artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

野口里佳 不思議な力

会期:2022/10/07~2023/01/22

東京都写真美術館2階展示室[東京都]

2014年9月~11月に開催された個展「父のアルバム/不思議な力」(ギャラリー916)を見た時、野口里佳の写真の世界が変わりつつあるのではないかと思った。同展には、野口の父が撮影した家族や花の写真を、彼女自身がセレクトしてプリントした「父のアルバム」、身の回り(特に台所)で起きるちょっと不思議な現象を、父の遺品であるオリンパスペンFで撮影した「不思議な力」の2シリーズが出品されていた。それまで、被写体とやや距離を置いた巨視的な世界の作品を主に制作していた野口が、身近な日常を細やかに捉えた写真作品を発表したことがとても印象深かったのだ。

今回の東京都写真美術館の展覧会には、その2シリーズに加えて、初期の「潜る人」(1995)から新作の「ヤシの木」(2022)に至るさまざまなスタイル、手法の作品が出品されていた。《夜の星へ》(2015)、《アオムシ》(2019)、《虫・木の葉・鳥の声》(2020)などの映像作品もあり、壁には野口自身による味わい深いドローイング《やんばるの森》(2022)が描かれている。主な展示作品は、野口が12年間滞在したドイツ・ベルリンから沖縄・那覇に移り住んでから以降のものだが、そこにも制作環境の変化と作風の変化とがシンクロしている様子が伺えた。とはいえ、視点がやや微視的になったとしても、現実世界の様相を原理的に掴み出し、写真というフィルターを通して提示しようとする野口の姿勢に変わりはない。それらに、ほのかなユーモアのセンスを加味することで、チャーミングな作品群として成立させていた。

公式サイト: https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-4270.html

2022/10/06(木)(内覧会)(飯沢耕太郎)

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国際芸術祭「あいち2022」 百瀬文《Jokanaan》、『クローラー』

会期:2022/07/30~2022/10/10

愛知芸術文化センター、愛知県芸術劇場 小ホール[愛知県]

愛知芸術文化センターでの展示作品《Jokanaan》(2019)と、1対1の体験型パフォーマンス作品『クローラー』。本稿では、百瀬文の秀逸な2作品を、「女性が欲望の主体であることの回復」「見る/見られるという視線の構造」「他者の欲望の代演」という繋がりの糸から取り上げる。

2チャンネルの映像作品《Jokanaan》では、オペラ『サロメ』でヨカナーン(預言者ヨハネ)への狂信的な愛を歌い上げるサロメの歌が流れるなか、左画面ではモーションキャプチャースーツを着て口パクで踊る男性パフォーマーが映され、右画面では、男性の動きのデータを元につくられた3DCGの女性像が映る。ユダヤ王の娘サロメは、幽閉されたヨカナーンに恋焦がれるが、愛を拒絶されたため、踊りの褒美に彼の生首を所望し、銀の皿に載せられた生首の唇に恍惚状態で接吻する。独占欲、プライド、絶望、歓喜がない交ぜになった倒錯的な愛のアリア。同期する二人の男女は、激情をぶつけ合う恋人どうしの二重唱のように見えるが、「なぜ私を見つめてくれないの」というサロメの台詞を文字通り遂行するように、両者の視線は同じ方向を向き、いっさい交わらない。



国際芸術祭「あいち2022」展示風景
百瀬文《Jokanaan》(2019)[© 国際芸術祭「あいち」組織委員会 撮影:ToLoLo studio]


一方、映像の後半では、(カメラワークの妙もあり)二人の動きは次第にズレをはらみ、男性がモーションキャプチャースーツを脱いで動きを止めても、CGの女性は歌い踊り続ける。女性の足元には(CGの)血だけがついた空の皿が置かれ、男性の足元には実物の銀色の皿が置かれている。ラストシーンでは、男性が身を横たえて皿の上に首を載せ、「ヨカナーンの生首」を演じる一方、右側の画面は血のついた皿だけを映し、女性の姿は映らない。



国際芸術祭「あいち2022」展示風景
百瀬文《Jokanaan》(2019)


これは、「視線」と密接に結び付いた、「欲望の主体の回復」についての秀逸な逆転劇だ。前半では、「性に奔放で、男を破滅に導くファム・ファタール」という性幻想が、まさに男性の身体を通して生産され、CGであるサロメは他者の描く欲望を忠実に代演し続けるしかない。だがこの従属関係は次第に歪み始め、男性がスーツを脱ぐことでサロメはコントロールから解放され、最終的には画面から「消失」する。すなわち「見られる対象」ではなくなり、「サロメ自身の視線」が捉えたイメージ(だけ)が映し出される。しかもそこには、それまで欲望の主体の側だった「左画面」に投影され、上書きし、奪い返して占拠するという二重の転倒が仕掛けられているのだ。


一方、パフォーミングアーツのプログラムで上演された『クローラー』では、観客はたった一人で暗闇のなか、車椅子に座り、肩にかけたウェアラブルスピーカーから聴こえる、極めて親密な女性の語りに耳を傾ける。脳性麻痺のため、車椅子に乗っている硬直した身体。うまく開かない股の割れ目に差し入れる不器用な手。遠くに小さな灯がともる。声の指示に従い、車椅子に座る私は、その灯に向かってゆっくりと車輪をこぐ。慣れない車椅子の操作、暗闇と静寂に包まれる不安と緊張感。そのぎこちない道のりは、声が語る「遠くの灯台へ向かって漕ぎ出すような、オルガズムへのゆるやかな到達」と同時に、「障害者女性の性」という遠く隔たった存在へ向かっていく二重のメタ性を帯びている。誰の姿も見えない暗闇は、「社会の中で不可視化されていること」を文字通り指し示す。その暗闇はまた、絶対的な孤独と同時に、「誰からも見られていない」という安全の保証でもあり、多義性を帯びている。



百瀬文『クローラー』 (2022)[撮影:今井隆之 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]


灯に近づくにつれ、車椅子をこぐ指が冷たくなり、2つに見えた灯が実は水面に映る影で、浅く水の張られた水面を進んでいたのだと分かる。そして灯の向こうに、おぼろげな白い人影が揺らめく。声が語る、お気に入りのアダルトビデオ。障害者専門のセックスワークに従事した経験。絶頂を感じる瞬間、身体の日常的な痛みから解放される、それが自慰行為の目的であること。人影はちゃぷちゃぷと水音を立ててこちらに歩み、車椅子の隣にかがんでともに灯を見つめる。オルガズムへの接近を告げるように明るさを増す灯。対峙の恐怖から、「誰かが傍にいて寄り添ってくれる」安心感へ。ゆっくりと車椅子を押して灯の周囲を一周してくれるその人は、メタレベルでは、オルガズムへの到達に導いてくれる存在だ。ちゃぷ、ちゃぷというリズミカルな水音は、濡れる粘膜が立てる音へと想像のなかで変換される。だが私の身体、特に下半身は水の冷気で冷たくこわばっていく。15分という短くも長い上演時間は、語り手とともに想像のオルガズムを共有するために必要な時間だったのだ。



百瀬文『クローラー』 (2022)[撮影:今井隆之 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]


百瀬は、障害者専門のセックスワークの経験がある障害者女性への取材を元にテキストを書き、その女性自身が朗読を担当した。「舞台上の障害者を一方的に眼差す」という非対称な関係性ではなく、(「誰にも姿が見られていない」ことも含めて)観客自身が当事者に近い状況に置かれたとき、身体感覚と想像力をどこまで接近させられるのか(あるいは、どのように接近できないのか)。「障害者女性の性とケア」という社会的に不可視化された領域を、車椅子、灯、水を用いた緻密な構築により、まさに暗闇の中でこそ(擬似)体験可能なものとして身体的にインストールさせる本作は、VRとは別の形で、「抑圧され、共有困難な他者の欲望をどのように代演・想像できるか?」という困難な問いに応えていた。



百瀬文『クローラー』 (2022)[撮影:今井隆之 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]


*『クローラー』の上演日は2022年10月6日(木)〜10月10日(月・祝)。


公式サイト:https://aichitriennale.jp/artists/momose-aya.html

関連レビュー

新・今日の作家展2021 日常の輪郭/百瀬文|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年11月15日号)
百瀬文『鍼を打つ』|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年04月01日号)

2022/10/06(高嶋慈)

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国際芸術祭「あいち2022」 アピチャッポン・ウィーラセタクン『太陽との対話(VR)』

会期:2022/10/04~2022/10/10

愛知県芸術劇場 大リハーサル室[愛知県]

映画とVRは共存・融合可能なのか。「スクリーンという同一平面に投影された光を見つめる」という映画の集団的な没入体験は、VRによってさらに拡張されるのか。そのとき映画は、「集合的な夢への没入」の座をVRに明け渡してしまうのか、あるいは映画とは、宇宙空間で膨張し続ける太陽のように、VRすらも飲み込んでしまう巨大な光なのか。映画館の座席に身体をあずけたまま夢を見る──仮死状態にある観客の身体は、VR装置によって、互いの姿が見えないままゾンビ的な緩慢さでさまよう亡霊的身体に変容させられるのか。だとすれば、映画からVRへの移行は、あるひとつの(仮)死から別の(仮)死への不連続的な移行ではないか。その移行自体を、どのように体験/眼差すことが可能か。

アピチャッポン・ウィーラセタクンが国際芸術祭「あいち2022」から委嘱を受けて制作した、初のVR体験型パフォーマンスである本作は、このような問いの連鎖の周りを旋回する。本作は二部構成で、前半では、上演空間の中央に吊られた二面スクリーンに投影される映画を鑑賞し、後半ではVRのヘッドセットを付けて鑑賞する。そして本作の最大のポイントは、前半/後半が同一空間で展開され、映画/VRそれぞれの鑑賞者が混在する点だ

映画は両面とも「眠る人」の映像で始まり、ゆるやかに同期しつつ、裏表で異なる映像が映し出されていく。緑したたるテラスや深い森を背に語られる、断片的なモノローグ。「夕方、盲目の詩人が街に繰り出す」という夢。「歩いている人、止まっている人。彼らは見ているふりをする。歩き続けている人もいる」……。中庭に揺れるハンモック。ギターを爪弾く男。俯瞰ショットで捉えたデモや集会では、人々の持つ灯が星の瞬きのようにきらめき、美しい波動となって地を覆う。裏面では回転するネオン管のオブジェが映され、エモーショナルな夢幻性を高める。巨大な太陽の出現。そして再び眠る人の映像に、「都市」「最後の夢」「1000日分の昨日」「影」「無政府/君主制」「消された」「歴史」「遠くにある映画」「寺院の光」といった単語がエンドロールのように流れていく。



[撮影:佐藤駿 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]


後半、VRのヘッドセットを付けると、映画からバトンを受け取るように、「眠る人が映るスクリーン」が同じ場所に浮かんでいる。さらに、何人もの「眠る人」のスクリーンが周囲を取り囲む。他のVR鑑賞者は「浮遊する白い光の球体」として見え、身体を失った私は多数の死者の魂とともに、「他者の夢」という異界に入っていく。スクリーン群は徐々に消滅し、闇に飲み込まれ、荒涼とした岩の大地が現われる。ゆっくりと頭上から落下する岩石、流星をかたどったような光の構造体。この異星の洞窟には、原始的な壁画と奇妙で巨大な石像がある。両眼を塗り潰され、唇を縫い合わされつつ、勃起した男根を持つ石像だ。巨大な光の球体の出現と分裂、消滅。やがて視点は地面を離れ、他の死者の魂たちと暗い洞窟のなかを上昇=昇天していく。足下を見下ろすと、石像の頭部が溶けかかったように崩れている。長く暗い産道。頭上の出口に見えるまばゆい光。太陽のようなその球体はぽこぽこと分裂し、小さな恒星を生み出すが、内側から黒い球体に侵食され、闇に飲み込まれていく。ひとつの惑星の文明や政治体制の死と、太陽の誕生と死という宇宙的スケールの時間が重なり合う。

本作のVR体験とは、「映画のスクリーンに映る、眠る人々」が見ている夢の中へまさに入っていく体験であり、二部構成だが、構造的には入れ子状をなす。夢の世界では、身体感覚を手放し、他者の存在しない、イメージと音だけの世界を一人称視点でさまよう。夢とVRの相似形は、前半の映画パートで、VR体験者が夢遊病者のように見えることで強調される。VR体験者たちの動きが止まったり、一斉に頭上をあおぐ様子は、彼らが集団的な夢の中にいることを示唆する。それはオルタナティブな現実への夢想なのか、それとも現実を忘却させる麻薬的な陶酔なのか。また、映画パートで語られる「街に繰り出す盲目の詩人たち」「歩いている人、止まっている人。彼らは見ているふりをする」といった台詞は、VR体験者をメタ的に言及し、「夢の中に入り込む」VR体験を「語り手が見た夢」の中にまさに入れ子状に取り込んでしまう。



[撮影:佐藤駿 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]



[撮影:佐藤駿 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]


アピチャッポンは過去の映画作品でも、現実と並行的に存在する「夢の中の世界」や、夢を通して死者の霊と交信する物語を描いてきた。だがそこには、「夢というもうひとつの世界を、スクリーンという同一平面上で見るしかない」という物理的制約があった。しかし本作でアピチャッポンは、「映画の技術的拡張としてのVRの援用」にとどまらず、「映画」の中にVRを取り込み吸収してしまったのだ。3年前のあいちトリエンナーレ2019で上演された小泉明郎のVR作品『縛られたプロメテウス』も、同様に「VR体験中の鑑賞者を眼差す」体験を組み込むことで、「身体感覚の希薄化/他者との共有の回路」「他者の身体を眼差すことと倫理性」について批評的に問うものだった。本作もそうしたVR自体への自己言及を基盤に、物理的制約を解かれた「映画」の中にVRさえも飲み込んでしまう、静謐だが恐るべき作品だった。


★──ただし、上演時間1時間のうち、観客は30分ごとに入場して前半(映画)/後半(VR)が入れ替わるため、各日とも、「初回の前半」は映画パートの観客のみ、「最終回の後半」はVRパートの観客のみであり、混在状態にはならない。


公式サイト:https://aichitriennale.jp/artists/apichatpong-weerasethakul.html

関連レビュー

あいちトリエンナーレ2019 情の時代|小泉明郎『縛られたプロメテウス』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年11月15日号)
アピチャッポン・ウィーラセタクン「光りの墓」|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年05月15日号)
アピチャッポン・ウィーラセタクン「世紀の光」|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年05月15日号)

2022/10/04(高嶋慈)

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「U-35」展、「展覧会 岡本太郎」「みんなのまち 大阪の肖像(2)」

[大阪府]

今年も若手建築家による「U-35」展(「35歳以下の若手建築家による建築の展覧会」)が、大阪駅前のうめきたSHIPホールで開催されたが、ようやくほぼコロナ禍以前に近いオペレーションの状況に戻ってきた。ほとんどの出品者が1/1スケールのインスタレーションを設置し、いつも以上に熱が入った展示空間になっている。各自の切り口は別々だが、シンポジウムでの議論の結果、ゴールドメダル受賞に選ばれた佐々木慧が掲げた、これまでの統合と違う「非建築をめざして」のマニフェストに代表されるように、全体性を揺るがすプロジェクトが目立つ。例えば、キーワードを拾っていくと、金継ぎに着想を得た「繕う」(Aleksandra Kovaleva+佐藤敬)、イメージのズレに注目する「全体像とその断片」(森恵吾+Jie Zhang)、インテリアが変化していく「壊れた偶然」(西倉美祝)、組積造の可能性を拓く「ブリコラージュ」(山田健太朗)、木質化された耐火壁の提案(奥本卓也)、樹種の違いの構造化(甲斐貴大)などである。なお、佐々木は模型の梱包材が、そのまま積み重ねて展示する什器となり、建築モデルを兼ねるものだった。またAleksandra+佐藤によるヴェネツィアビエンナーレのロシア館の改修は、もとがかなり奇妙な空間だっただけに、これまでの変化の痕跡を残しつつ、爽やかな空間に生まれ変わった状態を、おそらく来年に見学するのが楽しみである。



佐々木慧の作品




Aleksandra Kovaleva+佐藤敬の作品




森恵吾+Jie Zhangの作品


U-35展にあわせて、大阪中之島美術館にも足を運んだ。まず「展覧会 岡本太郎」は会期の終わりだったこともあるが、来場者の多さに驚かされた。日本において世代を超えて、親子で楽しめる類稀なアーティストだろう。内容は絵画メインではなく、公共的な作品、写真、著作、グッズ、ロゴのデザイン、CMの出演などを含む、幅広い活動を網羅しており、その方がやはり全身芸術家としての彼らしさが発揮されている。写真撮影OKというのも、作品の私有を嫌った彼にふさわしい。研究としては、新発見されたパリ時代の作品、ならびに岡本が自らの絵画に手を入れて改作している数々の事例が紹介されていたことが興味深い。もうひとつの「みんなのまち 大阪の肖像(2)」展は、コレクションをベースに都市の風景をたどる企画の第2弾である。焼け跡を描いた絵画から始まり、途中からはポスターや懐かしい家電、そしてなんと1/1スケールで再現され、内部の各部屋に入ることができる軽量鉄骨の工業化住宅、2025年の大阪万博を意識した1970年万博の資料なども登場する。同館がデザインの分野にも力を入れていることがよくわかり、頼もしい。



「展覧会 岡本太郎」 パリでの新発見




「展覧会 岡本太郎」 のちに加筆された絵画




「みんなのまち 大阪の肖像(2)」展 軽量鉄骨の工業化住宅




「みんなのまち 大阪の肖像(2)」展 軽量鉄骨の工業化住宅


35歳以下の若手建築家による建築の展覧会(U-35)

会期:2022年9月30日(金)~10月10日(月・祝)
会場:うめきたシップホール(大阪市北区大深町4-1うめきた広場)

展覧会 岡本太郎

会期:2022年7月23日(土)~10月2日(日)
会場:大阪中之島美術館(大阪府大阪市北区中之島4-3-1)

みんなのまち 大阪の肖像(2)

会期:2022年8月6日(土)~10月2日(日)
会場:大阪中之島美術館(大阪府大阪市北区中之島4-3-1)

2022/10/01(土)(五十嵐太郎)

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南三陸311メモリアル

南三陸311メモリアル[宮城県]

リボーンアート・フェスティバルを見に行ったついでに、といったらなんだが、震災・津波の遺構や伝承館などをいくつか見て回った。最初に訪れたのは、石巻市の震災遺構門脇小学校(1)、近くの復興祈念公園内に建てられたみやぎ東日本大震災津波伝承館(2)。そこから北上して、気仙沼市の東日本大震災遺構・伝承館(3)、リアス・アーク美術館(4)。そして帰りに寄ったのが、南三陸311メモリアル(5)だった(正式オープンはぼくが訪れた翌日の10月1日だったので、準備で忙しいなか特別に見せていただいた)。

これら5つの施設を大別すると、被災した小学校や高校の校舎跡をそのまま残した遺構(1、3)、被災状況を文章や映像で伝えるために新たに建てられた施設(2、5)、被災物や記録写真などの常設展示室を設けた美術館(4)となる(1と3の遺構は伝承施設も備えている)。これをメディア別に見ると、遺構や被災物などの「モノ」に語らせる、被災者の証言や記録などの「コトバ」で伝える、写真や映像などの「イメージ」に訴える、の3つに大別できる。南三陸311メモリアルがユニークなのは、これに「アート」を加えたことだ。

311メモリアルでまず目立つのは、地元の杉材を斜めに組んだ鋭角的な建築だ。設計したのは、この地区のグランドデザインを手がけた建築家の隈研吾。館内では南三陸町の被害の実態や町民たちの証言なども紹介しているが、ユニークなのは「メモリアル」と題されたアートゾーンを設けていること。入ると、暗がりのなかから山積みになった無数の箱が浮かび上がってくる。昨年亡くなったアーティスト、クリスチャン・ボルタンスキーの遺作ともいうべきインスタレーションだ。



[筆者撮影]


箱がいくつあるのか、なにが入っているのかわからないが、だれもがこれを見て死を連想するに違いない。ボルタンスキーはこれまでにも子供たちの顔写真や影絵、心臓の鼓動音などを使って生と死を表象してきた。アートによって理不尽な大量死に普遍性を与える──これがナチス政権下のパリに生まれたユダヤ系のフランス人ボルタンスキーの意図であり、それに共感した南三陸の思いでもあるだろう。

館内にはほかにも、写真家の浅田政志が地元の人たちとアイディアを出し合いながらつくり上げた写真が展示され、壁や床には「天災は忘れた頃にやってくる」といった名言が掲げられている。具体的な被災物や住人の証言は重々しく、生々しいが、時とともに風化し、忘れられてしまいがち。だからこそ残しておかなければならないのだが、そこにアートを加えることで普遍性が与えられ、モノやコトバとは違った説得力が生まれるはずだ。

関連レビュー

石巻の震災遺構|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2022年04月15日号)
大船渡、陸前高田、気仙沼をまわる|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2020年09月15日号)

2022/09/30(金)(村田真)