artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
大西みつぐ「島から NEWCOAST 2020-2022」
会期:2022/09/17~2022/10/26
エプサイトギャラリー[東京都]
大西みつぐは、1980年代半ばごろから人工干潟を含む東京湾の臨海地域にカメラを向けてきた。今回発表されたのはその「NEWCOAST」シリーズの新作で、新型コロナウィルス感染症によるパンデミック以降に撮影された写真群である。
大西は生まれ育った荒川と旧江戸川に囲まれた地域を、「半島」と感じながら撮影してきたという。ところが、2020年のコロナ禍による緊急事態宣言以後、人影が消えたこの地域の風景は大きく変わり、「とても空虚で殺伐とした空間の連なり」に変貌していった。それでも撮影を続けるうちに、その「孤島」の雰囲気が次第に薄れ、「大きな島」のように感じられるようになってきたのだという。
今回の展示で目につくのは、昆虫、蛇、鳥、蚯蚓などの小動物、あるいは植物たちを中心に撮影した写真である。大西の真骨頂はさまざまな「人」のふるまいを捉えたスナップ写真であり、このような純粋なネイチャー・フォトともいえる写真は、これまであまり発表してこなかったはずだ。大西の視点が大きく変わったわけではなく、本展の出品作にも、戻り始めた「人」の姿もまたしっかりと写り込んでいる。ただ、移ろいやすい「人」と、永続的に繰り返し続けていく「自然」とを共存させていく志向性が形をとってきたことで、「NEWCOAST」シリーズにさらなる厚みと奥行きが備わってきた。このシリーズを、もう少し長いスパンで見直してみたい。新たな発見があるのではないだろうか。
関連レビュー
大西みつぐ「ニューコースト」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年12月15日号)
2022/09/19(月)(飯沢耕太郎)
ライアン・ガンダー われらの時代のサイン
会期:2022/07/16~2022/09/19
東京オペラシティ アートギャラリー[東京都]
2021年4月に開催されるはずが、新型コロナウイルス感染症の拡大により延期されていた本展が、満を辞して開催された。その喜びを祝福するかのように、私が訪ねた最終日には、会場の入り口に観客の列ができていた。見ること/読むことの欲望を素直に刺激し享受する、心地よい展覧会である。
多くの観客を集めた理由のひとつに、会場がすべて撮影可ということも挙げられるだろう。拡散されたイメージを入り口とした観客も、来場すればすでにそれを読むためのゲームに巻き込まれていたことに気づかされる。ガンダーの作品のなかには、硬貨や紙幣、自動販売機や番号が印字された紙片の発行機といった社会のシステムを想起させるモチーフが散りばめられている。そのうちのひとつである自動販売機を模したケースには作品のほか複数の石が並べられ、29,999円を支払うとそれらがランダムに提供されるという。作品のタイトルは《有効に使えた時間》(2019)。信用の交換によって成り立っている売買の仕組がずらされ、ものの価値を支えている差異とそれを享受する時間について思いを巡らせる。石から連想されるのはこの作品だけではない。《すべてのその前:画家の手による学術界への一刺し》(2019)は、作家が発明した「石文字」とそれを解読するための「教育」の関係を思わせる。それだけでなく、文字による記述を超えて読解の余地をつないできた絵画の歴史を想起させるのだ。その伏線として解釈できる《自分にさえまだ説明できない》(2020)は、「レベルA:アート&デザイン」と題された試験問題と思しき用紙が印刷されて積み上げられた作品で、観客はその用紙を自由に持ち帰って読むことができる。私が今ここでつなげた物語は一部に過ぎない。ガンダーが仕掛けた問いかけは、もっと直感的に受け止められるものもあれば、組み合わせによって異なる物語に発展する可能性もある。親子連れやカップル、友人同士などさまざまな年齢層の観客が会場で時間を共にしながら、思い思いにゲームに興じる様子がとても印象的であった。
最後に、今回のもう一つの見どころは、ガンダーの個展に続き、寺田小太郎のコレクションをガンダーのキュレーションによって紹介するという構成になっている点である。「色を想像する(Colours of the imagination)」と題した今回の展示は、絵画、写真、陶芸を含むモノトーンの作品が選ばれ、壁の片面に2〜3段掛けで配置されていた。その向かいの壁面には作品と同じサイズの輪郭線がかたどられ、キャプションが配置されている。左右の壁を対照しながら進んでいくのだが、右側の壁に向き合えば文字情報なしに作品の連なりが生み出すリズムを感じ取ることができる。寺田のコレクションをガンダーが見立て、配置することにより、二人の解釈が響き合う。「色」という言葉にはさまざまなニュアンスがあるが、「色彩」だけでなく複数の「個性」とそこから生まれる「解釈」の自由が際立っていた。
なお、「ライアン・ガンダーが選ぶ収蔵品展|色を想像する」は、個展の延期に伴い2021年4月17日から6月21日に開催された「ライアン・ガンダーが選ぶ収蔵品展|ストーリーはいつも不完全……色を想像する」のうち、上階部分の展示を再構成したという。私自身は2021年の展示を観ることが叶わなかったが、執筆後の取材により、今回は2021年版の再現としつつも、実は会場の中心を軸に左右線対称に反転させて配置するという仕掛けが仕組まれていたことを知り、さらに興味を惹かれた。引用と再配置によって生まれる解釈の可能性を取り入れることは、延期という偶然すらチャンスへと変えてしまう試みに思えたのだ。
2022/09/19(月)(伊村靖子)
金沢ナイトミュージアム2022 永田康祐個展「Feasting Wild」@karch
会期:2022/09/10~2022/09/19
karch[石川県]
半地下のレストランに入って席に案内されると、机の上のナプキンには紙片が置いてあった。本稿で扱う永田康祐によるパフォーマンス「Feasting Wild」は、スペインのレストラン「エル・ブジ」のシェフ、フェラン・アドリアによるコンセプチュアル・キュイジーヌ以降のコース料理の提供の形式に則っている。
具体的には、2時間半ほどをかけて10品の料理がサーブされた。フィンガーフードが3品、そのあとに温前菜、冷前菜、リゾット、魚料理、肉料理、そして皿盛りのデザートが2皿、さらに料理とペアリングされた手製のノンアルコールドリンク5杯で構成されている。この構成は世界中のそこかしこで楽しまれている料理形式だといえるだろう。
先述したコンセプチュアル・キュイジーヌとは、アドリアがコンセプチュアル・アートを念頭に自身の活動を説明した言葉だ。アドリアは「エル・ブジ」でフランス料理を経たスペイン料理の再解釈から始め、次第に、異文化との衝突による味や食材の組み合わせの新規性ではなく、物事のあり方や考え方をすべてを刷新してしまうような「新しい」概念の創造をそこで目指すようになっていった。アドリア(=「モダニズム料理」あるいは「分子料理」)に影響を受けたそれ以降の料理を人類学者の藤田周は「現代料理」と呼ぶ
。わたしはその現代料理を、フランス料理を骨子としたグローバルな言語をもってそれぞれの土地や諸文化に根ざしたヴァナキュラーな料理を他者や当事者にわからせるということであり、のまれ合うというその方法、あり方自体の開発が目指された料理形式だと捉えている。この時代の流れから考えたとき、永田の本作にはコンセプチュアル・キュイジーヌにとっての「新しさ」と現代料理における方法論が同居している。わたしは料理についての話をしていたのだが、ここでボリス・グロイスが論じるところの「新しさ」が頭をよぎる。現代美術における新しさとは、美術館にどう持ち込まれたのかなのだと歴史を語るその言葉を反芻してみよう。永田は美術館ではなく、karchという常日頃からレストランである場所でのポップアップとして、あるいは展覧会としてディナーコースを提供する。じゃあこの場合、何が新しいのか。ただ美術家として、アートワールドに向けたプレスリリースを打ち、展覧会と銘打ってフルコースディナーを作家が調理場でつくり込んでいることが新しいのだろうか。はたしてこれは現代美術による諸文化の剽窃行為なのだろうか。
いよいよパフォーマンスが始まる。作家である永田からは、本日のあらましと料理がセクションごとに分かれていて、セクションごとに名前が付けられているという立て付けについて、そしてキュレーターの金谷亜祐美からは、本展では永田が書き下ろした提供料理についてのキャプションが都度配られるといった説明があった。永田がキッチンにせわしなく戻る。料理の提供が始まる。美味しい。ここで振舞われたコースの料理の品目を提供順に記しておこう。
フィンガーフードの3品は「手つかずの自然」と題され、それぞれ「鰹 フルムダンベール」、「鶏肝 牛蒡 山桑」、「猪」で構成されている。前菜は「家畜」というセクションで、茶碗蒸しのような温前菜「蚕 銀杏 真桑」と「三倍体真牡蠣 ホエイ 林檎」の冷前菜が提供された。次は「他者としての自然」という「みき粕 蜜蜂花粉ガルム 豚」のリゾット。
メインに入っていく。「野良になる」では魚料理「鯰 加賀太胡瓜 ディル」が、「条件付きの野生」では肉料理「放牧牛 九条葱 万願寺唐辛子」が、「荒れ地より」ではデザート2品、「麹 みき 梅 メロン」と「紅葉苺 グレープフルーツ サワークリーム 都市養蜂蜂蜜」がサーブされた。
料理を即物的な品名で書く方法は現代料理の常套手段である。調理方法ではなく、だれが生産したどのようなものを使用するのか。その生産について、遡ることができる土地の情報を開示する。脱作家主義といってもいい。
この点において、即物的な永田のお品書きはその作法に則っている。のだが、ここでレストランからずれる紙片の提供が始まる。おいしい、おいしいと猪肉のコロッケを食べる。たっぷりとした鶏のムースの上に金沢の白山で作家が収穫した山桑のジャムがのったものをパクっと食べる。ナスタチウムがピリっとしてチーズと鰹のくさみがつなぎになったタルトを食べる。永田による書き下ろしや引用で編まれた紙片が細切れに届く(最後にはおよそ39ページになった)。
料理を食べたり待っている間に紙片を読む。そこには料理のつくり方と食材について書かれていた。例えば「鶏肝 牛蒡 山桑」には真桑が養蚕の日本への渡来とともに1000年にかけて山桑と交雑した歴史と作者の採集行為について。「鰹 フルムダンベール」には動物性食材の旬の概念が人間にとっての美味さによって規定されているという状況について書かれている。白眉は「三倍体真牡蠣 ホエイ 林檎」だろう。牡蠣とホエイがタピオカとからまり、牡蠣にのったすり下ろされた林檎の冷凍ピクルスが酸味と甘味を付与する。真牡蠣といえば9月は産卵期を過ぎたばかりで旬ではないはずだが、プリっとして食べ応えがあり、牡蠣の濃厚な味わいとホエイとピクルスの酸味のバリエーションとともに何個でも欲しくなる一品だった。キャプションには次のように書かれている。「三倍体牡蠣は、受精卵に操作を加え、産卵できなくさせることによって、通年で見瘦せせず……旬の概念を失った(常に旬ともいえる)牡蠣です」。
うまい、うまいと唸りながら、この感性が生じるようにどうしてなったのか。そこにどのような技術や文化があるのだろうか。料理という一皿での構成、コースという連なり、生産、偶然、あるいは開発。前衛以降の現代美術が脱技術化を既存世界の破壊の主要な手法とするときに、就学や修行を経た技術ありきの「レストラン」は一瞬「現代美術」から遠いものに思えるかもしれない。しかし、料理における模索にもまた同時代的な事象が存在することは純然たる事実である。
永田の本作は、「エル・ブジ」以降の現代料理、例えば、その土地で食材を採集するところから始め、北欧料理をゼロからつくり上げた「NOMA」、脱即物性としての料理という意味では「CENTRAL」からの影響と応答が窺える。「美味いは正義」という脱イデオロギーの顔をしたものに潜む人間の欲望に輪郭を与え、「野生を食べる」といったときの「野生」、すなわち、あらゆる自然という概念を対立項にもつものを崩そうとする本作は、現代美術における「新しさ」のつくり方に、グロイスとは異なる解答を提出するものだろう。
本展はネットでの事前予約を経て1万2000円で鑑賞可能でした。
公式サイト(金沢ナイトミュージアム2022/主催:NPO法人金沢アートグミ):https://www.nightkanazawa.com/2022/09/feasting-wild.php
2022/09/18(日)(きりとりめでる)
コペンハーゲンの南北
[デンマーク、コペンハーゲン]
コペンハーゲンの北部は落ち着いた住宅街やリゾート的なベルビュー地区が印象に残ったが、港や運河沿い、そして南部では現代建築が目立つ。実業家のコレクションを公開している《オードロップゴー美術館》は、北部の緑豊かな住宅街の奥に位置し、電車とバスを乗り継いで訪れた。もとの古い私邸に対し、2005年にザハ・ハディドによる新館を増築しているが、彼女のデザインを考えると、かなり控え目である。この空間では企画展を開催しており、ちょうどデンマークの近代絵画を牽引したヴィルヘルム・ルンストロームの生涯を紹介していた。さらに2021年にはスノヘッタによる地下レベルの増築もなされたが、採光のための屋根の部分は地上において現代彫刻のように見える。
美術館の背後には、デザイナーの《フィン・ユール邸》(1942)も存在し、週末に内部も見学可能だ。センスのかたまりのような美しいインテリアの空間であり、ルンストロームとも交友関係をもち、かつて室内に彼の作品も展示されていたことが示されている。
一方、都心からメトロのM1で南下すると、途中から高架に変わり、線路の両側に奇抜かつ巨大な現代建築が並ぶ。例えば、デンマークの放送会社(2009)、《ノルデア銀行本社ビル》(2017)、V字形の立面をもつ《ACホテル・ベラ・スカイ》(2011)、ランボル本社(2010)、高さ85mの《コペンハーゲン ・タワーズ》(2009)などの企業ビル、BIGが設計した《VMマウンテン》 (2008)、《VMハウス》(2005)、《8ハウス》(2010)などの集合住宅、そして《ロイヤル・アリーナ》(2016)、学校や図書館などの公共建築である。BIGによる驚くべき造形の建築が単発で終わらず、仕事が続いているということは、住民に受け入れられ、分譲が成功しているのだろう。ともあれ、都心と違い、古建築が一切存在せず、歴史的な文脈に配慮しなくてもよいということで、アイコン建築的なデザインも少なくない。言い方を変えると、建築の実験場になっている。特に1990年代から開発が始まったオーステッドや、現在進行形で工事が続く《ベラ・センター》のエリアは、そうした傾向が強い。もうひとつのコペンハーゲンの新しい顔だろう。
VILHELM LUNDSTRØM. RETHINKING COLOUR AND SHAPE
会期:2022年9月16日(金)~2023年1月15日(日)
会場:Ordrupgaard(Vilvordevej 110, 2920 Charlottenlund, Copenhagen)
2022/09/18(日)(五十嵐太郎)
ポーラ美術館開館20周年記念展 ピカソ 青の時代を超えて
会期:2022/09/17~2023/01/15
ポーラ美術館[神奈川県]
ピカソほど多作な画家もいない。油絵と素描だけで1万3500点、そこに版画、挿絵、彫刻、陶器なども加えれば15万点にもなるらしいから、100点を集めた「ピカソ展」が1500も成立することになる。だからいまどき単なる「ピカソ展」をやっても見向きもされないだろう。なにがいいたいかというと、今回の「ピカソ展」はただピカソ作品を集めたのではなく、テーマ性を重視しているということだ。それがサブタイトルの「青の時代を超えて」だ。
同展はポーラ美術館とひろしま美術館の主催で開かれるもの。なぜこの2館かといえば、ポーラは青の時代の《海辺の母子像》(1902)をはじめ27点、ひろしまは同じく青の時代の《酒場の二人の女》(1902)はじめ9点のピカソを所有するからだ。周知のようにピカソは多作なだけでなく、時代ごとに表現スタイルをコロコロと変えたことでも知られているが、その始まりが青の時代。だから青の時代を起点として、そこから長い画業をたどってみようというのが展覧会の狙いだ。ただ時代ごとにスタイルを変えたといっても、何年から何年まではキュビスム様式で、何年から何年までが新古典様式みたいにスタイルが交代していったわけではなく、青の時代に新古典主義時代を特徴づける母子像や海の背景を先取りしたり(たとえば《海辺の母子像》)、逆に、新古典主義時代にキュビスム風の静物画が再臨したり(たとえば《新聞とグラスとタバコの箱》[1921])、スタイルやモチーフがしばしば時代を超えて飛び火しているのがわかる。
もっとおもしろいのは、青の時代には画家が貧乏だったこともあって、いちど描いたキャンバスの上から別の絵を上描きしていたこと、そして近年の科学調査によって、下に描かれた絵がどんな絵柄であったかが明らかになってきたことだ。その代表例が先述の2点で、《海辺の母子像》の下層からは酒場で飲む女性が現われ、《酒場の二人の女》の下層から母子像が見つかったのだ。つまりこの2点は互い違いにモチーフを隠し持っていたということになる。この発見こそ両館が「ピカソ展」を共同企画することになった理由だろう。ちなみに、出品作品81点のうち36点がこの2館のコレクション、23点がそれ以外の国内の美術館の所蔵作品なので、7割強が日本にあることになる。そんなにピカソを持っていたのか。でもピカソ全作品から見れば0.04パーセントにすぎないけどね。
公式サイト:https://www.polamuseum.or.jp/exhibition/20220917c01/
2022/09/17(土)(村田真)