artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
祈り・藤原新也
会期:2022/11/26~2023/01/29
世田谷美術館[東京都]
藤原新也の50年以上にわたる表現者としての歩み、そこに産み落とされてきた写真、書、絵画、そして言葉を一堂に会した大展覧会である。初期作から最新作まで、200点以上の作品が並ぶ会場を行きつ戻りつしながら考えていたのは、この人は果たして写真家なのだろうかということだった。
むろん、木村伊兵衛写真賞や毎日芸術賞など数々の賞を受賞してきた彼の写真家としての実績は、誰にも否定できないだろう。だが一方で、ごく初期から、藤原は言葉を綴って自らの思考や認識を表明し続けてきた。『全東洋街道』(集英社、1981)、『メメント・モリ』(情報センター出版局、1983)など、写真と言葉が一体化し、驚くべき強度で迫ってくる著作は、比類のない高みに達している。だが、『アメリカ』『アメリカン・ルーレット』(どちらも情報センター出版局、1990)あたりからだろうか。どちらかといえば、言葉を綴る人=思想家としての藤原新也のイメージが、増幅していったのではないかと思う。写真家としても精力的に仕事を続けていたが、どこか観念が先行しているように見えていた。
ところが、今回の展示を見て、そうでもないのではないかと思い始めた。会場の最後の部屋に「藤原新也の私的世界」と題されたパートがあり、そこに彼の99歳の父親の臨終の場面を、連続的に撮影した5枚の写真が展示されていた。藤原が、「はい! チーズ!」と声をかけると、死に際の父親は口を開けて微笑みを返したのだという。それらの写真を見ると、藤原はあらかじめ何らかの予断をもって撮影の現場に臨んでいるのではなく、まずはその光景を「見る」ということに徹してシャッターを切っているのがよくわかる。藤原は「カメラを持つ思想家」ではなく、「撮り、そして考える写真家」であることが、厚みのある展示作品から伝わってきた。
公式サイト:hhttps://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/special/detail.php?id=sp00211
2022/11/26(日)(飯沢耕太郎)
高木由利子「カオスコスモス 壱 –氷結過程–」
会期:2022/10/07~2022/11/28
GYRE GALLERY[東京都]
1990年代に、人の身体(ヌード)をテーマに、力強い、スケールの大きな作品を発表し注目を集めた高木由利子の、久方ぶりの大規模展示を見ることができた。寒冷地の軽井沢に移住したのをきっかけにして、「氷結過程」を撮影するようになったのだという。氷点下で水が結晶していくプロセスを、クローズアップで撮影した写真群は、以前とは違う無機的で鋭角的な美しさを湛えており、自然界における「カオスとコスモスは同時多発的に共存しているのではないか」という彼女の問いかけに充分に応えうる出来栄えだった。ギャラリーの外の吹き抜けの空間を含む会場インスタレーションも、よく練り上げられていた。
展示は「始まり」「地上絵」「標本箱」「脳内過程」の4部で構成されている。そのうち、奥まった部屋に展示されていた「脳内過程」の作品群が特に興味深かった。今回のシリーズはデジタルカメラで撮影されているのだが、このパートでは、それらをリトグラフで6回刷り重ねることで最終的な作品としている。制作が進行していく段階を、それぞれの版を6枚並べることで示していた。作品制作時における高木自身、およびプリンターの思考の流れが、そのまま見えてくるように思えるのが興味深い。「氷結過程」の画像化という、今回のテーマにもふさわしい展示だったと思う。
「カオスコスモス 壱」というタイトルを見ると、このシリーズはこれで完結したわけではなく、新作(続編)の構想もありそうだ。これから先も、自然界のさまざまな事象から、「カオスコスモス」を抽出していく作品をまとめていってほしい。
公式サイト:https://gyre-omotesando.com/artandgallery/yurikotakagi-chaoscosmos-vol1/
2022/11/26(土)(飯沢耕太郎)
中谷ミチコ デコボコの舟/すくう、すくう、すくう
会期:2022/11/30~2023/01/22
アートフロントギャラリー[東京都]
壁も床も真っ白い会場の中央が台状に盛り上がり、その上に舟形の白い彫刻が鎮座している。高波に持ち上げられた舟、というより、山に取り残された舟か。その表面には人や鳥や犬や木や小舟や焚き火までが刻まれ、薄く彩色されている。刻まれるといっても浮き彫りではなく、もののかたちを凹ませる陰刻ってやつ。タイトルどおり《デコボコの舟》(2022)なのだ。中谷は以前、実体のない舟の表面にやはり人や木などの浮き彫りを施した作品をつくったことがある。舟の周囲に人や木をへばりつかせ、舟本体を空洞化したものだったが、今回はそれを反転させ、舟本体に負の存在を刻印したかたちだ。
そのたたずまいがノアの方舟を想起させるせいか、表面に彫られた人や木はなにか神話的な物語性を感じさせるが、作者によれば「協働と、拒絶を同時に繰り返しながら何かから逃げている人たち」を思いながらつくったという。協働と拒絶という相反するものを繰り返すこと、それは人間社会そのものであると同時に、正と負、虚と実、凹と凸を巧みに織り込んだ彼女の彫刻の作法を思わせないでもない。しかしそこから逃げる人たちとはなんだろう?
別の展示室には、両手のひらで水をすくう所作を陰刻した《すくう、すくう、すくう》(2021)が展示されている。これは昨年の「奥能登国際芸術祭」に出品するためにつくったもので、コロナ禍のため移動もままならず、地元の人たちの手のひらを写真に撮ってもらい、それを見ながら制作したという。水をすくう手だから器状になっていて、そこに透明樹脂を満たして固めている。底をのぞくと、しわの寄った手の甲が見える。手のひらをのぞいたら、なぜか裏側が見えるのだ。これは手が反転しているというより、手の陰刻であり、実体が失われた負の彫刻というべきだろう。ちなみにタイトルの3回繰り返される「すくう」には、それぞれ「掬う」「救う」「巣食う」の字が当てられている。これも意味深。
公式サイト:https://www.artfrontgallery.com/exhibition/archive/2022_10/4709.html
2022/11/26(土)(村田真)
宛超凡「河はすべてを知っている──荒川」
会期:2022/11/15~2022/11/28
ニコンサロン[東京都]
宛超凡は1991年、中国河北省出身の写真家。2013年に来日して明治大学、東京藝術大学の大学院で学び、いくつかの公募展でも入賞を重ねている。ここ数年、あちこちで台頭しつつある中国出身の若手写真家のひとりである。
今回の展示では、埼玉県と東京都を流れる荒川をテーマにしている。流路延長173キロメートル、流域面積294平方キロメートルという荒川は、巨大都市・東京を貫いて東京湾に注ぐ。ということは、荒川を撮影することによって「東京という都市の、様々な側面」を浮かび上がらせることができるということだ。宛は、6×18センチ判のパノラマサイズのカメラを使うことで、次々に目の前にあらわれてくる荒川流域の両岸の風景を、客観性に徹した姿勢で記録していく。展示では、大きく引き伸ばした作品とフィルムをそのまま密着露光してフレームにおさめたプリントとを並置することで、源流から河口へと川を辿っていく視覚的経験をより細やかに提示していた。なお、本展の開催に合わせて同名の写真集も刊行されている。横長の判型に、紙をつなぎ合わせた経師本形式で写真図版をおさめており、とてもよく考えられた造本だった(デザイン=唐雅怡)。
宛は次のプランとして、中国の上海を流れる黄浦江を撮影する予定だという。もしそれが実現すれば、東京と上海という二つの都市と河川との関係をとらえたシリーズになるだろう。中国と日本の都市の歴史、環境、文化の違いもまた、そこからくっきりと浮かび上がってくるはずだ。
公式サイト:https://www.nikon-image.com/activity/exhibition/thegallery/events/2022/20221115_ns.html
2022/11/25(金)(飯沢耕太郎)
シュウゾウ・アヅチ・ガリバー「消息の将来」
会期:2022/10/07~2022/11/27
BankART Station、BankART KAIKO[神奈川県]
ガリバー=安土修三というと、10歳も離れていないぼくらの世代から見ても伝説のアーティストだ。1970年代にはすでにアングラ・ヒッピームーブメントのスターとして知る人ぞ知る存在だったが、知名度の割になにをやってるのか、どんな作品をつくっているのか知らなかったし、そもそも本当にアーティストなのかさえわからなかった。ま、その胡散臭さが伝説たるゆえんなのだが。その後、何度かお会いして話す機会があったが、話せば話すほどつかみどころがない。煙に巻くというのではなく、言葉で核心に迫ろうとすればするほど本筋から離れ、それを埋めるためさらに言葉を弄して迷宮入りしてしまうみたいな。それゆえになのか、彼の大規模な個展は2010年に出身地の滋賀県立近代美術館で開かれただけで、国内ではほとんど忘れられた存在だった。
そんなガリバーの首都圏では初の本格的な回顧展「消息の将来」が、BankARTの2会場を使って開かれた。だいたいタイトルからして意味不明だ。消息の将来? 英語のタイトルは「Breath Amorphous」で、直訳すれば「まとまりのない呼吸」。こっちのほうがなんとなくピンとくる。会場に入ると、まあ賑やかなこと。絵画、彫刻から写真、映像、インスタレーション、言葉、身体まであらゆるメディアを駆使した作品が並んでいる。まさに「まとまりのない呼吸」のような制作ぶりだ。
これらをあえてひとつに括れば、「コンセプチュアルアート」に分類できるかもしれない。コンセプチュアルアートとは、乱暴にいってしまえば「アートについて考えるアート」といえるだろう。なにやら理屈っぽくて小難しそうだが、デュシャンの《泉》(1917)をその起源と考えれば、けっこうトンチの利いたミステリアスなアートと捉えることもできる。実際、ガリバーはデュシャンの影響を色濃く受けており、その作品は予想に反してポップでウィットに富み、親しみやすい。
たとえば、肘掛けのあるラウンジチェアみたいなかたちをした木箱。タイトルを見ると《男と女(1つになることができる)》とあり、チェアではなく、女が足を上げて男と交合している姿であることがわかり、思わず笑ってしまう。もちろん単なるエロネタではなく、木箱が棺桶を連想させることから、愛と死(エロスとタナトス)という永遠のテーマを扱っていることが了解される。同じく、直角に折れ曲がった木箱と、それにもたれかかるように曲がった木箱も、《男と女(愛することができる)》というタイトルから、後背位でつながろうとしているカップルの棺桶であることが想像できる。箱ではないが、2台のベッドの下半身部分がV字型につながっている《甘い生活(乙女座)》も、同様のコンセプトによる作品と見ていい。
これらは、今回は資料しか出ていないが、縦長と横長の木箱を3個つなげた《デ・ストーリー》という作品からの発展形と考えられる。3個のかたちはそれぞれ「立つ」「座る」「寝る」という人間の基本姿勢に合わせたもので、ガリバーはこの箱のなかに240時間(10日間)こもったという。意図や形態は異なるとはいえ、箱のなかに数日間滞在した飴屋法水や渡辺篤らによるパフォーマンスの先駆例といっていい。いずれにせよ、これらの発想源が自分のもっとも身近な存在である「身体」にあり、また「生」「愛」「死」という人間の本源的な生態に発していることは疑いない。
身体をモチーフにした作品で忘れてはならないのが、彼の代表作といってもいい《肉体契約》だ。これは自分の死後、みずからの身体を80のパーツに分け、80人の他者に保管を委ねるというもの。1974年に「契約」が始まり(森山大道、萩原朔美、浅葉克己、麿赤兒らがサインした)、1984年には佐賀町エキジビット・スペースで契約者が一堂に会し、その記録を展示した。ここで問題になるのは、いったいなにが「作品」なのかということだ。80人と交わした契約書か? ガリバーの死後腑分けされるであろう80の肉片か? 佐賀町でのパーティーか? そのプロセス全体か? 「肉体契約」というコンセプトそのものか? おそらく、なにが作品なのかを問うこと自体がガリバーの作品であり、この禅問答じみた問いかけこそが彼のアートなのではないか。ガリバーはそれが「アート」として認められるかどうかをいつも探っている。だからコンセプチュアルアートなのだ。
もうひとつガリバー作品の特徴として挙げられるのが、還元主義だ。人間とはなにか? 時間とはなにか? 死とはどういうことか? だれでも物事を突き詰めて考えようとしたことがあるはずだが、たいていの人は考えても仕方がないから止めてしまう。でもガリバーはヒマなせいかどうかは知らないけれど、そんなことばかりを考えて、とことん突き詰めていく。これもまた自分の身体に即したものだが、身長、座高、胸囲、頭囲などあらゆる部位を測定し数値に置き換えてグラフ化したり(《長さを持つ金属》)、みずからの体重と同じ重量の鉄や大理石で球体をつくったり(《重量(人間ボール)》1978)、さらに、遺伝子を構成する核酸塩基(AGCT)の巨大なスタンプをつくったりする(《甘い生活》)。これらはいずれも自分=人間という存在を究極の要素にまで還元して作品化したものだといっていい。
身体だけでなく、漢字や記号を要素ごとに分解して組み合わせた「文字」「漢字」「図記」などのシリーズも還元主義の発想に基づいている。漢字に限らず世界中で使われる文字は、分解すればL、T、Xなどいくつかのパターン(字画)に還元できるが、これらは自然界で物事を見分けるために必要最小限の形態素であり、それゆえ人間にとってはどんな文字でも目になじみやすく、一瞥しただけで文章を読み取れるのはそのおかげだという説がある(マーク・チャンギージー『ヒトの目、驚異の進化』[早川書房、2020])。「文字」「漢字」「図記」などのシリーズは、こうした文字以前の形態素を書き連ねたものだが、これらを見ていると、われわれの脳は意味と無意味のあいだを往還し、ついにはゲシュタルト崩壊を起こす。文字とはなにか、意味とはなにか、と。翻って、「アートとはなにか」を問いかけるガリバーの制作は、アートにおけるゲシュタルト崩壊の目論みであるといえないだろうか。
2022/11/24(木)(村田真)