artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

渡辺篤 個展「止まった部屋 動き出した家」

会期:2014/12/07~2014/12/28

NANJO HOUSE[東京都]

昨年の初夏に秋葉原のアートラボ・アキバで個展「ヨセナベ」を成功させたばかりの美術家・渡辺篤が、早くも新たな個展を開催した。今回のテーマは「ひきこもり」。自身のひきこもり経験をもとにした作品を中心に発表した。
会場の中央に設置されていたのはコンクリート製の傾いた小屋。粉砕された一面から中を覗くと、寝袋やパソコン、数々の日用品が散らばっている。会期前半に渡辺自身がここにひきこもり、密閉された小屋の中で数日間過ごしたという。外界と隔絶した空間に自閉したり、ひきこもりの当事者を展示したりするアーティストはほかにいたが、自らのひきこもり経験を再現的に表現したアーティストは珍しい。事実、会場にはひきこもり当時の自室を撮影した写真や、ひきこもりを中断して自室の扉をノコギリで切り開いて出てくる自分を写した映像も展示されていた。
特筆したいのは、渡辺がこの個展において全国のひきこもりの当事者たちに自室を撮影した写真を募集した点である。傾いた小屋の内部に設置されたモニターには、渡辺のもとに集まった写真が連続して映し出されていた。乱雑な部屋もあれば、整然とした部屋もある。当事者の身体が写り込んでいる場合もあれば、そうでない場合もある。いずれにせよ共通しているのは、自閉という内向性を強く感じさせる点である。
しかし、その内向性は、この展覧会において外向性という矛盾にさられることになる。言うまでもなく、彼らの写真は私たちによって見られるという点で「開かれている」からだ。閉じているにもかかわらず開かれているという両義性。それは、決してひきこもりからの解放と直結しているわけではないが、ひとつのささやかな関係性であることに違いはない。
この極めて繊細で壊れやすい関係性は、しかし、ひきこもりという特殊な境遇にいる者に特有のものではないのかもしれない。たとえ自室にひきこもっていなくても、振り返ってみれば、私たちの日常的な人間関係には「閉じる」という契機が確かに機能しているからだ。「開く」ことや「つながる」ことを強迫観念的に強いる現代社会において、渡辺の作品は「閉じる」ことの積極的な意義を改めて問い直しているのではないか。

2014/12/26(金)(福住廉)

森淳一「tetany」

会期:2014/12/03~2015/01/10

ミヅマアートギャラリー[東京都]

少女像が3体。1体は大きく両手を掲げた立像で、1体は両手両膝を床につき、はいつくばって顔を横に向けている姿。奥の部屋のもう1体は上半身のみの小像で、ノースリーブの服に色彩が施されている。いずれも木彫で、眼球は白い大理石?が嵌められてるが、黒目はないので不気味な印象を与える。これはいったいなんだろう? ほかに絵画が2点、いずれも正方形の画面にほぼモノクロームで50-60年代のアメ車が描かれていて、はぐらかされる。解説によれば「ある画家が描いた少女、60年代アメリカを舞台にしたテレビドラマの登場人物、哲学者の言葉、本の中に出てきた写真など」さまざまなイメージや情報を昇華したものだそうだ。しかしこの少女、どっかで見たことあるなあと思ったら、リンダ・ブレア演じる「エクソシスト」の少女ではないか。

2014/12/26(金)(村田真)

題府基之「Still Life」

会期:2014/11/30~2015/01/11

MISAKO & ROSEN[東京都]

題府基之は1985年、東京生まれ。現在は神奈川県を拠点に制作活動をしている。既に写真集『Lovesody』(Little Big man, 2012)、『Project Family』(Dashwood Books, 2013)を刊行し、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館でのグループ展に参加するなど、むしろ海外での注目度が高まりつつある写真家である。その彼の「Still Life」と題する新作展が、東京・大塚のギャラリーMISAKO & ROSENで開催された。
大きめにプリントされた11点の作品は、すべてテーブル上に散乱する食べ物類を、真上から見下ろすように撮影している。コンビニから買ってきたばかりという感じの弁当類、レトルト食品、極彩色のパッケージのお菓子類などは、ストロボ一発で白々と平面的に描写されており、いかにもそっけなく、身も蓋もない印象を与える。とはいえ、題府がその光景をネガティブに、文明批評的な突き放した距離感で撮影しているのかといえば、そうではないだろう。「片づけられない」状態のまま、ゴミの山と化していく部屋を、家族たちの姿とともに捉えた『Project Family』もそうだったのだが、題府の撮影の仕方は肯定的かつ受容的であり、写真化の手続きは過度な露悪趣味に走ることなく、とてもバランスがとれている。それは今回の「Still Life」でも同じで、画面構成をしっかり考えて、注意深く撮影している様子が伝わってくる。このまま順調に伸びていけば、同時代の空気感を世代感覚として体現した、いい写真家に成長していくのではないだろうか。

2014/12/24(水)(飯沢耕太郎)

八木良太展「サイエンス / フィクション」

会期:2014/12/21~2015/01/17

神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]

神奈川県民ホールギャラリーの展示シリーズは、泉太郎といい、独特の緩さが気持ちいい。1300平方メートルもある展示空間を若手作家が埋める意欲的な企画展だけに、去年のKAATや、前回の横浜トリエンナーレほかで見たものも総集合しつつ、レコードなど、音をめぐる作品を様々に展開している。個人的には、赤青のメガネをかけて、立体物を立体視する作品は笑った。

2014/12/23(火)(五十嵐太郎)

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ロイヤル・アカデミー展

会期:2014/06/01~2015/01/25

静岡市美術館[静岡県]

東京富士美術館でもやってたが、静岡に巡回するのを待って、大阪に行くついでに途中下車。なにしろ静岡駅から徒歩3分なので、八王子からバスに揺られて行くより便利かも。なわけで静岡市美術館に初訪問。ビルのなかの美術館だからギャラリーに毛が生えた程度だと思ってたら、あにはからんや天井高は4メートル以上あり、広さも展示室だけで1000平米を超す。県立美術館はもっと広々してるけど、ついでに寄るには遠いからな。でもなんでわざわざ途中下車してまで「ロイヤル・アカデミー展」を見に行ったかといえば、ちょうど30年前、初めてロンドンに行ったとき、初めて見た展覧会がロイヤル・アカデミーでやってた「17世紀オランダ風俗画展」で、そのとき初めてフェルメールのすごさとオランダ絵画の豊穣さを認識したからだ。以来ぼくのなかでロイヤル・アカデミーは、古めかしい建物ともどもクラシックな絵画の記憶と結びついているのだ。同展は、1768年のアカデミー創設から20世紀初頭までの150年間に活躍したレノルズ、ゲインズバラ、カンスタブル、ミレイ、サージェントらイギリス人画家の作品62点に、美術教育の資料を加えたもの。さすがアカデミーなだけにどの絵も古くさい。いまから見て古くさいだけでなく、おそらくそれぞれの時代においても古くさく感じられたのではないかと思えるほど古くさい。印象派の時代においていまだ古典主義だし、20世紀に入ってようやく印象派の影響が見られるくらいだから。ま、フランスだってアカデミーの画家は似たようなもんだったろうけど。カンスタブルは小さな習作はすばらしいのに、《水門を通る舟》みたいな油彩の大作になると安っぽい売り絵に見えてしまう。それはたぶん安っぽい風景画家がカンスタブルを手本にしたので、カンスタブルまで陳腐に見えてしまうのかも。チラシにも使われたミレイの《ベラスケスの想い出》は、ベラスケス特有のラフなタッチで衣服を描いてるのに、顔だけはていねいに描写している。そのため顔と衣服がチグハグで、観光地によくある顔の部分だけ丸く切り抜いた「顔出し看板」みたい。しかしもっとも印象深かったのは、チャールズ・ウェスト・コウプの《1875年度のロイヤル・アカデミー展出品審査会》。アカデミーの一室で重鎮たちが絵を審査している情景を描いたもので、突っ込みどころ満載なのだが、ひとつだけいうと、この審査風景っておよそ1世紀半も前のことなのに、いまの日展とほとんど変わらないんじゃないの?

2014/12/20(土)(村田真)

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