artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

猪俣肇「saw the LIGHT」

会期:2022/09/20~2022/10/01

キヤノンギャラリー銀座[東京都]

キヤノンギャラリー銀座は、アマチュア写真家の堅実な風景写真やスナップ写真の展示が多いのだが、時折、意欲的な作品発表の場となることがある。1975年まれ、神奈川県平塚市出身の猪俣肇の個展も、よく練り上げられたクオリティの高い内容だった。

基本的には「写真日記」といってよいだろう。折に触れて目に止まったモノ、場面にカメラを向けている。だが、台所のシンクの卵の殻、植物群、ハンガーに掛けられた赤いドレス、更地になったビルの裏手など、その幅はかなり広い。猪俣は横浜国立大学の大学院で土木工学を専攻したそうだが、道路の水たまり、建物の壁の一部などを捉えた、それらしい写真もある。特筆すべきは、写真の間に挟まった言葉の扱い方で、たとえば「早朝、父と近所の川へ出かけた。祖母が亡くなった頃だった。浅瀬で小さな魚を見つけ、二人でしばらく眺めていた。そんなふうに出かけたのはその時だけだったと思う。魚の名前は今もわからない」といった記述が、写真ととてもうまく響きあって配置されていた。前記の文章は、川面に反射する光を撮影した写真に添えられているのだが、その取り合わせが絶妙で、納得できるものが多い。言葉と写真のバランス感覚の良さに、彼の才能が発揮されていると感じた。

この方向性を伸ばしていけば、写真と言葉をより緊密に融合させる形に展開していきそうなのだが、いまのところは、まだ断片的な段階にとどまっている。写真にしても、言葉にしても、もう少し確定的な「テーマ」が見えてきてもいいのではないだろうか。

2022/09/29(木)(飯沢耕太郎)

リボーンアート・フェスティバル 利他と流動性(後期) 

会期:2022/08/20~2022/10/02

石巻市街地(石巻中心市街地、復興祈念公園周辺、渡波)、牡鹿半島(桃浦・荻浜、鮎川)[宮城県]

東日本大震災で大きな被害を受けた石巻の市街地と牡鹿半島を舞台に繰り広げられる芸術祭。3回目となる今回は新型コロナの影響により、昨年と今年の2期に分けての開催となった。ぼくは初めて訪れるので、過去作品も含めて見て回った。

まず市街地では、空き家になった建物を使うインスタレーションが多かった。これは過疎地かつ被災地なので予想できたこと。ていうか、空き家が増えたからそこをアートで充填したいという発想が、地方で芸術祭を生み出す原動力になっているのだろう。旧銭湯を会場にした笹岡由梨子の映像インスタレーション、旧サウナに作品を点在させたプロダクション・ゾミアのキュレーションによるアジア作家6人の作品、民家の納屋を活用した梅田哲也のインスタレーションなど、作品ともども場所そのものにも興味が向かう。

なかでも熱量を感じたのが、小説家の朝吹真理子とアーティストの弓指寛治によるコラボレーションだ。魚屋兼住居だった2階建ての大きな建物内を、住人へのインタビューをまとめた文章と勢いのある絵で埋め尽くしている。当然、文章は朝吹、絵は弓指の役割分担だと思ったら、制作しているうちに次第に互いの仕事が浸透し合い、朝吹の絵や弓指の文章も混じっているそうだ。出口近くでは魚(の絵)の叩き売りまでやっていて、場所ともども楽しめる展示だった。



朝吹真理子+弓指寛治「スウィミング・タウン」[筆者撮影]


日和山公園の旧レストランを会場にした雨宮庸介の《石巻13分》(2021)は、高台に位置するロケーションを最大限に生かしている。建物はガラス窓に覆われ展望がよさそうだが、ブラインドが下されているので薄暗く、背後にはテーブルや椅子などレストランの備品が積み上げられている。床に電光掲示板、柱に映像が流され、ベルリンで手のひらに「石巻」というタトゥーを彫ったこと、高速道路で事故ったことなど、「リボーン」に参加するまでの作者の日常が淡々と語られる。話が終わりに近づいたころ、ブラインドが徐々に開けられ、津波に襲われた南浜地区と向こうに広がる海が目に入ってくる。おおこれは感動的。作者はこの場所を訪れてまずエンディングを思いつき、逆算してストーリーを組み立てたのではないか。

南浜の津波復興祈念公園では、目[mé]がいい仕事をしている。予約した時間に行くと、トラックを改造したバスに乗せられる。内部は旅館の客室仕立てで、両サイドが全面窓になっているので、ソファに座って外の景色を見ることができる。参加者が着席したら出発し、復興祈念公園内を一周巡るという「作品」だ。被災地を観光する「ダークツーリズム」というのがあるが、ここは甚大な被害を受けたとはいえ現在その面影はほとんどなく、巨大な堤防や津波伝承館が見られるくらい。ダークを明るくポップにしたようなツーリズムだ。これを不謹慎と感じる人もいるかもしれないが、それが許されるほど復興したという証でもあるだろう。



目[mé]《repetition window 2022》 バス車内。窓から巨大堤防が見える[筆者撮影]


復興祈念公園のはずれ、北上川河口に架かる日和大橋のたもとに作品を設置したのがSIDE CORE。工事現場のような四角い囲いをつくり、内部に人やハンマーや給水塔のようなかたちのスピーカーを置き、さまざまな場所から集めてきた電車や雑踏などの音を流している。津波でぽっかり空白になった更地にストリートを移植する試みか。

市街地から離れると、牡鹿半島の根元にあたる渡波地区では、旧水産加工場に置かれた小谷元彦の彫刻《サーフ・エンジェル(仮設のモニュメント2)》(2022)が圧巻。背に羽をつけ、両手を横に広げてサーフボードに乗る水着姿の巨大な少女像だ。羽はサモトラケのニケからの引用で、頭部には幾何学形のネオンが被せられている。そのポーズから船首像、さらに映画『タイタニック』のワンシーンも連想され、古代芸術と現代風俗をシャッフルしたものになっている。



小谷元彦《サーフ・エンジェル(仮設のモニュメント2)》[筆者撮影]


白い樹脂製の巨大彫刻といえば、もう少し先の荻浜にある名和晃平の《White Deer(Oshika)》(2017)も圧倒的。モチーフは神の使いといわれる鹿で、金華山に多く生息し、牡鹿半島の名の由来にもなった動物だ。この作品は初回に制作・設置され、「リボーン」のシンボル的存在としてしばしば目にしていたが、実際に見ると想像以上にでかい。でもそのわりに表面が白くて波打っているせいか、実在感に乏しく、白昼夢のような印象だ。なにしろ神獣だからね。

その彫刻の近くの洞窟を作品化したのが伊勢谷友介の《参拝》(2022)だ。穴の奥に丸い鏡を置き、手前に据えた台から双眼鏡で覗けるようにしている。洞窟に鏡というと、天の岩戸に引きこもった天照大神を誘い出すため、岩戸の隙間から鏡を入れて開けさせたという日本神話を思い出す。これにヒントを得て、洞窟の内(神)と外(人)の立場を逆転させて人間の傲慢さを表わそうとしたのかもしれない。

さらに牡鹿半島の突端、金華山の対岸まで行く。ここでは島袋道浩が、金華山の見える海岸までの道を整備している。題して《白い道》(2019)。階段や柵を整え、植栽を切りそろえ、道に白い小石を敷くだけ。なにか作品を置くわけでも風景を変えるわけでもないが、場所の意味や見え方を変えてしまう。これに近い感覚を以前どこかで味わったことがあるなと思ったら、若林奮の《緑の森の一角獣座》だった。若林はゴミ処分場の建設反対のため、予定地だった日の出町の森に道や階段をつけ、下生えを払って整備した。作品を置くだけだと撤去されたらおしまいだから、土地全体にさりげなく手を加えて作品化することで森を守ろうとしたのだ。目的は違うけど、島袋も最小限の手を加えることで、霊場として知られる金華山への細道を「神道」に変えてしまった。作為がミエミエの大仰な作品も嫌いではないが、こうした労力を費しながらさりげなくたたずむ作品にも心を動かされる。



島袋道浩《白い道」[筆者撮影》


(鑑賞日:2022年9月28〜30日)

公式サイト:https://www.reborn-art-fes.jp

2022/09/28(水)(村田真)

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中尾美園「ある家の図譜」

会期:2022/09/21~2022/10/02

なら歴史芸術文化村[奈良県]

祖母や高齢の女性たちが箪笥に保管していた思い出の品や着物、「祝日の国旗掲揚」「正月に飾るしめ縄作り」といった慣習、火災焼失した小倉遊亀の日本画の「再現模写」。中尾美園はこれまで、個人の遺品、廃れゆく慣習、焼失した作品といった「失われゆくもの」「失われたもの」を日本画材で精緻に写し取り、桐箱に収められた絵巻物という保存装置に仕立てることで、「記憶やものの保存と継承」について問うてきた。その根底には、大学院で保存修復を学び、美術品や古文書の「補彩」という保存修復の仕事に携わった経歴がある。

本展は、なら歴史芸術文化村でのレジデンスの成果発表展。なら歴史芸術文化村は今年3月にオープンした道の駅だが、文化財4分野(仏像等彫刻、絵画・書跡等、建造物、考古遺物)の修復工房をガラス張りで公開する施設を備え、レジデンス事業も行なっている。約1ヵ月半滞在制作した中尾は、昭和に建てられた一軒の住宅の解体現場で採取した壁や床、欄間、家具など「家の断片」をスタジオに持ち込み、10cm四方ほどの大きさに切り取り、1点ずつ原寸大で模写を行なった。「仏間」「居間」「台所」など部屋ごとに1枚の和紙に写し取られた壁や家具の「断片(=切:きれ)」は、《高橋家切》(2022)としてガラス張りの修復工房と同じ空間に展示された。《高橋家切》では、壁や床、家具の合板の木目、聚楽壁(土壁)のざらざらした質感、畳や障子、こすれた食卓の角、すりきれた合皮のソファ、シールの剥がれた跡や落書きなど、シミや汚れまで克明に写し取られ、長年使い込まれた生活の痕跡を伝える。



中尾美園《高橋家切》[撮影:衣笠名津美 写真提供:なら歴史芸術文化村]




中尾美園《高橋家切》[撮影:衣笠名津美 写真提供:なら歴史芸術文化村]


一方、作業現場となったスタジオが、現物の模写資料とともに公開された。模写されたさまざまな現物の断片が、白い座布団状の緩衝材の上に丁寧に置かれている(文化財修復の際に用いる、薄葉紙という丈夫な薄い和紙で綿を包んだ「綿布団」である)。また、1点ずつ、「名称、採取した部屋名、管理番号」が書かれたラベルが「発掘資料」のように添えられる。中尾の手つきは両義的だ。「解体された民家の断片」が「貴重な歴史資料」を擬態すること。「断片に切断する」という暴力性と、「破損せぬよう慎重に保護する」というケア的身振り。中尾は過去作品で、祖母や高齢の女性たちが大切に保管していた着物を、人生を物語る断片=「切(きれ)」としてハギレほどの大きさに断片化して模写しているが、模写の対象を実際に切断し、かつ展示するのは初めてだという。とりわけ、落書きやシールの貼られた壁や家具は、あえて途中で寸断され、痛々しい暴力性を帯びる。



中尾美園《高橋家切》[撮影:衣笠名津美 写真提供:なら歴史芸術文化村]



中尾美園《高橋家住宅資料》[撮影:衣笠名津美 写真提供:なら歴史芸術文化村]


ここで、「切断」は二重の暴力性を伴っている。のこぎりで切断するという物理的な暴力と、かつて所属していた文脈からの断絶・強制移動というもう一つの暴力性。後者は、「美術館」「博物館」への収蔵と共鳴し、振られた番号が「管理」の権力を示唆し、きっちりと正方形に揃えられた「資料サンプル」は「そこから切り捨てられた残余」があることを逆照射する。一方、「管理対象となった資料」の奥には、「未整理のもの」が作業台の上に無造作に積まれている。それは、保存修復とは未完のサイクルであること、そして生産と時代の加速化により、どんどん「古いもの」にされていくスピードに我々は追いつけないことを示す。

歴史化の作業は(恣意的な)フレーミングや「文脈の切断」の暴力性を伴うことを示しつつ、傷や劣化を補修してあくまで「もの」として残す文化財修復とは別の、「模写」というかたちで記憶を写し取って残そうとする中尾作品。そのとき、「断片化して写す」という作法は、「すべてを保存すること」の不可能性と同時に、「断片どうしのつながりや全体像への想起」を促す。実際の文化財の修復工房と並行的に見ることで、中尾作品の意義や射程がより広がって見えてくる好企画だった。



スタジオの展示風景[撮影:衣笠名津美 写真提供:なら歴史芸術文化村]



関連レビュー

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2022/09/25(日)(高嶋慈)

うつゆみこ「I Call Nature, Nature Calls Me」

会期:2022/09/15~2022/10/09

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

うつゆみこが、今回の展示に合わせて刊行したリーフレットに「私は小さな頃から、何かを作り続けてきた」と書いている。たしかに彼女の仕事を見ていると「画材、粘土、毛糸、布、針金など」さまざまな素材、手法を用いて作品を生み出していくという行為が、ほとんど彼女の生き方そのものと結びついていることがよくわかる。どの作品を見ても、「何かを作り続け」ることへの、強い思いがやや痛々しいほどに伝わってくるのだ。

だが、そのように次々に制作を続けいくと、収拾がつかなくなることもありそうだ。時には展示の内容があまりにも過剰すぎて、目移りしてしまうことにもなる。その意味では、今回の展示の出品作は、これまでのようなオブジェや画像を組み合わせたコラージュ作品だけではなく、必ず人間を含む「生きもの」を入れ込むというルールを設定したことことで、統一感が生み出されていた。「生きもの」を撮影するのは、オブジェよりもコントロールがむずかしいので、画面の緊張度がより高まってきている。舞台設定やライティングにも気を配っており、より被写体の立体感も強調されていた。

この連作はぜひ写真集にまとめて欲しい。私家版のZineは何冊も出ているのだが、本格的な写真集は『はこぶねのそと』(アートビートパブリッシャーズ、2009)以来刊行されていないからだ。今回の展覧会では、展示会場の階下に小さなスタジオが設営され、「うつゆみこによるポートレート撮影会」も行なわれていた。モデルは背景の布と小道具を選んで、彼女の作品世界のなかに入り込むことができる。筆者も撮影してもらったのだが、彼女が実際にどんなふうに作品を作っているのかがわかって、なかなか面白い体験だった。

関連レビュー

うつゆみこ「はこぶねのそと」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2009年02月15日号)

2022/09/25(日)(飯沢耕太郎)

占領と平和

会期:2022/09/09~2022/11/02

写大ギャラリー[東京都]

ロシアのウクライナ侵攻による戦禍の広がりによって、あらためて75年以上前の日本の、太平洋戦争とその後のアメリカ軍による占領の時代を思い起こす人も少なくないだろう。小原真史の企画による本展は、その意味でとても時宜を得た企画といえそうだ。

本展の出品作71点は、東京工芸大学写大ギャラリーの所蔵で、土門拳、田沼武能、東松照明、川田喜久治、細江英公、丹野章、中谷吉隆、立木義浩、平敷兼七、高梨豊、森山大道らによって主に1950–70年代に撮影されたものだ。顔ぶれを見ればわかるように、それぞれの写真家たちの作風にはかなりの隔たりがある。ところが、こうして「占領と平和」という観点で見直してみると、意外なほどの共通性があり、そこに時代の空気感、痕跡が色濃く浮かび上がってきているのに驚かされた。撮影から時を経るにつれて、個々の表現という側面を越えた、時代の記録としての要素が強まってくるということだろう。

もう一つ感じたのは、この時代におけるアメリカという巨大な国の及ぼす影響力の強さ(東松照明のいう「アメリカニゼーション」)である。米軍基地の兵士を撮影した東松照明や、アメリカ映画らしいポスターが貼られた横須賀の店のショーウィンドーを捉えた森山大道の写真だけでなく、多くの写真家たちの仕事のなかに、その影がくっきりと写り込んでいる。アメリカの政治的、経済的、文化的な影響力が、日本の戦後写真史にどのような傷跡を残しているかは、今後検証すべき大きな課題のひとつとなるのではないだろうか。

2022/09/24(土)(飯沢耕太郎)