artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
國府理 追悼展
会期:2014/10/19~2014/11/16
みんなのうえん[大阪府]
今年4月、個展開催中の会場にて不慮の事故で亡くなった國府理の追悼展が開催されていた。会場は、大阪市住之江区にある「北加賀屋みんなのうえん」という空き地を利用した都市農園。そんな場所があることも、直径4mのパラボラアンテナを使った國府の《Parabolic Farm》が2013年の秋からずっとここに設置されていたという事実も私は今回初めて知った。会場についてまず釘付けになったのは、その《Parabolic Farm》の様相。以前、個展など他の会場でも見たこの作品は、ここでは野菜やクローバーなど様々な植物が成育する土壌、完全に畑と化していた。私が訪れたのは日も傾き周囲の建物の影に包まれつつある午後だったのだが、そこに逞しく生い茂る力強く伸びるさまざまな野菜のありようが印象的で記憶に残る。農園に隣接する建物では生前描かれたスケッチやドローイング、国府が関わった近年のプロジェクトや、ここに作品が設置されるまでの作業の様子を撮影した記録写真などが展示されていた。どれをとっても今展の主催者やその他の関係者の追悼の念が温かく伝わってくる展示。見ることができてよかったとしみじみ感じた展覧会だった。
2014/11/03(酒井千穂)
木津川アート2014 百年の邂逅
会期:2014/11/02~2014/11/15
木津川市の近鉄高の原駅、山田川駅、JR西木津駅周辺[京都府]
昨今は、いわゆる「地域アート」が隆盛しており、全国で無数の地域アート・イベントが開催されている。一方、文芸評論家の藤田直哉が『すばる』10月号で「前衛のゾンビたち─地域アートの諸問題」と題した論考を発表するなど、地域アートへの批判的見解も見受けられるようになってきた。筆者自身も現状は供給過剰だと思う。独善的な思い入れや安易な思惑だけで実施されているイベントは淘汰され、地域住民と確かな関係を結び、草の根レベルで共感を得ているイベントのみが生き残るだろう(行政の理解と長期的な支援も必要だが)。その点「木津川アート」は、年々地域住民の共感が増している良質な地域アートと言える。このイベントは毎年木津川市内の異なる地域で開催されているが、それゆえ各地域の市民が交流・融和する場として機能しているのが興味深い。今年の会場は私鉄沿線のニュータウンと、伝統的な集落という、隣接する対照的な地域であった。丘陵地帯を隔てて激変する環境を、美術作品がしっかり結んでいたと思う。決して大規模なイベントではないが、着実に育てて行けば、きっと木津川市の財産になるだろう。
2014/11/02(日)(小吹隆文)
色鉛筆の画家 吉村芳生 最期の個展
会期:2014/10/15~2014/11/03
アスピラート防府[山口県]
昨年12月に急逝した吉村芳生の遺作展。吉村が生まれ育った山口県防府市での大規模な回顧展でもある。代表作とも言える新聞紙の自画像シリーズをはじめ、フランス滞在中に描かれた《パリの自画像》、野花を色鉛筆で精確に描写したシリーズなど、新旧の作品から吉村の画業を振り返る、充実した展観だった。
とりわけ印象深かったのが、会場の終盤に展示されていた《コスモス(絶筆)》である。大きな画面に色鮮やかなコスモスが描かれているが、右端からちょうど五分の一ほどが白いまま描き残されているのだ。ここには画面の左側から描き始めていた吉村の制作手順が図らずも露わになっていたのと同時に、制作途中に絵筆を置かねばならなかった吉村の無念が立ち込めていたように思われた。たとえ自画像を描いていなくとも、そこに吉村の自我意識を見出してしまう。それほど吉村の作品には、作者の強力な自我意識が直接的に反映しているのである。
例えば晩年のパリ時代に描かれた自画像には、明らかに閉鎖的な自意識が伺える。いずれも表情に乏しく、眼球の力だけがやけに鋭い。パリの空気がよほど体質に合わなかったのだろうか、苦しまぎれに自らをキャラクター化したような自画像もある。心の内側で悶絶しながらも毎日絵筆を握り続けた吉村の姿が眼に浮かぶのだ。
吉村芳生の真骨頂が対象を「転写」すると言ってもいいほど精確に描写する技術、すなわち超絶技巧にある点は、言うまでもない。けれども、その根底には「私」を徹底して即物的に観察する冷酷な視線と、結果として浮き彫りにされる「私」をよくも悪くもすべて曝け出す胆力があることは、改めて指摘しておきたい。この2つの特質は、同じように「私」に拘泥する昨今の若いアーティストたちの作品に決定的に欠けているからだ。
裏返して言えば、そのような特質があってはじめて、「私」の野放図な表出は、他者の「私」と共振するのではなかったか。吉村芳生が遺したのは、若者たちにとってはきわめて過酷な道のりだが、吉村に続き、吉村の先を歩んでゆく者が現われる日を待ちたい。
2014/11/02(土)(福住廉)
赤瀬川原平の芸術原論展──1960年代から現在まで
会期:2014/10/28~2014/12/23
千葉市美術館[千葉県]
訃報の2日後に始まった大回顧展。初期の油絵から読売アンデパンダン、ネオ・ダダ、ハイレッド・センター、模型千円札までの前衛芸術を経て、超芸術トマソン、路上観察学会、ライカ同盟、老人力まで、約半世紀の活動から500点を超える作品・資料を集めている。これを見ると希代の芸術家にして趣味人、赤瀬川原平の全体とまではいかなくてもその輪郭がわかるし、そこに日本の前衛芸術の縮図を見ることができるような気もする。たとえば《宇宙の梱包》。梱包作品をつくってるうちに、このままだと包むものがどんどん大きくなり、しまいに宇宙まで包まなければならなくなると考え、カニ缶を買って中身を食べ、ラベルを内側に貼り替えて内外を逆転させたという代物。同じ梱包芸術でも半世紀以上にわたって愚直に巨大化させていったクリストとは対照的に、プロセスをすっ飛ばしていきなり結論を出してしまったわけだ。明解ではあるが、「芸術」との悪戦格闘を避け、いわばトンチで解決してしまったといえなくもない。こういう逆転の発想は、路上の無意味なものに意味を見出す「超芸術トマソン」や、心身の衰えをプラスに転化する「老人力」にも生かされている。いや待てよ、高松次郎の「影」や「単体」シリーズも、河原温の「日付絵画」シリーズも、関根伸夫の「位相─大地」も、日本の前衛芸術のすべてとはいわないまでも相当な数はトンチの発想じゃないか、とさえ思えてくるのだ。ところが美術界ではトンチが利いても、まったく通じない世界もあった。司法だ。「千円札裁判」は無粋なことに、前衛芸術におけるトンチの魔法を解いてしまったのだ。以後、赤瀬川は前衛芸術の一線から降りてしまう。でもそれ以降の活動のほうがよっぽどポピュラリティに富んでいたけどね。
2014/11/01(土)(村田真)
岡本光博「マックロポップ」
会期:2014/10/25~2014/11/22
eitoeiko[東京都]
青森県立美術館学芸員の工藤健志キュレーションによる、東京では21年ぶりの個展。なわけで東京では岡本光博というと、有名ブランドのバッグの生地を使ってバッタのかたちに縫製した「バッタもん」でLV社と小競り合いを繰り広げたり、京都にアートスペース「クンストアルツト」を開いて若手作家を支援したり、なんとなく「社会派」みたいなイメージがあるが(ぼくだけかもしれないが)、この個展を見る限りすがすがしいほど「ふざけた野郎」だ。青森県立美術館から巡回中の「美少女の美術史」展にも出ていた内藤ルネ風のイチゴを散らせた女子パンティを思わせる逆三角形の絵をはじめ、女の子の縮れ毛が入ってる《まんげ鏡》、「バックします」の警告音を聞きながら鑑賞する後背位の絵、自称「マグナム」のイチモツを上から目線で撮ってプリントしたネクタイ、針が6時を指すと同心円に毛の生えたマ○コ印になる時計など、基本的にドエロの下ネタばかりで安心した。もちろん社会風刺的な作品もあるけれど、正義より悪戯を、「白い偽善より黒い偽悪」(工藤健志)を重んじる。「マックロポップ」たるゆえんである。
2014/11/01(土)(村田真)