artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

高井博「やと の ゆる」

会期:2022/10/18~2022/10/31

ニコンサロン[東京都]

写真という表現媒体は、絵画や彫刻などのほかの美術のジャンルと比較しても、アマチュアとプロの差があまり目立たないのではないだろうか。むしろ、ひとつのテーマに集中して、長期間にわたって自由な表現意欲を発揮し続けることができるということでいえば、アマチュアの方がプロより有利ということもあるかもしれない。1948年、兵庫県出身の高井博も、図書館に勤務しながら写真クラブの会員として活動していた。一時、写真活動を休止していた時期もあったが、2013年にデジタルカメラを購入したのをきっかけにして、ふたたび撮影を再開する。今回のニコンサロンでの個展は、2020年に同会場で開催された個展「じゃぬけ」に続くものだ。

水害による土石流の爪痕を追ったモノクローム作品による「じゃぬけ」と比較すると、今回の「やとのゆる」に写っているのは、より日常的な場面である。高井は2006年から兵庫県丹波市に移住し、野菜栽培を中心とした農業に従事するようになった。本展の出品作では、農地のある谷戸(やと)=里山の日々を、四季を追って細やかに記録している。タイトルの「ゆる」というのは、地元の猟友会の人たちが緩やかに傾斜した土地のことをさし示す時の言葉だというが、高井の写真家としての姿勢にも通じるのではないだろうか。そこに見えてくるのは、自然と人の営みが共生する里山の、取り立てて特別な出来事ではないが、不思議に心に残る場面の集積である。特に昆虫、蛇、イタチなどの小動物が、ときにユーモラスに、ときに厳粛に、日々の暮らしにアクセントを加えているのが印象深かった。まさに普段の生活から滲み出てきた写真群といえるだろう。

公式サイト:https://www.nikon-image.com/activity/exhibition/thegallery/events/2022/20221018_ns.html

2022/10/28(金)(飯沢耕太郎)

日本の中のマネ ─出会い、120年のイメージ─

会期:2022/09/04~2022/11/03

練馬区立美術館[東京都]

「マネ展」ではなく、「日本の中のマネ」展。サブタイトルの「出会い、120年のイメージ」が語るように、いかに日本人がマネと出会い、血肉化し、変容させ、再解釈していったかが問われている。だからマネ自身の作品は少なく、油彩画は6点のみ。しかも国内から集めたものばかりなので小品が多く(そもそも日本にあるマネは版画を除けば20点足らず)、《草上の昼食》も《オランピア》も《笛を吹く少年》も《フォリー・ベルジェールのバー》も来ていない。ま、だれも期待してないけど。

展示はまずクールベの風景画に始まり、モネ、ドガ、セザンヌら印象派が紹介され、マネの油彩画や版画が続く。そもそもマネは日本では「印象派の親分」みたいに思われているが、印象派に多大な影響を与えたのは間違いないけれど、本人は印象派に括られることを拒んでいたし、クールベの敷いたレアリスムの延長線上に位置していた。この導入部はそのことを示している。そして、この美術史上の位置づけの曖昧さがマネの理解を難しくし、日本での受容を遅らせたようだ。しかし、マネは単にレアリスムから印象派への橋渡し役を果たしたというだけの画家ではなく、むしろそれ以上に、19世紀後半という美術史上もっとも重要な端境期に絵画の自律性を模索し、モダンアートの道を開いた画家だった。「近代絵画の父」といわれるゆえんである。

日本での受容は、1892年に森鴎外がエミール・ゾラについて述べるなかでマネの名を出したのが初出とされるが、影響を受けた作品では、石井柏亭による《草上の小憩》(1904)が最初らしい。これはタイトルからもわかるように、《草上の昼食》にヒントを得たもので、男女が草上でくつろぐ構成はマネ風だが、色彩やタッチは明らかに印象派の影響が色濃い。それ以前から日本では印象派に感化された作品が出回っていたことを考えれば、この印象派風のマネは遅きに失した感がないでもない。

その後に続く安井曾太郎の《水浴裸婦》(1914)《樹蔭》(1919)、斎藤与里の《朝》(1915)《春》(1918)などは、いずれも渡仏経験がある画家だけに《草上の昼食》からの影響が指摘できるし、熊岡美彦の《裸体》(1928)や片岡銀蔵の《融和》(1934)などの「横たわる裸婦像」は、《オランピア》との類似が明らかだ。しかし影響といっても、これらはモチーフや構図など表面的に似通っているにすぎない。ただ片岡の《融和》は、白人の女主人が東洋系の白い肌の裸婦に、黒人のメイドが南洋系の褐色の女性に置き換えられており、当時の大日本帝国の植民地主義的な優越意識が透けて見えることを記憶しておきたい。

戦前の最後の作品は小磯良平の《斉唱》(1941)。この作品とマネとの共通性は一見わかりにくいが、人物の織りなす垂直・水平方向の画面構成、および黒を中心とする色彩は、ワシントンの《オペラ座の仮面舞踏会》を想起させずにおかない。実際に小磯がこの作品に感化されたかどうかは別にして、ここにきて初めてモチーフや構図などの外見的な模倣ではなく、マネの目指した自律的な絵画空間に学ぶ画家が現われたといえるのではないか。いわばようやくマネの真似から脱したと(笑)。

戦後半世紀近い時間を飛ばして、最後は森村泰昌と福田美蘭の展示となる。森村は日本人が西洋名画を模倣するというコンプレックス丸出しの自虐的セルフポートレートで知られるが、それゆえに目を背けてはならない作家だ。出品は1988-1989年の旧作が大半を占めるが、《笛を吹く少年》《オランピア》《フォリー・ベルジェールのバー》をモチーフにした作品は、人種やジェンダーや階級の差が時と場所を超えて存在することを、グロテスクに暴いてみせる。戦前の片岡の楽天的な「融和」とは真逆といっていい。

福田はもっと過激かもしれない。《草上の昼食》の右側の人物から見た風景を描いた《帽子を被った男性から見た草上の二人》(1992)や、その図版が掲載された新聞の切り抜きを版画に見立てた《日経新聞1998年5月3日》、《テュイルリー公園の音楽会》(1862)の雑踏を渋谷スクランブル交差点の風景に置き換えた同題の作品は、例によって福田特有の遊び心が満載だ。でも、マネのレアリスム精神を現代に持ち込んだゼレンスキー大統領の肖像画は、こじつけにもほどがあるといいたい。

それより狂喜したのは《LEGO Flower Bouquet》(2022)という作品。絵の内容に惹かれたのではない。第一ぼくは見ていないのだから。この作品、展覧会が始まって1カ月余りは展示されていたが、10月半ばに「日展」に応募したため、ぼくが訪れたときには絵のコピーと解説が貼ってあるだけ。その後めでたく落選したため、10月31日から再展示されたという。なぜこれに喜んだのかといえば、マネの絵の真似をしたのではなく、サロンに挑戦し続けた(そして何度も落選した)マネの行動に倣ったからだ。また、入選すれば名誉(か?)なだけでなく、「日本の中のマネ」展を「日展」のなかに寄生させることができるし、選ばれなくてもすごすご再展示し「ひとり落選展」として笑いを取ることもできる。どちらに転んでもおいしいのだ。後日「日展」を訪れた。福田が落選なら、洋画部門の9割方は落選するだろう。


公式サイト:https://www.neribun.or.jp/event/detail_m.cgi?id=202204141649901997

2022/10/27(木)(村田真)

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野村浩「KUDAN」

会期:2022/10/19~2022/11/20

POETIC SCAPE[東京都]

野村浩は写真作品を中心に発表してきたアーティストだし、会場のPOETIC SCAPEも写真専門のギャラリーである。今回の展示でも、当然写真作品が出品されていると思っていたのだが、大小の油彩画と立体作品だけが並んでいた。もっとも、東京藝術大学で油画を専攻した野村は、これまでも絵画作品を多数制作、発表してきている。『EYES WATERCOLORS』(マッチアンドカンパニー、2008)のように、純粋に絵画だけの作品集もある。今回も、テーマによって表現ジャンルを巧みに使い分けてきた彼の志向を貫いているということだろう。

今回の展示作品のテーマは「件(くだん)」である。頭が牛で体が人間というキメラ状の怪物は、ギリシア神話や中国の伝承に登場してくるだけでなく、内田百閒にも同名の小説がある。どうやら展覧会の会期が迫っていた時期に、急に思いついたモチーフだったようだが、作品を見ているうちに、不気味だがどことなくユーモラスなそのキャラクターは、野村の作品世界の登場人物にふさわしいものに思えてきた。まん丸の「眼玉」は、これまでも野村が固執し続けてきたイメージだが、今回も効果的に使われている。マネの「草上の昼食」やアメリカンコミックなどを巧みに換骨奪胎した作品もあり、野村のこのテーマに対する「ノリ」のよさが観客にも伝わってくる展示になっていた。さて、次は何が出てくるのか。まだしばらくはアイデアが枯渇しそうにもないので、その作品世界の広がりを楽しめそうだ。

公式サイト:http://www.poetic-scape.com/#exhibition

2022/10/27(木)(飯沢耕太郎)

石塚公昭「Don’t Think, Feel!寒山拾得展」

会期:2022/10/13~2022/11/06

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

本業は人形作家である石塚公昭の写真作品は、ほかに類例を見ないユニークなものだ。彼はまず、実在の作家、ミュージシャンなどだけでなく、物語の登場人物など架空の存在も含めて、彼らをモデルとした精緻かつリアルな人形を作成する。それらを撮影し、背景や小道具などの画像と併せて画面に自在に配置し、あたかも活人画の舞台のような場面を作り上げていくのだ。今回は寒山拾得、蝦蟇仙人、鉄拐仙人、達磨大師、一休宗純など、中国や日本の神話、伝説、説話などに登場する人物たちにスポットを当て、なんとも奇妙なイメージの世界を織りあげている。

これらの仕事は、もはや写真作品の範疇を超えている。とはいえ、その画像形成のシステムを、写真的なプロセスに委ねていることも間違いない。写真と絵画のはざまの表現というよりは、石塚の脳内に花開いたイメージ世界を忠実にプリントアウトした作品としか言いようがないだろう。前回のふげん社での個展「椿説 男の死」(2020)では、三島由紀夫という特定の個人に収束する作品が展示されていた。今回は幅広い題材を扱っているため、やや印象が拡散してしまったことは否定できない。だが逆にその分、石塚の脳内世界がより活性化し、自由奔放に伸び広がりつつあるともいえるだろう。

技術的にはまだ完成途上のものもあり、主題についてもいろいろなアイディアが蠢いてきているようだ。さらなる展開が期待できるのではないだろうか。

公式サイト:https://fugensha.jp/events/221013ishizuka/

2022/10/26(水)(飯沢耕太郎)

大森克己「山の音─sounds and things vol.3」

会期:2022/10/20~2022/10/30

MEM[東京都]

大森克己がMEMで2014年、2015年に「sounds and things」と銘打って開催した連続展は、写真と言葉、見えるものと見えないもの、時間と空間などの意味を問い直す、意欲的な展覧会だった。コロナ禍による空白の時期もあり、やや間を置いて7年ぶりに開催された本展にも、その延長上にある作品が出品されていた。だが、前回と大きく変わったのは、スマートフォンで撮影された作品がかなりの比率で登場してきていることだろう。

大森に限らず、スマートフォンの普及が写真の撮り方、見せ方、伝え方を大きく変えつつあることは間違いない。だが、SNSなどにアップされる写真画像についてはよく言及されるのだが、それがギャラリーでの展示や写真集などを含めた写真表現のあり方にどんな影響を及ぼしつつあるのかについては、まだ未知の部分が大きい。大森は元々、写真や言葉によるコミュニケーションのあり方に、鋭敏に反応してきた写真家であり、スマートフォンを使った写真の可能性をかなり強く意識しているのではないかと思う。そのことが、「暮らしのなかで自然光で撮影された写真群」を中心にした壁面の構成、及びボックス状のデスクに、スマートフォンの画面と同じ大きさにプリントしたたくさんの写真をアトランダムに収め、観客が自由に手にとって見ることができるようにしたインスタレーションによくあらわれていた。「スマホとSNSの時代」の写真のあり方が、どんな風に動いていくのかを、あらためて問いかける展示といえるだろう。

なお展覧会に合わせて、大森が1990年代以来書き継いできたエッセイ、対談などを収録した『山の音』(プレジデント社)が刊行されている。

公式サイト:https://mem-inc.jp/2022/09/28/221016omori/

2022/10/26(水)(飯沢耕太郎)