artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
磯崎新12×5=60
会期:2014/08/31~2015/01/12
ワタリウム美術館[東京都]
磯崎は長いキャリアにおいてさまざまな顔をもつが、これは建築外の活動に焦点をあてたユニークな企画である。美術、音楽、映像、写真などの諸ジャンルとのコラボレーションの数々が、充実した資料で紹介される。今の日本で跋扈している反知性主義とは、真逆の世界だろう。以前、実際に見学させてもらった軽井沢の書斎も、吹抜けの空間において実寸で再現され、内部に入ることもできる。
2014/09/05(金)(五十嵐太郎)
濱田祐史『photograph』
発行所:lemon books
発行日:2014年8月
「hILLSIDE TERRACE pHOTO FAIR(1)」で購入した写真集の一つが、この『photograph』。昨年(2013年)、Photo Gallery International(P.G.I.)で開催した個展「Pulsar+Primal Mountain」で同じ作品を見たのだが、その時とはだいぶ印象が違った。日常的な場面に射し込み、空間を満たしている「光」の親密な雰囲気が、マット系の用紙に印刷した写真集にぴったりしていて、目に気持ちよく飛び込んでくるのだ。表紙のデザインを複数にして、好きなものを選べるというアイディアもなかなかよかった。
濱田は「印画紙の上で光を描きたい」と考えて、「煙を噴出する棒を制作し、長時間露光した上で」撮影したのだという。たしかにその効果は抜群で、光が煙の粒子によって拡散し、柔らかな帯状になったり、塊のようになったりして、物質性を帯びて目に入ってくる。ただ、その視覚的効果がやや単調なのと、撮影場所の設定がやや場当たり的に見えるのが少し気になる。『photograph』というタイトルも含めて、写真にとっての本質的、根源的な要素である「光」に迫ろうという意思の強さを感じるいい仕事なので、さらにヴァリエーションを増やして、連作として完成させていくといいのではないだろうか。
なお、写真集は700部限定だが、他に六つ切りのオリジナル・プリント一点がついた「スペシャルエディション」が、30部刊行されている。
2014/09/05(金)(飯沢耕太郎)
「hILLSIDE TERRACE pHOTO FAIR(1)」
会期:2014/09/04~2014/09/07
代官山ヒルサイドフォーラム[東京都]
Taka Ishii Gallery、EMON PHOTO GALLERY、PHOTO GALLERY INTERNATIONAL、MEM、ShugoArts、G/P gallery、ZEN PHOTO GALLERY、Picture Photo Spaceなどの、写真を扱う商業ギャラリーにIMA、SUPER LABO、小宮山書店などの出版関係の組織が加わって、「日本芸術写真協会」(FAPA)という団体が2013年12月に設立された。今回、株式会社アマナを「メインスポンサー」として代官山ヒルサイドフォーラムで開催された、写真作品に特化したアートフェア「hILLSIDE TERRACE pHOTO FAIR(1)」は、いわばそのお披露目のイベントということになる。
前述したギャラリーに加えて、YUKA TSURUNO GALLERY、Yumiko Chiba Associates、Gallery Naruyama、POETIC SCAPEなどを加えたギャラリー展示は、さすがに華やいだ雰囲気を醸し出していた。会場の手狭さが逆に密集感につながって、いい方向に働いたのではないだろうか。AKAAKA、MATCH and Company、Shelf、POSTなどが出品した写真集コーナーも活気があって、普段手に入れにくい本が並んでいるのが嬉しかった。ただ、第一回目ということで、まだ顔見世興行的な色合いが強いように思う。ここ数年続けて開催されてきたTOKYO PHOTO (今年は10月3~6日に東京ビルTOKIAで開催)の行方が不透明なだけに、秋を彩る写真作品のアートフェアとして発展していってほしいという期待はふくらむ。2回、3回と回を重ねていく中で、主催者側と観客との、まだどこかよそよそしい関係も、少しずつほぐれて、いい感じになっていくのではないだろうか。
2014/09/05(金)(飯沢耕太郎)
ヨコハマトリエンナーレ2014「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」
会期:2014/08/01~2014/11/03
横浜美術館、新港ピア(新港ふ頭展示施設)[神奈川県]
昨今の地域型国際展や芸術祭に出品される作品の多くが、その土地の「記憶」を主題としがちなのに対し、本展のアーティスティック・デイレクターである森村泰昌は「忘却」をテーマとして掲げた。その超然とした態度には、そうした国際展や芸術祭がアートツーリズムに全面的に依拠していることへの批評性も、おそらく多分に含まれているのだろう。会場に漂っている静謐な雰囲気は、賑やかしを演出するアートを断固として拒否する明快な意志の表われのように見えたからだ。森村の野心的で潔い心意気は、ひとまず高く評価したい。
焚書について描いたレイ・ブラッドベリのSF小説『華氏四五一度』からテーマを引用しているように、本展は一冊の書物として構成されている。2つの序章と11の章によって、さまざまな入り口から読者=鑑賞者を忘却の海へと誘う仕掛けだ。語らないもの、語ってはならないもの、語りえぬもの。見たくないもの、見てはならないもの、見えにくいもの。とるにたらないもの、役に立たぬもの。そのような記憶されることのない忘却世界が、次から次へと眼前に現われるのだ。
もとより、大げさなスペクタクルとは端から無縁ではある。だが、本展の全体的な印象は、あまりにも禁欲的すぎるがゆえに、読者=来場者を自ら遠ざけてしまっているというものだった。ミニマリズムの傾向が強い作品が数多く出品されていることや、そのわりにはキャプションの解説文が不十分であり、森村自身による音声ガイドを聴いて初めて納得するという、複雑さがその例証である。私たちは、21世紀になってもなお、(あのクソツマラナイ)ミニマリズムを見なければならないのだろうか。不親切な解説文を読んで、現代アートは難解だというクリシェを、不愉快な苛立ちとともに、また上書きしなければならないのだろうか。
忘却の海への冒険は、「冒険」であるからには、もっと高揚感を感じてよいはずだし、驚きや不安、新たな発見に満ち溢れ、身体的な感覚を刺激するようなものであっていい。それらは、忘却というテーマとは無関係に、アートそのものなかに内在している、アートならではの特質だったはずだ。
とはいえ、個別的に見れば、そのような要素を含んだ作品がないわけではない。
たとえば福岡道雄の作品。巨大な平面に「何もすることがない」とか「何もしたくない」という文字が無数に描かれた作品だが、これは正確に言えば「描いた」のではなく「彫った」もの。そのことを知った瞬間、目前に広がる虚無的な文字の羅列が、一気に反転し、「何かをしたい」という表現への欲動が文字の向こうから強烈に押し寄せてくるのである。この鮮やかな経験こそ、アートの醍醐味にほかならない。
そして和田昌宏の作品は、まさしく「見てはならない」「見えにくい」ものを直視させる点で、忘れがたい印象を残す。ガンジーの置物にフィットする杖を自分の子どもとともに探し出す映像作品を見ると、子どもの眼がガンジーの置物をひとりの人格としてみなしていることがよくわかる。だが、私たち自身もまた、幼少時にはそのような視線を持って世界を見ていたはずなのだ。その視線をどこかで捨て去り、世界を客観的な現実として冷静な眼差しでとらえるようになってしまったことの退屈さを思い知るのである。もうひとつの映像作品は、妻の父親、すなわち義理の父に、その世界の真実について尋ねるもの。だが、自分が「あらゆるものが手に入る存在」であり、「まもなく世界を支配している組織の幹部になる」と力強く断言する義理の父の言葉を目の当たりにすると、「見てはならないもの」を見てしまったようなバツの悪さを覚える。とはいえ、これにしても、そもそも現代アートの真骨頂は、そのようにして図らずも出会ってしまったわけのわからぬ作品に伸るか反るかという問題にあるのであり、この和田の怪しげな作品を楽しむか退けるかも、とどのつまり鑑賞者の度量と判断によるのだ。伸る人は、ぜひ会場に用意された聖水を口にしてみるといい。
忘却の海を航海することと禁欲的な作品をマゾヒスティックに鑑賞することは、イコールではない。言い換えれば、忘却世界への入り口はもっと無数に、もっと豊かにあるはずだが、本展の入り口は数が多いわりには、あまりにも偏っていたように思う。たとえ表面的には賑やかしのアートに見えたとしても、その内側に忘却世界への入り口が隠されている例がないわけではなかろう。そこを切り開くのが、キュレーションの妙ではなかったか。さらに付け加えれば、「福岡アジア美術トリエンナーレ」や「札幌国際芸術祭」など、本展とは直接的に関係のない国際展や芸術祭についてのブースがあるなど、展示構成にも疑問が残る。
アートはもっと幅広いものだし、世界にはおもしろいアーティストがもっとたくさんいる。記憶せよ、本展が忘却の海に沈めたこの事実を。
2014/09/05(金)(福住廉)
迫川尚子「置いてけぼりの時刻」
会期:2014/09/30~2014/10/09
コニカミノルタプラザ ギャラリーA[東京都]
迫川尚子は、新宿駅地下で営業していて、毎日お客が1500人も入るという人気カフェ、ベルクの副店長をつとめている。そのかたわら、東京・四谷の現代写真研究所で写真を学び、『日計り』(新宿書房、2004年)、『新宿ダンボール村』(DU BOOKS、2013年)の2冊の写真集を刊行した。
主に店に通う行き帰りの路上で撮影されている彼女の写真は、特定の被写体を狙ったものではない。だが知らず知らずのうちに、同じような被写体が多くなっていた。自分が何を撮っているのだろうかと自問自答し、その結果「私の撮る時刻はもっとひそやかな、どこかに忘れてきた時刻です」という答えに至る。それが今回の写真展の「置いてけぼりの時刻」という、とても印象的なタイトルの所以ということになる。
たしかに、今回の写真展には、取り残されてどこか寂し気な子供の姿、ドラム缶やビールケースや自転車などがぽつんとたたずむ片隅の光景が多いような気がする。だが、とりたたてて喪失感のみが強調されているわけではない。原発反対と右翼のデモの写真が両方とも展示されているのを見てもわかるように、何が起こるかわからない路上の出来事を、いきいきとした好奇心を働かせて撮影しているのだ。写真がモノクロームからカラーに変わったことも、いい方向に働いているのではないだろうか。このシリーズもぜひ写真集にしてほしいが、その時には迫川自身の肉声を記したテキストも一緒につけてもらいたい。迫川の写真を見ていると、言葉が欲しくなってくるのだ。
2014/09/02(火)(飯沢耕太郎)