artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
札幌国際芸術祭2014
会期:2014/07/19~2014/09/28
モエレ沼公園+北海道庁赤れんが庁舎+札幌市資料館+大通地下ギャラリー500m美術館[北海道]
2日目の朝、札幌市役所前に集合し、バスでモエレ沼公園へ。ゴミ処理場だった広大な敷地を造成したモエレ沼公園は、まさに「都市と自然」やエコロジー問題を掲げる芸術祭の舞台としてぴったりの場所……のはずだが、ここも芸術の森と同じく会場として使ってるのはガラスのピラミッドと呼ばれる建物内だけ。これはもったいない。そのガラスのピラミッド内で展示しているのは、坂本龍一が昨年YCAM(山口情報芸術センター)で発表した《フォレスト・シンフォニー》。これは世界各地の樹木から採取した生体電位のデータを音楽に返還し、シンフォニーとして体験してもらおうという壮大なプロジェクトだ。そのエコでグローバルな発想には共感するけれども、見て(聞いて)おもしろいもんではない。なんというか、お勉強しにきた気分。もちろん満足できなかった人は屋外の公園で遊んで帰ればいいんだけど。
バスで都心に戻り、北海道庁赤れんが庁舎と札幌市資料館という二つの歴史的建造物内で行なわれた展覧会を見る。赤れんが庁舎で開かれていたのは「伊福部昭・掛川源一郎展」。伊福部昭は「ゴジラ」の映画音楽で知られる作曲家、掛川はアイヌの風俗を含む北海道の近代化を記録した写真家で、どちらも北海道出身の先駆者の発掘という意味では貴重だろうが、はたして国際芸術祭に必要な展示だろうか。むしろ展覧会を口実に庁舎内に人を呼び込み、北海道の歴史に少しでも触れてもらうことに意味があるのかもしれない。資料館のほうはインフォメーションセンターやカフェなどを設けるほか、参加型プロジェクト「アート×ライフ」として、だれでも得意なことを銀行に預けることができるという《とくいの銀行 札幌》を実施。また裏庭では、子どもの遊び場《コロガル公園》の屋外バージョンを組み立てているが、《とくいの銀行》も《コロガル公園》もYCAMで実施したもの。なぜ遠く離れた山口県のYCAMが札幌とつながってるのか、坂本龍一と縁が深いのはわかるが、ちょっと気になる。
最後に向かったのが、地下通路に開設されたその名も500m美術館。長さ500メートルの壁面に地元ゆかりの16人のアーティストが作品を展示している。ほかの会場の作品に比べれば、スケールの大きさや力量の差は否めないが、それだけに親しみやすい作品が多かったのも事実。たとえばトタンや空き缶、金属の廃棄物などを叩いてつぶし、黒く塗って長さ40メートルの壁に貼りつけた楢原武正や、道路のくぼみを鋳型にして彫刻をつくる谷口顕一郎、空知地区の炭鉱跡に残されたヘルメットや看板、炭鉱のパノラマ図などを素材にインスタレーションした上遠野敏など、発想も素材も身近だ。なかでも感心したのは伊藤隆介の映像インスタレーション。スクリーンに廃墟めぐりの映像が映し出され、その隣にガラクタのなかを進んでいくカメラが見える。よく見ると廃墟の映像はそのガラクタを接写したものだったことがわかる、という作品。隣には月が雲に隠れる様子を再現した同様のインスタレーションを併置し、都市と自然を対比させている。これはよくできてるなあ、こういう遊び心のある作品に出会うとホッとする。2日間見て回っていえるのは、「国際展」ではなく「芸術祭」と銘打っているのだから、もっと楽しく、もっと祝祭的であるべし。
2014/07/19(土)(村田真)
札幌国際芸術祭2014
会期:2014/07/19~2014/09/28
地下歩行空間(チ・カ・ホ)+芸術の森美術館+北海道立近代美術館[北海道]
早朝の便で札幌へ。まずは札幌駅から続く地下歩行空間の一画に設けられた受付でプレス登録。芸術祭は「都市と自然」をテーマに掲げ、市街地だけでなく郊外にも作品を点在させているため、ツアーに乗って見ることにする。最初はこの地下通路に展示された作品から。ここはかつて川が流れていた場所らしく、その記憶をたどりつつ地下の水脈に耳を傾けるという「センシング・ストリームズ」をテーマにしている。それこそセンシティブなテーマのうえ、映像やメディア系の作品が多いため、一見なにをやっているのか伝わりにくい。たとえば、自動的にグラフィティを描く装置で知られる菅野創/yang02は今回、通行人に反応してペンが動く仕掛けを開発したが、おもしろさが直接伝わりにくくなった。もっとビジュアル・インパクトが強くなくちゃ通行人は足を止めないよ。人通りの多い(ということは制約も多い)公共空間を使うのはチャレンジングな試みだけど、とても難しいことだ。地上に出ると、レンガ張りの歩道の中央に巨大な岩塊がドンと置いてある。島袋道浩の《一石を投じる》。アイヌの集落がある二風谷から運んできた直径2メートルを超す奇岩で、碁盤目状に整備された札幌のど真ん中に得体の知れない「自然」を置くことで、文字どおり「都市」に一石を投じている。これは痛快。地下空間でのストレスを発散させてくれた。
バスで郊外の札幌芸術の森美術館へ。ここと北海道立近代美術館の2館は作品が集中するメイン会場になっている。芸術の森に出してるのは砂澤ビッキ、宮永愛子、トマス・サラセーノ、カールステン・ニコライら約10人だけど、旧作や「都市と自然」のテーマに引きずられた作品が目立ち、ハジケたものがないなあ。第一せっかく自然に囲まれた場所なのに、なんで屋外に出ないのか。そんなこともあって、美術館から10分ほど歩いた森のなかで聞いたスーザン・フィリップスのサウンド・インスタレーション《カッコウの巣》は、とてもさわやかで印象的だった。こんもりとした森の樹上に数台のスピーカーを環状に仕掛け、中世から伝わるカッコウ(札幌市の鳥でもある)の歌を本人が唄い、輪唱にして聞かせるというもの。札幌国際芸術祭にもっともふさわしい作品といえるかもしれない。ただしこれも札幌オリジナルではなく、2011年の旧作だけどね。
都心に戻って北海道立近代美術館へ。芸術の森が「自然」に恵まれた環境とすれば、近代美術館は「都市」のど真ん中と対比を際立たせている。こちらは岡部昌生、高谷史郎、アンゼルム・キーファー、スポード・グプタらの出品。壷や皿など金属の器を集積してキノコ雲のかたちにしたグプタの巨大彫刻は、旧作ながら圧倒されるが、同じ旧作でも福岡市美術館から借りてきたキーファーの《メランコリア》は、ここにある理由がわからない。なんでいまさらキーファーなんだ? 完全に浮いている。全体に「都市と自然」のテーマ、そこから派生する北海道の炭鉱や近代化の問題、あるいはアイヌやエコロジーに対する問題意識は高いが、それを直裁に作品化したものが多く、島袋やグプタのように一歩引いて諧謔的だったり笑いを誘ったりするような作品が少ない。だからどこか優等生的で、「楽しむ」より「学ぶ」芸術祭になっている。このキマジメさはゲストディレクター坂本龍一の趣味を反映しているのだろうか。
2014/07/18(金)(村田真)
こども展 名画にみるこどもと画家の絆
会期:2014/07/19~2014/10/13
大阪市立美術館[大阪府]
パリのオランジュリー美術館で2009年から10年にかけて開催され、約20万人を動員した企画展をもとに、日本向けに作品を選定し直し再構成した展覧会。19世紀初頭から20世紀の画家47名による、自分や知人の子どもたちを描いた作品86点で構成されている。その多くは個人コレクションで、約2/3の作品が日本初公開だ。作品を見て気付いたのは、時代を経るごとに子どもの描き方が自由になっていくこと。昔の作品ほどモデルは大人のようなポーズでたたずんでいる。これは子どもへの眼差しの変化を表わしているのだろう。また、ひとりの子どもを複数の画家が描く、幼少時と成長後の作品が並置されるなど、子どもを巡る人間関係が垣間見えるのも興味深かった。そして何よりも痛感したのは、親が子に注ぐ愛情は、時代や洋の東西を問わず普遍的だということ。会場全体が親子愛に包まれているようで、心地よい幸福感に浸れる展覧会であった。
2014/07/18(金)(小吹隆文)
野村佐紀子「TAMANO」
会期:2014/07/05~2014/07/24
B-GALLERY[東京都]
野村佐紀子のB-GALLERYでの連続個展の様相が今回大きく変わった。いつもの闇+ヌードではなく、明るい光があふれる空間で撮影された自然体のポートレートが並ぶ。しかも撮影されているのは、48名のお年を召した方たちだ。いつもの野村の写真を期待して見に行くと肩すかしを食うだろう。
今回展示された写真群は「瀬戸内国際芸術祭2013」の「宇野港街中写真プロジェクト」の一環として、「老人ホームなどの入居者をはじめとした岡山県玉野市に暮らす人々」をモデルとして撮影された。一見して感じるのは、写されている人たちが、皆とても「おしゃれ」だということだ。それもそのはずで、このプロジェクトには荒木経惟の撮影でずっとスタイリストをつとめてきた岩田ちえ子と、アパレルメーカーのパタンナーから老人施設のヘルパーに転じた久村み幸が協力している。つまり野村がシャッターを切る前に、二人がモデルたちに薄化粧し、衣服をコーディネートしているのだ。実は三人は川崎市の老人施設でもずっと同じような試みを続けていて、今回の撮影はその延長線上ということになる。
先に川崎市市民ミュージアムでの倉谷拓朴の展示を紹介したが、この「TAMANO」も一種の「遺影写真プロジェクト」といえるかもしれない。老人たちの中に埋もれかけていたエロスの力を、野村、岩田、久村が引き出し、それを丁寧なセッティングで写しとっている。結果的に、彼らが生きてきた時間の厚みが思いがけない形で花開いた、心を打つ写真群に仕上がっている。川崎でのプロジェクトも、どんな形になっていくのかが楽しみだ。
2014/07/17(木)(飯沢耕太郎)
石井陽平 個展「最高に生きる」+ひろせなおき個展「GYARU儀葬儀式展」
石井陽平 個展:2014/7/11~17、ナオナカムラ(素人の乱12号店)/ひろせなおき個展:2014/7/11~20、ナオナカムラ(音二番)[東京都]
ナオナカムラは、主に高円寺の「素人の乱12号店」を一時的に借り上げながら、なおかつ都内のギャラリーを転々としながら、各地で展覧会を断続的に開催している、新しいタイプのギャラリーである。テンポラリーに徹することで場所を維持するための経費を最低限に抑えるという点で、ギャラリストを志望する学生はひとつのモデルとして積極的に見習うべきだろう。だが、ナオナカムラの本質的な魅力は、有望で力のある若いアーティストを次から次へと輩出している点である。なかでも傑出しているのが、石井陽平とひろせなおき。この4月に行なわれた佐藤翔との三人展「ゲームボーイ」(HIGURE 17-15 cas)から間髪を入れず、はやくも新作展が催された。
石井陽平が発表したのは、みずからの祖母をモチーフとした映像インスタレーション。高齢のため認知症が進行し、身体の自由もままならない祖母を生まれ故郷に連れ帰る旅の行程を映像に収めた。そこから感じられるのは、おそらく人生最後の里帰りとなるであろう濃密な時間。「はじまり」に立ち返りながらも、「おわり」へと向かっていく。いや、「おわり」を迎えるために「はじまり」に立ち戻る。石井が映像化したのは、きわめて個人的な事例ではあるが、そこには人生の先で誰もが行き当たる普遍的な問題が映し出されていたのである。
興味深いのは、その普遍的な問題の導き出し方である。会場の中央に設置したベッドの上にモニターを置き、そこで石井が手を添えながら祖母に習字を書かせる映像を見せる作品がある。一見すると書が得意だった祖母の身体の不自由さを、石井が介助することで補っているように見える。つまり大半は石井が書いているように見える。だが、完成した書の「最高に生きる」というたどたどしい文字を見ると、じつはそのようなメッセージを石井に着想させたのは、ほかならぬこの祖母だったのではないかと思えてならない。石井が祖母に「最高に生きる」姿を見たのではなく、祖母が石井に「最高に生きる」よう仕向けたのではなかったか。普遍的な問題は、おうおうにして主体と客体が反転するような関係から獲得されるのだ。
一方、ひろせなおきは渋谷のギャルたちの葬式を彼女たちとともに同地で敢行した一連のプロジェクトを映像インスタレーションによって発表した。ふだんから渋谷のネットカフェで暮らすひろせにとって、90年代以後かたちを変えながら生きながらえてきた、そしていまも生きている渋谷のギャルは、決して無視することはできない主題であり、近しい同類だった。ひろせは彼女たちとの持続的な関係性を築くことから始め、粘り強く交渉を重ねながら生前葬とも言うべきパフォーマンスの内容を共同で決定していく。当日は、彼女たちとともに制作した棺桶をみんなで担ぎながら渋谷の街中をハチ公前まで練り歩いた。ひろせ本人が話す映像には映っていない体験談や裏話があまりにも面白いので、映像だけ見るとプロジェクトの本質が伝わりにくいという難点が否めないが、それにしても渋谷のギャルをここまで正当に作品化した例はほかにない。画期的な作品である。
ひろせの真骨頂は、明らかにリアルタイムの主題であるにもかかわらず、現代アートの主題としてはまったく取り上げられていない問題をいちはやく作品化する、その手並みの鮮やかさである。「フィールドワーク」や「リサーチ」という言葉では到底収まらないほど深く、長く対象に没入する並々ならぬ持久力もすばらしい。昨年後半のデビューから1年も経たないうちに、これほどの高い水準に到達した、自分で自分を教育する力もずば抜けている。
美術大学の学生はひろせや石井のようなアーティストを模範とすべきであり、美術大学の教員はひろせや石井のようなアーティストをひとりとして育てられないカリキュラムと指導法を根本から猛省しなければならない。そして、美術館の学芸員も、現代アートのキュレーターを自称するのであれば、コマーシャルギャラリーばかりに顔を売るのではなく、ナオナカムラのようにほんとうに新しいアートが生まれる現場を自分の眼で目撃しなければならない。
2014/07/16(水)(福住廉)