artscapeレビュー
ひろせなおき個展 東京ネットカフェ犯行記
2014年02月01日号
会期:2014/01/17~2014/01/21
ナオナカムラ(素人の乱12号店)[東京都]
文化人類学でいう「フィールドワーク」とは、ここではないどこか遠い現場を調査する方法論を指すが、それに対していまここの現場をリサーチすることは「ホームワーク」と言われる。かつてハル・フォスターは80年代後半の欧米の美術界に生まれたパラダイム・チェンジを「民族誌的なアーティスト」の出現として解説したが、いま現在、日本の都市の只中で暮らしながら同時にそれを主題とする「ホームワーク・アーティスト」が出現しつつある。
ひろせなおきは、日常的に都内のネットカフェで生活しているアーティスト。初個展となる今回、会場にネットカフェの個室を再現しつつ、そこでひろせと同じようにネットカフェで暮らしている若者たちを取材した映像を発表した。それらを視聴すると、彼らの生態は決して「ネットカフェ難民」というネガティヴな言葉に収まらない拡がりをもっていることが伝わってくる。大学や会社に近いから、憧れの渋谷に住みたかったから、自宅より落ち着くからといった理由で、彼らは積極的に、いやむしろこう言ってよければ功利的に、ネットカフェを住処としているのだ。そこに見えない貧困が隠されている可能性は否定できないにせよ、これは来場者の多くにとって新たな知見だったのではなかろうか。
「ネットカフェ」という表象を正しく転覆すること。2007年に「ネットカフェ難民」という言葉を初めて使った日本テレビの早朝番組に、「難民じゃねぇし」と書いた垂れ幕をひろせ自身が掲げて勝手に出演したゲリラ・パフォーマンスも、かけ離れてしまったイメージを再びリアルなものとして取り返そうとしたに違いない。ひろせの「ホームワーク」は、自分のホームが偏って表象されることへの異議申立てでもあった。
むろん、ひろせにとってはホームワークだとしても、その展覧会を見る大半の鑑賞者にとってはある種のフィールドワークとして受容するほかないという根本的な矛盾は否定しえない。つまり誰もが「ネットカフェ」という現場を内部としてとらえるとは限らない。だが、興味深いのは、ひろせ自身が東京という街そのものをひとつの「家」として考えていることだ。とすれば、自宅と「ネットカフェ」は同じ家の中の別々の部屋に相当することになり、相互を往来するハードルは思っているほど高くはなくなる。かつて寺山修司は「街がひとつの図書館だ」と私たちを煽動したが、ひろせは寺山と同じような詩的想像力に近づきつつあるのではないか。それは現在のところ必ずしも十分に作品として結実しているわけではないにせよ、今後の展開と発展を大いに期待させるのである。
2014/01/18(土)(福住廉)