artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
川内倫子:M/E 球体の上 無限の連なり
会期:2022/10/08~2022/12/18
東京オペラシティ アートギャラリー[東京都]
2012年に東京都写真美術館で開催された「照度 あめつち 影を見る」以来の、川内倫子の10年ぶりの大規模回顧展となる本展は、やや盛り沢山すぎるほどの充実した内容だった。区切られた部屋ごとに、「Halo」「4%」「One surface」「An interlinking」「Illuminance」「光と影」「A Whisper」「あめつち」「M/E」「やまなみ」といったシリーズが並んでいるのだが、そこには旧作と新作、プリントとスライド映写が入り混じっており、「Illuminance」のような二つのスクリーンに映し出す純粋な映像作品もある。川内の作品の幅が近年大きく拡張し、ごく身近な事象から、無限の広がりをもつ宇宙大の空間までを含みこむ、多次元性を備えつつあることがよくわかる展示だった。
とはいえ、川内の作品世界を貫く基本原理は、デビュー写真集であり、2002年に第27回木村伊兵衛写真賞を受賞した『うたたね』(リトルモア、2001)以来、あまり変わっていないのではないのだろうか。それは今回の展覧会のために組み上げられた新作「M/E」を見ればよくわかる。タイトルのMはMother、EはEarthであり、「母なる大地」というコンセプトの下に、アイスランドや北海道で撮影されたスケールの大きな風景写真が並ぶ。だが、その反対側の壁には、「コロナ禍の日常」に目を向けたプライヴェートな写真群が展示されていた。いわば神話的ともいえるような次元と、具体性を帯びた触覚的な世界とが、写真という媒体を通じて共振しあっているような作品世界を、彼女はデビュー以来、20年以上にわたって練り上げてきたということだろう。
とても興味深かったのは、同時期に東京都写真美術館で開催されている野口里佳の個展「不思議な力」との共通性を、多くの展示作品から感じたことだ。川内は1997年に第9回写真『ひとつぼ展』でグランプリを受賞し、野口は1995年の第5回写真『ひとつぼ』展、及び96年の第5回「写真新世紀」展でグランプリを受賞して、ほぼ同時期に写真家としての第一歩を踏み出した。初めの頃はかなり隔たった作風と感じていたのだが、時を経るにつれて、とりわけ家族を含む身近な被写体に向けられた親密な、だが時には過激な「実験」を試みるような眼差しのあり方が、重なり合って見えてくるようになった。二人の写真のなかに、1990年代以降の日本の写真家たちの表現の可能性が、最大限に凝縮して宿っているようにも思える。
公式サイト:https://rinkokawauchi-me.exhibit.jp
関連レビュー
野口里佳 不思議な力|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2022年11月15日号)
2022/10/25(火)(飯沢耕太郎)
KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022 総評
会期:2022/10/01~2022/10/23
ロームシアター京都、京都芸術センター、京都芸術劇場 春秋座、THEATRE E9 KYOTO、京都市京セラ美術館、京都中央信用金庫 旧厚生センターほか[京都府]
コロナ禍で制限されていた海外アーティスト招聘が2年ぶりに実現し、充実のプログラムだったKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭(以下KEX)。本稿では、「ニューてくてく」という柔軟かつ深い思考の広がりを促すキーワードの下、全体的な総評を述べる(なお、梅田哲也『リバーウォーク』、フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ』、松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロ『女人四股ダンス』、ジャールナン・パンタチャート『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』については個別の評を参照されたい)。
「歩き続ける身体」のイメージを「境界」との接触面として提示するのが、ミーシャ・ラインカウフの映像展示と、メルツバウ、バラージ・パンディ、リシャール・ピナス with 志賀理江子のビジュアルコンサート『Bipolar』。ミーシャ・ラインカウフの《Fiction of a Non-Entry(入国禁止のフィクション)》は、光のゆらめく海底をゆっくりと歩む人影が映る、幻想的で美しい映像作品だ。ラインカウフは、イスラエルとヨルダン、ジブラルタル海峡のスペインの飛び地とモロッコの間など、陸路では越境困難な国境を、「海中を歩く」ことで自由に横断してみせる。だが、酸素ボンベの重みや水圧に耐えながら歩む姿は、逆説的に、見えない圧力や不自由さを感じさせる。フーコーが指摘するように、規範や抑圧を個人が内面化し、不可視化されることで権力は完成する。そのとき、「歩行」という日常的かつシンプルな行為は、意志表明や抵抗の手段としての行進やデモを示唆すると同時に、水中に吐き出される息の泡は、「聴こえない声」を可視化する。
『Bipolar』では、メルツバウ、バラージ・パンディ、リシャール・ピナスによる(事前に耳栓が配られるほどの)爆音の演奏のなか、巨大スクリーンに志賀理江子の新作映像が投影される。闇に浮かぶコンクリートの「一本道」を、ひたすら歩き続ける人物が映る。それは東日本大震災後に建設された巨大な防潮堤だが、津波の轟音にも、人の叫び声にも聴こえる有機的な音を「振動」として身体に浴び続けているうち、生と死の境界線や異界への通路にも見えてくる。フラッシュバックの嵐のように、視認不可能なほどのスピードで、不穏な写真が連射される。崖の上で何かを掘り返す人。回転して螺旋を描く掘削機械。「復興事業」という名の利潤追求か、何かを隠蔽するための穴を掘っているのか。光で顔を消されたポートレート。被写体を強制的に「死者」「亡霊」に転移させる写真の暴力性。上演時間をカウントする赤い数字が滲み、時間が融解していく。ジェット機のエンジンの轟音のようなノイズが「もうすぐ離陸するぞ」と叫び、防潮堤を異界への滑走路へと変える。寄せては返し、マグマのように沸き立つ赤い波の映像が冒頭と終盤で繰り返され、音のループや反復とともに、トラウマの回帰や非線的に失調した時間を示す。その奔流をせき止めようとする防潮堤は、死者や異界との境界であると同時に、「一直線の道を歩く」行為は(音楽がもつ)リニアな時間構造や「前進」を示唆し、極めて多義的だ。
一方、物理的な歩行や「電話の向こうの知らない誰かと通話する」といった観客自身の能動性を作品成立要件とする体験型の作品群(梅田哲也、ティノ・セーガル、サマラ・ハーシュ)も、今年のKEXの特徴だった。特に、「歩行による移動が視線の定位を揺さぶり、新たな視点の獲得をもたらす」ことを体感させるのが、森千裕と金氏徹平によるアートユニット「CMTK」の屋外展示だ。森が都市の断片を収集した写真を金氏がコラージュし、大型のレンチキュラー印刷で出力。見る角度でイメージが移ろい、視点の唯一性を軽やかに撹拌する。
また、歩行を伴う身体的なリサーチに基づく語りと舞台上でのモノの配置換えにより、観客に想像上の旅をさせるのが、リサーチプログラム「Kansai Studies」の成果として上演された、建築家ユニットdot architects & 和田ながらの『うみからよどみ、おうみへバック往来』。大阪湾から何本もの川を逆流して琵琶湖へいたる水の旅、明治の近代化事業である疎水運河、治水工事による人工河川など「琵琶湖を起点とする水のネットワーク」が、木材、石、鉄板、流木、飲料水のペットボトルなどの配置を組み替えながら語られ、観客が想像上の「マップ」とともに旅する感覚を触発すると同時に、実際に舞台上で工具を用いて「土木工事」を演じて見せた。
一方、より政治的な位相で、客席にいながらにして「視線の定位」を揺さぶられる体験が、ジャールナン・パンタチャート『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』だった。開演前、「観光客」として舞台上に歓待された観客は、「神格化された絶対的権威」として舞台空間に氾濫する演出家の顔写真/タイの王室プロパガンダ批判を経て、終盤、タイとミャンマーの俳優たち自身が舞台上で語られる軍事クーデター反対デモの当事者であることを知る。そのとき突きつけられるのは、「日本人観光客」と同質の消費の眼差しを舞台に向けているのではないかという倫理的な問いだ。
ほかの海外の演劇作品も充実だった。フォースド・エンタテインメント『リアル・マジック』では、3人の俳優が、司会、出題者、解答者の役を順番に入れ替えながら、「テレビのクイズ番組」のワンシーンを延々と反復し続ける。「正解は明らかなのに、(あえて)間違った答えを言い続ける」不条理なループ構造。くどい「笑い声」のSEの効果もあいまって、「クイズ番組の視聴者=舞台の観客」のメタ的な二重性のうちに、「何が“正解”なのか麻痺した異常状態の常態化」がじわじわと浸透してくる。しかも果てしなく連呼されるのは、「消費」「資本主義」「セクシズム」を端的に示す3つの単語だ。
そして、アーザーデ・シャーミーリーの静かな会話劇『Voicelessness ─声なき声』が扱うのは、「死者の声(抑圧された者の声)を聴くこと」の可能性と倫理性だ。「2070年のイラン」という近未来の設定下、主人公の若い女性は、50年前の祖父の失踪事件の真相を突き止めるため、自作の装置を用いて昏睡状態の母と会話する。物理的な死者と、昏睡状態すなわち「声を封じられた者」。だが、「こだま」の反響が身体を離れても存在可能な声であるように、彼らの「遅れて届いた声」は受信可能なのではないか。「声の復元」の試みは同時に、「隠された過去を暴く」という倫理的問題との両義性を帯びる。また、「病前の母親の姿をデータ再生した映像」は、紗幕のスクリーンの向こう側に立つ生身の俳優によって亡霊的に演じられる。娘と母を隔てるスクリーンは、母娘の確執、生者と死者の隔たりを可視化すると同時に、現実の反映/遮蔽して見えづらくする装置でもあり、両義的だ。「SF」の設定だが、「科学的」説明もそれらしきギミックも登場しない本作は、「演劇」自体が、「語る」装置であること以上に、「他者の声を聴く」ためのものでもあることを示唆する。そして、死者、抑圧・忘却された者、未だ生まれざる胎児など「聴こえない声」の可視化への希求という点で本作は、海中を歩くラインカウフの映像と歩みを共にするのだ。
公式サイト:https://kyoto-ex.jp
2022/10/23(日)(高嶋慈)
母袋俊也 魂—身体 そして光 《ta・KK・ei》《TA・GEMBAKZU》
会期:2022/10/22(土)~2023/01/22(日)
原爆の図 丸木美術館[埼玉県]
バリバリのフォーマリスト母袋俊也が、ゴリゴリの社会派である原爆の図丸木美術館で個展を開く。ジャーナリスティックに書けばそういうことだが、水と油のような両者も案外相性は悪くなさそうだ。いくら母袋が「フォーマート(絵画形式)」を重視するといっても、それだけで絵が描けるはずもなく、「精神性」をもう一つの柱としてきたからだ。これまでグリューネヴァルトの祭壇画、アンドレイ・ルブリョフのイコンなどに触発されてきた彼が、近年関心を深めていたのがまさに丸木夫妻による「原爆の図」だった。
大きな展示室3に入ると、丸木夫妻による「原爆の図」第3部《水》の実物大コピーと、それに基づいて制作された母袋の《TA・GEMBAKZU》が目に入る。タイトルの「TA」とは母袋の符牒で、日本の屏風や障壁画などに見られる偶数パネルの連結を意味する(対して、西洋の祭壇画のような奇数パネルを彼は「Qf」と呼ぶ)。母袋はモノクロームの《水》をTA系として画面構造を分析し、同作品と同じサイズの画面に水平、垂直、斜めの補助線を入れて分割、彩色し、まったく別の「母袋絵画」に変容させている。赤ん坊を抱く母を中心に左右に群像が広がる構図は、西洋の「聖母子像」や「最後の晩餐」といった宗教画を想起させ、これまでの母袋のモチーフとの共通性を示唆しているかのようだ。
それだけではない。《水》および《TA・GEMBAKZU》の地平線を壁面に延長させ、その水平線に合わせてグリューネヴァルトの《磔刑図》にヒントを得た新旧の《ta・KK・ei》シリーズを配置。さらに壁の上方に空を描いた旧作《Himmel Bild》7点を掲げ、手前の床には梯子状の《ヤコブの梯子・枠窓》を設置することで、この展示室全体をひとつのインスタレーションに仕立て上げてみせた。
ちなみに母袋の参照したグリューネヴァルトの《磔刑図》は当時、流行病の治療を行なう修道院に飾られ、病人たちの痛みをキリストの痛みに重ねて昇華する役割を担っていたという。この《磔刑図》に想を得た《ta・KK・ei》は以前から制作していたが、今回はこれに現在のコロナ禍を重ねて再びシリーズとして取り組んでいる。展示室1と2ではこの《ta・KK・ei》の新シリーズと、《TA・GEMBAKZU》のプランドローイングが中心となり、全体でフォーマートより精神性を前面に押し出した展示となっている。
公式サイト:https://marukigallery.jp/5784/
2022/10/22(土)(村田真)
特別展「Life with Bonsai〜はじめよう、盆栽のある暮らし」
会期:2022/10/14~2022/11/09
さいたま市大宮盆栽美術館[埼玉県]
昨年春、美術家2人を招聘した企画展が記憶に新しいさいたま市大宮盆栽美術館で、特別展「Life with Bonsai」が開催された。今度は美術家をはじめ建築家、写真家、ファッションデザイナー、編集者ら多彩な9人のクリエイターを招き、それぞれが独自の盆栽飾りを発表した。盆栽飾りは、盆栽、掛軸、添物(水石や小さな盆栽)を設える三点飾りが基本。このいわば“型”をいかに押さえつつ崩すかが、センスの見せどころとなる。その点で本展はかなりバラエティーに富んだ内容であった。
まず印象に残ったのは、写真家、大和田良の展示である。構成要素が三点に絞られている点で、三点飾りの基本に則ってはいるのだが、主となるのは盆栽ではなく水石で、添物として小さな盆栽が脇の付書院に飾られているのみだった。なぜこうした構成なのかと言えば、京都の加茂川流域で採れる「水溜り石」を撮った自身の写真作品が掛軸として掛けられていたからだ。その掛軸と対比させるように「加茂川石」を水石にし、それをあえて主に選んだようである。被写体を二次元から三次元へと広げるがごとく、写真と本物とを同等に並べて見せるところが、実に写真家らしい発想に思えた。
ほかにファッションデザイナーの津森千里や、建築家・プロダクトデザイナーの板坂諭の展示もユニークだったが、やはり注目したいのは昨年春にも参加した須田悦弘、ミヤケマイの美術家2人である。須田の展示は、一見、山もみじの盆栽が卓の上に設えられているだけに見える。キャプションを見ると、作品名も「もみじ」とあり、いったいどれが彼の作品? と戸惑うのだが、配布資料に親切にも説明が書かれていたことで理解できた。なんと、床に一葉落ちていた“落ち葉”が彼の彫刻作品だったのだ。あえて偽物を本物に紛れさせた挑戦的な展示である。一方でミヤケの展示は、床の間飾りに精通した彼女らしい完成度を見せていた。テーマは「虫養い」で、これは小腹が空いた時に食べる「お腹の虫に与えるおやつ」という意味だそう。また本展開催時の10月は、茶の湯では新茶の茶壺を開く直前の「名残の月」と呼ばれることに合わせ、遊び心にあふれた自身の掛軸作品などを取り合わせていた。結局、盆栽をどう解釈するのかは自由でいい。そんなメッセージを本展から受け取った。
公式サイト:https://www.bonsai-art-museum.jp/ja/exhibition/exhibition-8285/
関連レビュー
「さいたま市民の日」記念企画展 第6回「世界盆栽の日」記念・「さいたま国際芸術祭 Since2020」コラボレーション展 ×須田悦弘・ミヤケマイ|杉江あこ:artscapeレビュー(2021年05月15日号)
2022/10/22(土)(杉江あこ)
十和田市現代美術館「名和晃平 生成する表皮」展ほか
十和田市現代美術館、space、十和田市地域交流センター[青森県]
約1年半ぶりに、十和田市に足を運んだ。藤本壮介が設計した《十和田市地域交流センター》(2022)が、商店街の銀行跡地に新しくオープンしたからである。大きな白い壁にいくつかの矩形の開口部をもうけ、空や街の風景を切りとる建築だ。訪問した日は晴天だったから、白い壁と青い空の対比がもっともよく映えるタイミングである。壁の背後には屋内広場が展開し、夏期は中心部が噴水にもなっているという。オープニングにあわせて、大ギャラリーは、十和田市現代美術館と連携し、「名和晃平 生成する表皮」展の別会場として使われていた。ここでは表皮が物理的に安定せず、微妙に変化を続ける黒い作品群が並べられている。美術館の方では、常設の期間限定展示《PixCell-Deer#52》(2018)のほか、企画展のエリアにおいて、空気が沸きでるシリコン・オイルの新バージョン《Biomatrix(W)》(2022)、未見だった初期ドローイング群、ドットを落としていく絵画の新しいシリーズ「White Code」(2022)が紹介されていた。やはり、その創作にはさまざまな実験を伴う、理系アートというべき作品である。
前回と比べて、美術館の常設に新顔が加わっていた。前述の《PixCell-Deer#52》、塩田千春の赤い糸と船による《水の記憶》、そしてレアンドロ・エルリッヒによる鏡を用いた巨大な建物風インスタレーションである。3番目の作品は位置的に見落としやすいが、美術館の背後、すなわち元駐車場エリアの新棟に設置された。さまざまなホワイトキューブに固定した常設の作品を最大の特徴として登場したが、街に新しい息吹を送り込みながら、館そのものも変化している。もともと筆者は、この美術館の設計コンペの審査員をつとめていたので、完成後も成長が続いていることが喜ばしい。ちなみに、名和も、筆者が審査と展示を担当したキリンアートアワード2002(K.K.の問題作「ワラッテイイトモ、」で話題になったとき)から見続けている作家である。また十和田の街中では、船の移動をテーマとする「青柳菜摘 亡船記(サテライト会場 space)」展を複数の会場で開催中だった。この会場をめぐる途中で、ストリートファニチャーの一環として、アーティストだけでなく、マウントフジアーキテクツも鏡面の屋外ベンチを設置していたことに気づいた。
名和晃平 生成する表皮
会期:2022年6月18日(土)~11月20日(日)
会場:十和田市現代美術館(青森県十和田市西二番町10-9)
青柳菜摘 亡船記
会期:2022年9月17日(土)~12月18日(日)
会場:space(青森県十和田市西三番町18-20)ほか6会場
2022/10/20(木)(五十嵐太郎)