artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
北山義夫展「宇宙図」
会期:2014/10/18~2014/11/16
MEM[東京都]
高さ2メートルほどの縦長の紙をちっちゃな○と・で埋め尽くしている。ただ機械的に埋めていくのではなく、手描きで粗密や濃淡をつけながら打っていき、ときに渦を巻いたりするため、あるものは星座のように見えたり、また別のものは水や砂などの流動体のように見えたりもする。1枚でおそらく数十万粒はあろうかというこの小さい丸は、星であると同時に素粒子でもあり、一粒一粒を描いていく厖大な時間をも表わしているようだ。たしかに気の遠くなるような作業だが、でも考えてみれば1枚描くのに何年もかかってないはず。日々の生活からすれば厖大な時間でも、宇宙から見ればあっという間。なのに、たかだか2×1.5メートルほどの紙の上で日常から隔絶した天文学的時空を感じさせてしまう。
2014/11/05(水)(村田真)
山本渉「欲望の形 器の濃き影」
会期:2014/10/31~2014/12/07
NADiff a/p/a/r/t[東京都]
カール・ブロスフェルトの植物写真を思わせるモノクローム写真。しかし植物にしちゃあ不自然なかたちもあるし、しかもどれもどことなく男根を思わせ、タイトルともどもなにか淫靡なオーラを放ってるなあ。と思ったら、実はこれ、男性用自慰道具オナホールの内部に石膏を流し込んで型取りした突起物を撮影したものだった。オナホールは使ったことがないというか、そんなものが商品化されてることすら知らなかったけど、こんなにヴァリエーションに富んでいるとは驚きだ。実際にヴァギナに石膏を流し入れて型取りしてもこんなに多様じゃないだろう。待てよ、それで女性用自慰道具をつくったらぴったりハマるはず。ぴったりハマりすぎて気持ちよくならないか。話がそれましたなあ。
2014/11/05(水)(村田真)
フジタのいる街角──巴里の誘惑、1910-30年代
会期:2014/10/25~2014/12/07
目黒区美術館[東京都]
「海外で学んだ画家たちとその作品」を収集方針のひとつに掲げてきた目黒区美術館の、所蔵品でたどる「パリの日本人」の第1部。藤田嗣治を中心に、藤田以前の安井曾太郎、梅原龍三郎から山口薫、村井正誠あたりまで、戦前に渡仏した画家たち75人の作品・資料を展示している。肝腎の藤田は素描や水彩が大半で、パリで絶大な人気を博した「乳白色」が見られないのが残念だが、それでも西洋に追随したほかの画家たちと比べれば一頭地を抜いてるなあ。藤田がパリで学んだのは「西洋並み」の美術ではなく、西洋でもなければ日本でもないまったく新しい美学だったはず。ところが藤田以後になると、その藤田のエピゴーネンまで出てきて、いったいなにしにフランスまで行ったのかと考えてしまう。同時に展示されていた大きな旅行用トランクや、欧州経路の汽船のチケットや食事のメニューなどを見ると、よほど裕福な家柄でないと留学できなかったことがわかる。それだけの犠牲を払い、数年間滞在して、日本に持ち帰ったものが「フランス帰り」の肩書きだけだったとしたら哀しい。ついでにいうと、これらの画家のなかには藤田をはじめ伊原宇三郎、清水登之、中村研一ら第2次大戦中に戦争画で名を馳せた人たちが何人もいる。国際的視野を身につけたはずの彼らがなぜ戦争画に走ったのか、興味深いところだ。
2014/11/05(水)(村田真)
生誕200年 ミレー展 ─ 愛しきものたちへのまなざし ─
会期:2014/11/01~2014/12/14
宮城県美術館[宮城県]
名古屋ボストン美術館で開催されたミレー展が、彼とバルビゾン派の状況をあわせて紹介したのに対し、これは彼個人の作品の軌跡をたどる。古典、ロココ風、ベラスケス、オランダ絵画など、途中彼がさまざまな影響を受けながら、農民画の作風を確立したことがわかり、興味深い。あまり知られていない、ミレーが描いた肖像画も多く紹介していたのも収穫だった。
2014/11/05(水)(五十嵐太郎)
花咲くジイさん ~我が道を行く超経験者たち~
会期:2014/08/16~2014/11/16
鞆の津ミュージアム[広島県]
「老人」の表現に焦点を当てた展覧会。漫画家の蛭子能収や発明家のドクター中松、具体の堀尾貞治、そして伝説のハプナー、ダダカンこと糸井貫二など、ほぼ無名の新人も含めた12人の老人たちが参加した。
現在の日本社会がまぎれもなく少子高齢化社会である以上、社会はおろか経済も芸術も、あらゆる分野にとって少子高齢化という項目は、無視しがたい項目のひとつと言うより、もはや社会全体の前提条件と言うべきである。老人たちがマジョリティーであるような社会がいずれ到来したとき、現代アートは、制度的にも内容的にも、いかなる様態で対応するのか。従来の鑑賞作法は通用するのか、あるいはなんらかの改変を余儀なくされるのか。批評言語は? 美術館のありようは? 考えるべきテーマは枚挙にいとまがない。「老人」という主題は、アウトサイダーアートや限界芸術として周縁化されがちだが、じつは優れて今日的なアクチュアリティーを内蔵しているのだ(この点をやすやすと見落としてしまう学芸員や美術評論家の批評眼は、間違いなく衰えているので金輪際信用してはならない)。
しかし本展は、残念ながらそうした社会的な意義を強力に訴える展観には至っていなかったように思われる。なぜなら、奇妙で奇天烈な表現活動に勤しんでいる老人たちは、本展においてじつに整然と鎮座していたからだ。きわめて手堅い展示手法が、老人たちの面白さを引き出すことに失敗していると言ってもいい。
例えば老人ホームへの入居を機に90歳を超えてから猛然と絵を描き始めた軸原一男。本展では壁面にそれらのドローイングを規則的に並べて展示していたが、これでは彼の表現に費やされている並々ならぬ欲動を伝えることは難しい。その熱い欲動が平面上の規則性に溶け込み、雲散霧消してしまうからだ。同じことはドクター中松についても言えるし、比較的にカオス的に展示された糸井貫二にしてももっと迫力のある展示手法があったのではないかと思わずにはいられない。彼らの魅力が半減してしまう展示は、いかにも惜しい。
おそらく本展には決定的に欠落している点が2つある。ひとつは、本展で紹介された老人たちが、本来的に、美術館の展示に不向きであるという認識。漫画家や発明家、ハプナー、あるいはほとんどアマチュアという属性が美術作品を展示するための美術館と相性がよくないというわけではない。そうではなく、彼らの表現が、そもそも美術を志向していないばかりか、場合によっては他者に伝達することすら想定していないような類のものだからだ。アウトサイダーアートでも見られるように、自己完結した表現は、他者性を前提とした美術とは根本的に馴染まない。それが成立しているように見えるのは、美術館をはじめとする美術という「見る制度」が彼らの表現を「アウトサイダーアート」として囲い込んでいるからにほかならない。本展は、アウトサイダーアートと同じ轍を踏んでいるように思えてならないのである。
もともと美術館に適当ではない表現を、その特性を抑圧することなく、できるだけ活かしながら見せるには、ある種の工夫、すなわちキュレーションが必要である。しかしキュレーションとは、事物を整然と並べることで小宇宙を構成することを意味しているわけではない。どの作品をどこでどのように見せるのかという人為的な作業は、それらが特定の個人に由来する点で、中立公正ではありえないし、物理的な制約があるとはいえ、基本的には特定の個人の発想にかかっている。つまりキュレーションとは、明らかに表現なのだ。
もし表現としてのキュレーションを追究していれば、あれほど中庸な展示にはなりえなかったはずだし、手強い老人たちの表現と共振することで、まったく別の展観となっていたはずである。美術館外の活動を積極的に展開していることは高く評価するべきだが、それより前に美術館の内側でやるべき仕事が残されているのではないか。この美術館は企画展のアクチュアリティーの点で言えば全国随一であるだけに、もう一歩踏み込むことを期待せずにはいられない。
2014/11/03(月)(福住廉)