artscapeレビュー
シュウゾウ・アヅチ・ガリバー「消息の将来」
2022年12月15日号
会期:2022/10/07~2022/11/27
BankART Station、BankART KAIKO[神奈川県]
ガリバー=安土修三というと、10歳も離れていないぼくらの世代から見ても伝説のアーティストだ。1970年代にはすでにアングラ・ヒッピームーブメントのスターとして知る人ぞ知る存在だったが、知名度の割になにをやってるのか、どんな作品をつくっているのか知らなかったし、そもそも本当にアーティストなのかさえわからなかった。ま、その胡散臭さが伝説たるゆえんなのだが。その後、何度かお会いして話す機会があったが、話せば話すほどつかみどころがない。煙に巻くというのではなく、言葉で核心に迫ろうとすればするほど本筋から離れ、それを埋めるためさらに言葉を弄して迷宮入りしてしまうみたいな。それゆえになのか、彼の大規模な個展は2010年に出身地の滋賀県立近代美術館で開かれただけで、国内ではほとんど忘れられた存在だった。
そんなガリバーの首都圏では初の本格的な回顧展「消息の将来」が、BankARTの2会場を使って開かれた。だいたいタイトルからして意味不明だ。消息の将来? 英語のタイトルは「Breath Amorphous」で、直訳すれば「まとまりのない呼吸」。こっちのほうがなんとなくピンとくる。会場に入ると、まあ賑やかなこと。絵画、彫刻から写真、映像、インスタレーション、言葉、身体まであらゆるメディアを駆使した作品が並んでいる。まさに「まとまりのない呼吸」のような制作ぶりだ。
これらをあえてひとつに括れば、「コンセプチュアルアート」に分類できるかもしれない。コンセプチュアルアートとは、乱暴にいってしまえば「アートについて考えるアート」といえるだろう。なにやら理屈っぽくて小難しそうだが、デュシャンの《泉》(1917)をその起源と考えれば、けっこうトンチの利いたミステリアスなアートと捉えることもできる。実際、ガリバーはデュシャンの影響を色濃く受けており、その作品は予想に反してポップでウィットに富み、親しみやすい。
たとえば、肘掛けのあるラウンジチェアみたいなかたちをした木箱。タイトルを見ると《男と女(1つになることができる)》とあり、チェアではなく、女が足を上げて男と交合している姿であることがわかり、思わず笑ってしまう。もちろん単なるエロネタではなく、木箱が棺桶を連想させることから、愛と死(エロスとタナトス)という永遠のテーマを扱っていることが了解される。同じく、直角に折れ曲がった木箱と、それにもたれかかるように曲がった木箱も、《男と女(愛することができる)》というタイトルから、後背位でつながろうとしているカップルの棺桶であることが想像できる。箱ではないが、2台のベッドの下半身部分がV字型につながっている《甘い生活(乙女座)》も、同様のコンセプトによる作品と見ていい。
これらは、今回は資料しか出ていないが、縦長と横長の木箱を3個つなげた《デ・ストーリー》という作品からの発展形と考えられる。3個のかたちはそれぞれ「立つ」「座る」「寝る」という人間の基本姿勢に合わせたもので、ガリバーはこの箱のなかに240時間(10日間)こもったという。意図や形態は異なるとはいえ、箱のなかに数日間滞在した飴屋法水や渡辺篤らによるパフォーマンスの先駆例といっていい。いずれにせよ、これらの発想源が自分のもっとも身近な存在である「身体」にあり、また「生」「愛」「死」という人間の本源的な生態に発していることは疑いない。
身体をモチーフにした作品で忘れてはならないのが、彼の代表作といってもいい《肉体契約》だ。これは自分の死後、みずからの身体を80のパーツに分け、80人の他者に保管を委ねるというもの。1974年に「契約」が始まり(森山大道、萩原朔美、浅葉克己、麿赤兒らがサインした)、1984年には佐賀町エキジビット・スペースで契約者が一堂に会し、その記録を展示した。ここで問題になるのは、いったいなにが「作品」なのかということだ。80人と交わした契約書か? ガリバーの死後腑分けされるであろう80の肉片か? 佐賀町でのパーティーか? そのプロセス全体か? 「肉体契約」というコンセプトそのものか? おそらく、なにが作品なのかを問うこと自体がガリバーの作品であり、この禅問答じみた問いかけこそが彼のアートなのではないか。ガリバーはそれが「アート」として認められるかどうかをいつも探っている。だからコンセプチュアルアートなのだ。
もうひとつガリバー作品の特徴として挙げられるのが、還元主義だ。人間とはなにか? 時間とはなにか? 死とはどういうことか? だれでも物事を突き詰めて考えようとしたことがあるはずだが、たいていの人は考えても仕方がないから止めてしまう。でもガリバーはヒマなせいかどうかは知らないけれど、そんなことばかりを考えて、とことん突き詰めていく。これもまた自分の身体に即したものだが、身長、座高、胸囲、頭囲などあらゆる部位を測定し数値に置き換えてグラフ化したり(《長さを持つ金属》)、みずからの体重と同じ重量の鉄や大理石で球体をつくったり(《重量(人間ボール)》1978)、さらに、遺伝子を構成する核酸塩基(AGCT)の巨大なスタンプをつくったりする(《甘い生活》)。これらはいずれも自分=人間という存在を究極の要素にまで還元して作品化したものだといっていい。
身体だけでなく、漢字や記号を要素ごとに分解して組み合わせた「文字」「漢字」「図記」などのシリーズも還元主義の発想に基づいている。漢字に限らず世界中で使われる文字は、分解すればL、T、Xなどいくつかのパターン(字画)に還元できるが、これらは自然界で物事を見分けるために必要最小限の形態素であり、それゆえ人間にとってはどんな文字でも目になじみやすく、一瞥しただけで文章を読み取れるのはそのおかげだという説がある(マーク・チャンギージー『ヒトの目、驚異の進化』[早川書房、2020])。「文字」「漢字」「図記」などのシリーズは、こうした文字以前の形態素を書き連ねたものだが、これらを見ていると、われわれの脳は意味と無意味のあいだを往還し、ついにはゲシュタルト崩壊を起こす。文字とはなにか、意味とはなにか、と。翻って、「アートとはなにか」を問いかけるガリバーの制作は、アートにおけるゲシュタルト崩壊の目論みであるといえないだろうか。
2022/11/24(木)(村田真)