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美術に関するレビュー/プレビュー

東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密

会期:2023/03/17~2023/05/14

東京国立近代美術館[東京都]

昨年、東博が開館150年を記念して「国宝」を一挙ご開帳したと思ったら、今度は開館70年の東近美が「重要文化財」を集めた展覧会を開いている。国宝よりは見劣りするけれど、重要文化財のなかから国宝が指定されるので、百年後、千年後の「国宝」展と考えればいい。そう思って見に行くヤツはいないだろうけど。

重要文化財(重文)とは、日本にある美術工芸品や建造物などのうち歴史的・芸術的・学術的に価値が高いと国が認めたもの。そのなかで特に価値が高いものを「国宝」として国が指定する。この文化財保護法が公布・施行されたのが1950年で、明治以降につくられた美術品が初めて重文に指定されたのが1955年のこと(近代美術の国宝はまだない)。その間の1952年に東京国立近代美術館が誕生したので、重文と近美は同世代で相性がいい、と同時に、似たような悩みを抱えてもいるらしい。

というのも、近代美術(ここはモダンアートといっておこう)とは伝統的な価値観に縛られず、新しい表現を生み出していく運動であり、そこでは権威に逆らう問題作ほど評価されることが多く、近美も含めて美術館や文化財保護法といった権威づけの制度にはなじまないからだ。そもそもだれが、なにをもって「価値が高い」と判断するのか。特にモダンアートの価値基準はいまだ流動的であり(それゆえモダンアートなのだ)、「なんでこの作品が重文で、あの作品は違うのか?」なんて不満も出てくる。タイトルの「重要文化財の秘密」とは、そうしたモダンアートの抱えるジレンマを表わしているのだろう。そのジレンマはまさに近代美術館が抱えるものでもある。

重文に指定された近代美術品は計70点(鏑木清方の3点の連作を1件と数えれば68件)で、内訳は日本画34点、洋画21点、彫刻6点、工芸9点。日本画が約半数を占め、彫刻が意外に少ない。うち今回の出品作品は51点で、日本画25点、洋画15点、彫刻4点、工芸7点になる。指定された順に見ると、1955年に4点、1956年に2点が指定されたがいずれも日本画で、以後なぜか10年空き、1967年から洋画と彫刻にも門戸が開かれ、2001年にようやく工芸からも指定されるようになった。この日本画・洋画・彫刻・工芸というヒエラルキー、現在でも日展に引き継がれているが、そろそろ日本画と洋画くらい絵画で統一したらどうだろう。もし村上隆の作品が指定されたら、どっちに入れるつもりだ?

出品点数は日本画が約半数だが、会場は日本画が3分の2かそれ以上を占めている。そのためようやく日本画が終わり洋画が始まったと思ったら、瞬く間に終わってしまった。これは日本画には絵巻や屏風絵など長大な作品が多いからだ。なんとなく日本画より洋画のほうが大作が多いと思いがちだが、少なくとも重文に関してはそうではない。なかでも長大なのが横山大観の《生々流転》(1923)で、実に40メートルに及ぶ。ちなみにこの作品、制作してから重文指定される(1967)までの期間がもっとも短く、44年しかたっていない(つーか、44年で最短かよ)。また、重文のなかでもっとも新しい作品は、日米開戦前に制作された安田靱彦の《黄瀬川陣》(1940/1941)で、黄瀬川に陣を張る源頼朝の元に弟の義経が駆けつけた場面を描いている。時代を考えれば国威発揚のための戦争画と見ることもできる。

以後80余年経つが、その間の作品は1点も重文に指定されていない。では次に指定されそうな作品はなんだろう。大作かつ問題作といえば、藤田嗣治の《アッツ島玉砕》(1943)をはじめとする戦争画を候補に挙げたいが、たぶん体制が大きく変わらない限り無理だろうね。だいいち大半がアメリカから永久貸与されたものだし。戦争関連でいえば、丸木位里・俊による連作《原爆の図》(1950-1982)も有力候補だ。女性作家はどうだろう。これまで上村松園だけというのはあまりに寂しいけど、かといって洋画や彫刻に候補がいるかというと厳しいといわざるをえない。いずれ草間彌生の名前が挙がるかもしれないが、その前に人間国宝にしたほうがいいんじゃないか。


公式サイト:https://jubun2023.jp

2023/03/16(木)(村田真)

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真月洋子「a priori」

会期:2023/03/13~2023/03/18

巷房・1[東京都]

先に本欄で紹介した初芝涼子「Consciousness」もそうなのだが、東京・銀座の巷房では、いい仕事をしているのだが、これまであまり見る機会がなかった写真家の作品が展示されることがある。今回の真月洋子展も、とてもクオリティが高く見応えのある展覧会だった。

真月は1998年~2004年に「a priori」と題した写真シリーズを制作し、2013年には同名の写真集を蒼穹舎から刊行している。今回の展示作品は、その続編というべきだろう。だが、同じく身体(ヌード)と植物(花)というテーマを扱っていても、旧作と新作ではかなり肌合いが違ってきている。以前は身体に直接、植物の画像を投影して撮影していたのだが、今回は複数の画像を合成してプリントした。そのことで、視覚的な要素よりも「皮膚から皮膚へと直接語りかける」触覚的な要素がより強調されるようになり、画像の緊密度が上がってきた。

また、真月がなぜ身体と植物との関係性にこだわるのかが、丁寧に仕上げられたコロタイプによる緻密な画像によって、説得力をもって表現できるようになった。真月は、植物を媒介にすることで、「時間の経過がひとの体にもたらすもの」をくっきりと浮かびあがらせることができると考えているようだ。今後は、ひとつの画面に収束するのではなく、複数の写真を組み合わせて並置することで、大判プリントによる、より広がりのあるインスタレーションも可能になるのではないだろうか。

なお、今回も展覧会に合わせて写真集『a priori』(蒼穹舎)が刊行された。印刷に気を配った丁寧な造本の写真集である。

2023/03/15(水)(飯沢耕太郎)

小川佳夫展

会期:2023/02/20~2023/03/11

ギャラリーQ[東京都]

ほぼモノクロームに近い下地の絵具の上に、ペインティングナイフでサッと、あるいはサッサーッと勢いのあるストロークで絵具を塗りつけている。地の色は決まっていないが、何色も混ぜたり重ね塗りしたりしているせいか分厚く、刷毛目が残り、独特のニュアンスが感じられる。その上に塗る絵具は下地とは明暗が逆で、乾いていない下地を抉って下層の絵具を露出させている場合もある。ストロークは不定形で一振りか二振り程度だが、どことなくひらがなを想起させ、書に見えないこともない。

あえて似ている作品を探せば、李禹煥の1980年代の〈線より〉か。しかし李は乳白色の地に群青でストロークを描くため、地と図の主従関係が明白で、どこか禅画を思わせるのに対して、小川は地の存在感が強いうえ、ストロークも線描というより面描というべき太さのものもあるため、地と図が対等に近い関係にあるように見える。一見、感覚的に思えるストロークも、実は入念に色彩や形態を考え抜いているのではないか。最近はイラストまがいのマンガチックな絵や、キーワードを入力するだけで画像が出てくるAI絵画などがはびこるなか、久々に絵画を見る喜びを伝えてくる。絵を見る喜びとは、それを描く人の喜びに共振するだけでなく、作者の苦悩をも同時に分かち合うことのできる贅沢で豊かな体験だと思う。


展示風景[写真提供:ギャラリーQ]



公式サイト:http://www.galleryq.info/exhibition2023/exhibition2023-007.html

2023/03/11(土)(村田真)

第16回 shiseido art egg YU SORA展

会期:2023/03/07~2023/04/09

資生堂ギャラリー[東京都 ]

展覧会場はほとんど白一色。壁掛けの平面も、床置きの立体もほぼ真っ白。平面のほうは、白い布地に黒い糸(例外的に白い糸もある)でハサミ、イヤホン、メガネ、椅子、腕時計、脱ぎ捨てた服といった身近な日用品のかたちを縫っている。白い地は真っ平らな平面ではなく、薄いクッションが入っているのか、縫った部分が少し凹んで浅いレリーフ状になっている。この黒い糸による線は物の輪郭線を表わしており、まさに身の回りにあるありふれた物体を一つひとつそれがなんであるか、どんなかたちをしているかを確認するかのように、まっさらな面に移し(写し)ていく行為の痕跡といっていいだろう。



展示風景[筆者撮影]


立体のほうは、机、椅子、ベッド、カーテン、食器、棚など平面に描かれたものよりは少し大きめの家具を真っ白い立体物として組み立て、その角やシワに沿って黒い糸を走らせている。つまり物体の凹凸を強調するかのように黒い線を重ね、輪郭を際立たせているようにも見える。だから立体作品ではあっても彫刻ではなく、あくまで輪郭線にこだわる絵画の延長であり、いわば立体絵画とでもいおうか。



展示風景[筆者撮影]


タイトルの「もずく、たまご」とは、ある日ローソンで買った買い物の品目らしい。そのレシートも作品化され、文字部分が黒い糸で縫われているが、いうまでもなく文字は平面に書かれるものだから輪郭線ではない。そう思って見直してみると、本のタイトルや牛乳パックの商品名は黒い糸で書かれていた。なるほど、そのものがなんであるかを認識するには、形態だけでなく文字も重要な情報になるという当たり前のことに改めて気づかせてくれる。レシートに文字が書かれていなかったら、ただの小さな四角い平面だもんね。ところで、なぜ「もずく、たまご」なのか。たまたま買っただけで、そこに意味を見出す必要はないが、あえて邪推すれば、モズクは黒くて細く、卵は白いので、彼女の作品の特徴を端的に表わしている。もっと突っ込めば、どちらもドロッと流動的で、ドライでクールな作品とのギャップが鮮やかだ。まあ彼女がそこまで考えていたかどうか知らんけど。


公式サイト:https://gallery.shiseido.com/jp/exhibition/5655/

2023/03/11(土)(村田真)

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糸井貫二木版画展

会期:2023/03/06~2023/03/11

ギャラリーヤマト[東京都]

1960年代に開始したパフォーマンスとメール・アート、「ダダカン」の通称で知られる糸井貫二の初期作品が展示されると聞き、駆けつけた。1954年4月から60年11月にかけて『遊 連句と俳石』の表紙やカットとして制作された版画を中心に、糸井の元に残されていた作品で構成されている。ダダカン連のメンバーが調査し、2022年に仙台で初の展覧会を開催、その東京版として今回の展示が企画されたという。

糸井の活動は通称の「ダダ」が示すように、歴史のなかに位置づけようとすると、さまざまな困難を伴う。というのも、黒ダライ児の調査によれば、糸井のパフォーマンスは「日時・場所を事前に告知して行われたものすらほとんどなく、予定も設定もなく行われるか他の作家たちが設定したイベントに便乗して行われた」ほか、「糸井の手元にあった貴重な資料もメール・アートによる送付や様々な原因で散逸・紛失してしまったものが多い」という背景がある。そのため、作家自身やその場に同席していた人々、当時の文献などから得られる証言、記録写真などからでなければ、活動を捉えること自体が難しい。また、危険物、猥褻物としての規制や、黒ダがアマチュア的「限界芸術」の実践者と呼ぶような側面も、糸井の評価が遅れた理由と言えるだろう。椹木野衣が『戦争と万博』(美術出版社、2005)で紹介した、大阪万博のお祭り広場を全裸で走るハプニングがおそらく最もよく知られているが、いわばセンセーショナルな側面に隠れてしまいがちな糸井の活動を、異なる視点から考えることができたのは、今回の大きな収穫であった。

《詩画(ごあいさつ)》(1957頃)には、長男との生活のひとコマが垣間見える。その柔らかな眼差しは、《菩薩像》(1960)、《仏頭》(1963)のような宗教的かつ身近なモチーフから読み取れる祈りの姿勢とも通じるものである。その間に配置された、《いけにえ(宇宙犬ライカ)》《原子炉(1)》からは、時事問題への意識が窺える。両作品の年代は記されていないが、1957年にソビエト連邦が宇宙開発の実験のためスプートニク2号に乗せた宇宙犬ライカ、亀倉雄策が国際原子力平和利用会議のために制作し、1956年に日本宣伝美術会会員賞を受賞したポスター《原子エネルギーを平和産業に!》などを想起させる。(ダダカン連メンバーの細谷修平によれば、宇宙犬ライカは同時期の記念切手のモチーフになっており、そのイメージを参考にした可能性が高いという)



詩画(ごあいさつ)(1957頃)、木版/墨書/紙、38.9×26.7(台紙45.0×32.7)㎝、[版画右下に]白文方印「か」
[© Itoi Yoshirō / Courtesy of Postwar Art Documents Conservation Inc.]



左:菩薩像(2)(1960)、木版/紙(『週刊サンケイ』)、25.8×18.0㎝、[右下に]赤色スタンプ「KAN ITOI」
右:菩薩像(6)、木版/紙、23.0×12.4(28.3×22.0)㎝、[左下に]ITOI(1960)、朱文方印「糸井貫二」
[© Itoi Yoshirō / Courtesy of Postwar Art Documents Conservation Inc.]



仏頭(1963、第4回勤労者美術展出品)、木版/紙(台紙貼込)、28.6×37.9㎝
[© Itoi Yoshirō / Courtesy of Postwar Art Documents Conservation Inc.]



いけにえ(宇宙犬ライカ)、木版/紙、13.9×13.4(40.0×26.9)㎝、[右上に]いけにえ、[左下に]白文方印「か」
[© Itoi Yoshirō / Courtesy of Postwar Art Documents Conservation Inc.]



原子炉(1)、木版/紙、18.0×17.2(41.0×31.4)㎝
[© Itoi Yoshirō / Courtesy of Postwar Art Documents Conservation Inc.]


糸井が日常のなかに留めた言葉や視点は、決して声高ではないが、生活に根ざした「反芸術」の批評意識が息づいていることを感じさせる。糸井にとって「反芸術」は一過性の様式などではなく、生涯を通じた実践であったことを、身をもって知ることができた。かく言う私自身、10年ほど前に糸井からの封書でポルノ雑誌から切り抜かれた女性の写真や男性器をかたどった複数の紙片を受け取ったことがある。メール・アートという宛先のある表現ならではの直接性を体験しつつも、男女の間に生じるパワーバランスの感覚とは無縁の清々しさすら感じられたことがずっと印象に残っていた。今回鑑賞した作品を通じて10年越しで糸井の取り組みへの新たな回路が開かれたことを、心して受け止めたいと思ったのである。

★1──黒ダライ児『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』(グラムブックス、2010年、p.410)糸井の作品は同書の表紙としても用いられている。

2023/03/11(土)(伊村靖子)