artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
ミヒャエル・ボレマンス「ミヒャエル・ボレマンス──アドバンテージ」展
会期:2014/01/11~2014/03/30
原美術館[東京都]
ベルギーのゲントで活動する美術作家ミヒャエル・ボレマンスの作品は、没入性/演技性、実物/イメージ、意味内容(イメージ)/意味を伝える物質(絵の具)といった対立する二項が見ている者の内でゆったりと行き来する、その遊動の戦略が巧みで面白い。例えば《Holy Child》(2007)、画面一杯に陶器製の女性像が描かれている。右目が淡く白色で塗りつぶされているのが、見ている者の気にさわる。「骨董品故に時間とともに消えてしまったのか、それとも持ち主の作為か」「そもそもではなぜ片目のない像を画家は描いた?」そんな思いに駆られていると、「あ、そうか、これはただのイメージ、いやそもそもただの絵の具の集まり、目の不在はただ白色を刷毛でひと塗りしただけ」「じゃあ、なんで画家はそんなことした?」なんて、気づけば、あれこれと見る者の思いは果てのない旅に誘われている。ボレマンス作品の面白さは、こうした、観者があれこれと心をめぐらせてしまうその仕掛けにあるのだ。タイトルの「アドバンテージ」とは、観者を支配する作家の力に対して与えられた言葉のように思われてくる。この遊動性をこれでもかと展開したひとりにルネ・マグリットがいるが、彼もまたベルギー出身だ。あるいは《Mombakkes II》(2007)はどうだろう。ショートカットの女性がうつむき笑う。しかし、顔は半透明の仮面を付けているようで、表情は曖昧になり、滑稽な雰囲気さえも漂う。「なぜ女性は仮面を被るのか?」「なぜ画家は仮面の女性を描くのか?」なんて問いとともに「とはいえ、これはただの絵の具が施した誇張にすぎない」といった醒めた結論に行き着くたくもなる。笑いがゴールの作品とも思わないのだが、まるでピン芸人のパフォーマンスのようで、見る者がボケに突っ込み入れたりするように、絵画の仕掛けに易々と戸惑わされてしまう。つい手で顔を払いたくなってしまったのだが、うつむいた少女の顔に鳥の羽が4本貼り付いている作品《Girl with Feathers》(2010)は、一体どうやったら、そうした観点抜きに説明できるのだろう。ボレマンスは、絵画というメディア特有のパフォーマンス的次元を生き生きと引きだしている。
2014/01/19(日)(木村覚)
風間サチコ プチブル
会期:2014/01/09~2014/01/19
無人島プロダクション[東京都]
2002年にナンシー関が亡くなったとき、埋めがたいほどの喪失感を覚えた人は少なくなかった。彼女の批評的視線は視聴者のそれを鍛えあげる格好のモデルだったし、テレビのクリエイターにとっても鋭利な批評家の不在は良質の番組を制作するうえで大きな損失だったからだ。事実、テレビが退屈になり始めたのは、ナンシー関がテレビを見なくなった頃からだったと言ってよい。
本展は、版画家・風間サチコの初期作を一覧したもの。社会的政治的な主題をユーモアとアイロニーを込めながら巧みに構成する作風で知られているが、今回の展観でそれが初期から一貫していることがわかった。むろん、初期の作品はおおむね主題を二重三重に重層化していたので、現在の作品に見られる明快性は見受けられないという違いはある。けれども、風間が作品を制作するうえでの構えに、同時代的な批評性をつねに帯同していたことは一目瞭然であった。
なかでも注目したのは、新作の消しゴム版画である。「プチブル」「家畜」「レイシスト」「愚民」「下民」といった近年の社会を物語る言葉を消しゴムに彫り、それらで刷った風間の名刺が版とともに展示された。つまり以上のような言葉を自らの肩書きとして見せていたわけだ。風間の批評性には、言ってみれば自分の身体を貫通させながら、その切っ先で相手を一撃するような凄みがあるのだ。
ナンシー関は亡くなった。でも大丈夫。風間サチコがいるんだから。信じるに足る視線を持ったアーティストが同時代に生きていることの意味は、とてつもなく大きい。
2014/01/19(日)(福住廉)
沼田学「界面をなぞる2」
会期:2014/01/10~2014/01/22
新宿眼科画廊スペースM[東京都]
沼田学は、2012年12月に同じ新宿眼科画廊で「界面をなぞる」と題する、白目を剥いた男女のポートレート作品による写真展を開催した。今回の展示はその続編というべきものだが、前回が20点ほどだったのとくらべて107点に数が増えている。このテーマが彼のなかでさらに醗酵し、深められてきているということだろう。
白目を剥くという状態は、普通は日常から非日常への移行の過程で起る現象である。ということは、沼田の言う「界面」とはその境界線と言える。彼はまさに、こちら側とあちら側の間に宙吊りになった状態を、モデルたちに演じさせているのだ。だがそれだけでなく、このシリーズではモデルたちを取り巻く環境──とりわけ彼らの部屋のあり方が大きな要素となっているように感じる。部屋をその住人の存在を表象する空間として捉えるアプローチは、都築響一の『TOKYO STYLE』(1993)、瀬戸正人の『部屋』(1996)など、多くの写真家たちによって試みられてきた。それらはいま見直すと、それぞれの時代の状況を鏡のように映し出しているように見える。沼田のこのシリーズもまた、2010年代の東京を中心とした都市の住人たちの居住空間のあり方を、的確にさし示しているのではないだろうか。
それはひと言で言えば、過剰なほどの情報空間ということだ。モデルにアーティスト、ミュージシャン、アクターなどの表現者が多いことも影響しているのかもしれないが、われわれの日常空間にさまざまな記号が溢れ、ひしめき合っている様が、写真に生々しく写り込んでいる。
2014/01/18(土)(飯沢耕太郎)
日下部一司 展
会期:2014/01/06~2014/01/18
Oギャラリーeyes[大阪府]
カメラの円形ファインダーを覗くイメージで丸く切り取られた写真や飛行機が印刷された切手を「引き縮め」したというとても小さな写真、ストライプの生地を五角形のパネルに張りつけ平行線の歪みを示した作品、樹脂塗料が琥珀色に盛り上がり平面が歪む鏡、いびつな器に箸を添えたオブジェなど、じっと見ているといろいろな連想に誘われていく展示作品が並んでいた日下部一司展。普段「こういうもの」と措定してしまうものの存在感や意味、それらのイメージという認識に働きかける、さりげないウィットと発想が愉快で楽しくつい長居した。寒くて縮こまる身体と鈍った頭にも刺激が与えられ、活力が戻った気分にもなったのが嬉しく、アートって素敵だとあらためて思った展覧会。
2014/01/18(土)(酒井千穂)
ひろせなおき個展 東京ネットカフェ犯行記
会期:2014/01/17~2014/01/21
ナオナカムラ(素人の乱12号店)[東京都]
文化人類学でいう「フィールドワーク」とは、ここではないどこか遠い現場を調査する方法論を指すが、それに対していまここの現場をリサーチすることは「ホームワーク」と言われる。かつてハル・フォスターは80年代後半の欧米の美術界に生まれたパラダイム・チェンジを「民族誌的なアーティスト」の出現として解説したが、いま現在、日本の都市の只中で暮らしながら同時にそれを主題とする「ホームワーク・アーティスト」が出現しつつある。
ひろせなおきは、日常的に都内のネットカフェで生活しているアーティスト。初個展となる今回、会場にネットカフェの個室を再現しつつ、そこでひろせと同じようにネットカフェで暮らしている若者たちを取材した映像を発表した。それらを視聴すると、彼らの生態は決して「ネットカフェ難民」というネガティヴな言葉に収まらない拡がりをもっていることが伝わってくる。大学や会社に近いから、憧れの渋谷に住みたかったから、自宅より落ち着くからといった理由で、彼らは積極的に、いやむしろこう言ってよければ功利的に、ネットカフェを住処としているのだ。そこに見えない貧困が隠されている可能性は否定できないにせよ、これは来場者の多くにとって新たな知見だったのではなかろうか。
「ネットカフェ」という表象を正しく転覆すること。2007年に「ネットカフェ難民」という言葉を初めて使った日本テレビの早朝番組に、「難民じゃねぇし」と書いた垂れ幕をひろせ自身が掲げて勝手に出演したゲリラ・パフォーマンスも、かけ離れてしまったイメージを再びリアルなものとして取り返そうとしたに違いない。ひろせの「ホームワーク」は、自分のホームが偏って表象されることへの異議申立てでもあった。
むろん、ひろせにとってはホームワークだとしても、その展覧会を見る大半の鑑賞者にとってはある種のフィールドワークとして受容するほかないという根本的な矛盾は否定しえない。つまり誰もが「ネットカフェ」という現場を内部としてとらえるとは限らない。だが、興味深いのは、ひろせ自身が東京という街そのものをひとつの「家」として考えていることだ。とすれば、自宅と「ネットカフェ」は同じ家の中の別々の部屋に相当することになり、相互を往来するハードルは思っているほど高くはなくなる。かつて寺山修司は「街がひとつの図書館だ」と私たちを煽動したが、ひろせは寺山と同じような詩的想像力に近づきつつあるのではないか。それは現在のところ必ずしも十分に作品として結実しているわけではないにせよ、今後の展開と発展を大いに期待させるのである。
2014/01/18(土)(福住廉)