2021年12月01日号
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artscapeレビュー

旅と芸術─発見・驚異・夢想

2016年02月01日号

会期:2015/11/14~2016/01/31

埼玉県立近代美術館[埼玉県]

「旅」をキーワードにしながら西洋の近代美術を振り返った企画展。ローマの都市風景を描いたピラネージの銅版画をはじめ、ターナー、モネ、ルソー、クールベらが描いた風景画など200点あまりが展示された。人類の移動というダイナミズムによって美術史を再編成しようとする野心的な展覧会である。
よく知られているように、人類の移動と想像力は同伴しながら発展してきた。ハルトマン・シェーデルの『年代記』(1493)やヤン・ヨンストンの『動物図説:四足獣篇』(1649-57)には、頭がなく胸に顔がある怪物や一角獣のような空想的な動物が描かれている。それらは単に神話的な図像というより、まさしく人の移動によって得られた発見と驚異、夢想の現われなのだろう。近代地理学が確立されるまで、人は未知の土地を想像力によって把握していたのだ。
近代はそのような人類の想像力を許さなかったが、その反面、移動の範囲を飛躍的に拡大することで想像力を別の局面に押し上げた。産業革命により鉄道交通網が拡張すると、人は都市と都市、あるいは都市と郊外を頻繁に往来するようになり、新たな視覚芸術を生産するようになった。クロード・モネの《貨物列車》(1872)が端的に示しているように、人は鉄道で移動することによって都市近郊の田園を「風景」として再発見したのであり、19世紀後半にスフィンクスを撮影したイポリット・アルヌーの写真が如実に物語っているように、観光産業と写真の流通が異郷へのエキゾティシズムを増幅したのである。事ほど左様に、旅と芸術は分かちがたく結びついているというわけだ。
しかし、疑問がないわけではない。「空想の旅・超現実の旅」と題された第5室で、ブルトンやマックス・エルンスト、ポール・デルヴォー、ルイス・キャロルらの作品が展示されていたからだ。すなわち、本展はシュルレアリスムによる無意識の探究や児童文学による空想世界への憧憬もまた、「旅」として考え含めていたのである。むろん心の深淵に想像力を飛躍させることを意識の移動としてみなすことはできなくはない。けれども、物理的な移動も心理的なそれも「旅」だとすれば、たとえ自宅から一歩も外出しなくても「旅」をすることが可能となり、であれば何が「旅」で何が「旅」ではないのか判然としなくなってしまう。本展が明示しているように、「旅」とは「日常生活を離れて別の土地へと移動し、そこで出会うものに驚き、感動を覚え、世界の多様性を感じ取ること」だとすれば、それはおのずと空間的・物理的な制約を前提とした移動概念ではないのか。
ここには日本の一部の美術館が抱えている根深い問題がある。それは、意識的にか無意識的にかはともかく、概念規定が著しく脆弱であるがゆえに展覧会の構成が漫然としてしまうという問題だ。例えば昨年開館した大分県立美術館は、坂茂が設計したことで大きな話題を集めたが、その開館記念として「モダン百花繚乱『大分世界美術館』」展を催した。展示されたのはウォーホルやピカソ、マティスのほかにイサム・ノグチやアンリ・ルソー、さらには尾形乾山や与謝蕪村、三宅一生、松本陽子、横山大観まで、まさしく百花繚乱といえば百花繚乱ではあったが、しかし展示会場を実見してみても、それらのいったいどこが「モダン」なのか、到底理解に苦しむ構成だったと言わねばなるまい。多少の皮肉を込めて言い換えれば、モダンを標榜しながらも、そのキュレーションは無責任で野放図な、すなわちきわめて悪質なポストモダン的なものだったと言ってもいい。
「モダン」にせよ「旅」にせよ、必要なのは指示対象を厳密に限定した明快な言葉を設定することである。このようなごくごく基本的な仕事が疎かにされている現状こそ、驚異をもって発見してもらいたいものだ。

2016/01/08(金)(福住廉)

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