物の立ち姿が描かれている。この一夜明けたような明るさを、未曾有の戦いが終わったことと関連づけるのは単純すぎるだろうか。それにしてもこの奏者は《アトリエの画家》の画家と同じく斜め後ろ向きで、なんでここまでヘタに描く必要があるのかと訝るほどデフォルメされている。
この4点の前で足が止まったと述べたのは、窓が描かれているからというだけでなく、実はこれらの額縁がほかに比べて装飾のないシンプルなものだったからでもある。シンプルな額はほかにもあるが、この連続する4点の額がまとまってシンプルだったのは偶然とは思えない。西洋ではしばしば絵画は窓にたとえられるが、それは世界を四角く切り取って(フレーミング)向こうを見通す装置だからだろう。だとすれば、窓を描いた絵に額縁(フレーム)をつけるのは屋上屋を架すようなものではないか。そう考えてこれらの作品はシンプルなフレームに抑えたのではないかと想像するのだ。ポンピドゥー・センターの見識というものだろう。
公式サイト:https://matisse2023.exhibit.jp/
2023/04/26(水)(村田真)