artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

Art Court Frontier 2013 #11

会期:2013/07/05~2013/08/03

ART COURT Gallery[大阪府]

美術界の第一線で活躍中のアーティスト、キュレーター、コレクター、ジャーナリストらが推薦者となって出展作家を1名ずつ推挙する毎年恒例の企画グループ展「Art Court Frontier」。11回目となる今回は、10名の推薦者により、内田洋平、榎真弓、笠間弥路、コタケマン、澤崎賢一、下道基行、杉山卓朗、前谷康太郎、山下雅己、芳木麻里絵の10作家が出展した。映像、絵画、インスタレーションなどさまざまな表現が並ぶ会場で、今年、もっとも印象に残ったのは澤崎賢一の映像インスタレーション。それは戦時中、「人間魚雷」の開発者であったという祖父の逸話と、幼いころ、海に得体の知れない恐怖心を抱いていたという澤崎自身の感情体験を題材にした作品で、所々で軍服を着た男(澤崎本人)が“海の怪物”の絵を描きだしている姿も映し出される。この“海の怪物”の絵の登場が、いまとなっては知り得ない戦時中の祖父の体験、澤崎の体験、それぞれの価値観や時間をひとつの物語として結びつける鍵になっていて、こちらの連想を掻き立てるのだった。人間魚雷を開発した祖父と“海の怪物”との関係にまで私の想像が至らず消化不良の感も残るのだが、戦争という重いテーマ、その意味でもさまざまな解釈ができる。もう一度じっくり見ればよかった。

2013/08/03(土)(酒井千穂)

Semantic portrait(セマンティック・ポートレイト)

会期:2013/07/29~2013/08/03

Oギャラリー eyes[大阪府]

ポートレイトをテーマにした展覧会。出品作家は松本良太、丸山宏、寺脇さやか。松本はインターネットのSNSなどで仮の“自分”として画面に表示される人型のアイコンをモチーフに、自分自身というイメージにアプローチする作品を発表。デフォルメされた目、鼻、口のない人物の頭部と色鉛筆で濃く塗りつぶされた色面のドローイングは一見無機的なイメージだが、フリーハンドの線の歪さや捩れなど、複雑な奥行きを感じさせる表現がちぐはぐな印象を与えて面白かった。丸山の作品は水彩とアクリル絵の具による肖像画。どの人物も霞がかかったように顔の部分が朧げでそれぞれの表情は不明瞭なのだが、仕草や動作の描写がその場の空気を伝えるように美しく、視線が画面の奥へと誘われる。写真を元に描いているのだそうだが、対象の人物と作家との距離感、時間など、臨場感をもって追体験するような作品だった。寺脇の描く人物のリアルな表情や、画面全体の色彩はやや重たく不気味な印象があるが、よく見ると全体にタッチは軽やかでスピード感にもあふれている。心の内奥を垣間見るように不安や影が過るイメージも魅力的だ。みな80年代生まれの若い作家。作品も各数点ずつだったが、他人との関係性や人間の身体など、作家それぞれの表現のテーマと視点が引き出されたバランスの良い展示で印象に残った。


展覧会「セマンティック ポートレイト」2013 Oギャラリーeyes

2013/08/03(土)(酒井千穂)

ヤドカリトーキョー Vol.09「秘密の部屋──恋する小石川」

会期:2013/08/02~2013/08/04

ヘルシーライフビル[東京都]

作品の展示場所を求めて都内を徘徊する「ヤドカリトーキョー」。その9回目の「ヤド」となったのが、小石川植物園の正面に建つ一見なんの変哲もないヘルシーライフビルだ。通常こういう場所で作品を見せるとき、壁を壊したり床をはがしたりしながら空間全体を変えてしまうような、いわゆるサイトスペシフィックなインスタレーションを期待するもんだが、ヤドカリトーキョーにはそれは期待できない。だって彼らはただヤドをカリるだけで、終わったらきれいに現状復帰して返さなければならず、ムチャはできないのだ。じゃあ貸し画廊の展示とどこが違うの?と突っ込まれるかもしれないが、カリるヤドが「フツーのビル」じゃないところがヤドカリトーキョーなのだ。今回のヘルシーライフビルも最初はフツーの事務所ビルだったらしいが、その後改装され、直前までシェアハウスとして使われていたという。シェアハウスとは敷金、礼金、保証人など不要の安くて狭いレンタルルームのことだが、だれが入居しているのかわかりにくく、一部は「脱法ハウス」とも呼ばれ、隣近所の評判はあまりよくない。このビルも2~4階の各フロアがそれぞれ約4畳ずつに細かく分割され、談話室も含めて部屋は計24室。ここに約40人のアーティストが作品を展示している。基本的に1部屋にひとり、ほかにキッチン、トイレ、シャワー、廊下などにも作品がある。だいたいみなさんおとなしく絵や写真を飾るだけだが、なかには残されたベッドや机を使ってインスタレーションしたり、トイレで映像を流したりするやつもいて楽しい。おもしろかったのはバーバラ・ダーリン(日本人)で、シャワールームではシャワーの水を出しっぱなしにし、キッチンでは大鍋に入れたチキンカレーを食べ放題に、部屋ではベッドの上にロデオマシーンを置いて、スイッチを入れるとズコズコ振動する近所迷惑な3部作を出していた。水道水を出しっぱなしにするのはかつて遠藤利克が、最近では原口典之もやってるいわば伝統芸。カレーを食べさせるというのもリクリット・ティラヴァーニャの得意技だ。ロデオもきっとなにかオリジナルがあるはず。つまりバーバラは現代美術の「名作」を場所に合わせて縮小し、広く「シェア」しようとしているのだ。まさにアートのシェアハウス。

2013/08/02(金)(村田真)

彫刻家 高村光太郎 展

会期:2013/06/29~2013/08/18

千葉市美術館[千葉県]

日本近代の彫刻家にして詩人の高村光太郎の回顧展。光太郎によるブロンズ彫刻や木彫をはじめ、師であるロダンや同時代の萩原守衛、中原悌二郎、佐藤朝山らによる作品、そして妻智恵子による紙絵など、あわせて130点あまりが展示された。そのうち60点近くを智恵子の紙絵が占めていたことは、展示のバランスを著しく阻害していたため、あまり感心できなかったが、それでも希少な作品を堪能できた。
ひときわ印象に残ったのは、光太郎による木彫作品。蝉や柘榴を彫り込んだ作品には、単なる写実的な再現性を超えた魅力がある。ブロンズ彫刻に生命や死を本質的に表現しようとする鬼迫がみなぎっている反面、こうした木彫にはデッサンをそのまま立体化したかのような朴訥とした味わいがあるのだ。それは、決して肩肘を張らない今日的な「脱力感」というより、いかように整えても私たちの肌に馴染む極めて基礎的な「質感」を表わしているように思えた。
事実、光太郎の木彫は、父光雲の指導を受けた幼年期を別にすれば、留学からの帰国後、しばらく彫刻から離れていた時期に制作されたものが多いらしい。西欧近代の彫刻を日本に根づかせようとして苦闘した光太郎が、しかし、その大きな限界に向き合ったとき、木彫という原点に立ち返ったわけだ。そのことの意味は決して小さくない。
光太郎にしろロダンにしろ、ブロンズ彫刻を見なおしてみると、その仰々しさが鼻につかないでもない。頭部や手を部分的に再現したそれらは、劇的に形象化されているため訴求力は高いが、その反面、色彩の乏しさと過剰な量塊性が私たちの喉元を通りにくいことも事実だ。木彫のやさしさと比べると、そのえぐ味がよりいっそう際立つと言ってもいい。光太郎の苦悩は、かつて吉本隆明が指摘したような「世界意識」の相違もあったに違いないだろうが、より直接的には「生理的」な問題が大きかったのではないだろうか。

2013/08/01(木)(福住廉)

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「ウルの牡山羊」シガリット・ランダウ展

会期:2013/05/17~2013/08/18

メゾンエルメス8階フォーラム[東京都]

イスラエルのアーティスト、シガリット・ランダウの個展。「ヨコハマ・トリエンナーレ2011」で発表した、死海に浮かぶ螺旋状の西瓜を主題とした詩情性の高い映像作品が記憶に新しい。けれども、今回展示された《Out in the Thicket 茂みの中へ》を見て、彼女の作品が詩情性だけにとどまらない拡がりを持ちえていることを知った。
4つのプロジェクターに映し出されていたのは、それぞれ異なるオリーブの木。青々と葉が生い茂った一本の樹に、1台の収穫機がゆっくりと接近する。巨大なアームで樹木を挟み込むと、強烈なバイブレーションを始動、するとオリーブの実が次から次へと雨のように落ちてくるという仕掛けだ。なんのことはない、じっさいのオリーブの実の収穫を映した映像なのだが、バイブレーションの音を劇的に増幅しているせいか、それとも震動に揺れる木々があの震災を連想させるからなのか、記録映像以上の何かを感じさせているのだ。
静かに忍び寄り、不意に強力な震動を加えるという点では、パレスティナの土地を奪い取ったイスラエルの暗い歴史を読み取ることもできるだろう。だが、映像を見ていて心に焼きつけられるのは、衝撃的な震動の大きさというより、むしろその耐え難いほどの長さである。地震であれば、ある程度の時間が経てば、おのずと収まる。土地をめぐる戦争であれば、連続的というより断続的だろう。ランダウの映像は、しかし、暴力的な震動が、ただただ、果てしなく続く。終着点をまったく見通すことができないほど、あるいは実を落とすという目的を突き抜けて樹木自体を破壊してしまいかねないほど、激しい震動が一定の水準を保ちながら延々と続くのだ。
しかし不思議なのは、その非日常的な時間にしばらく身を委ねていると、恐怖や不安の向こう側で、ある種の哄笑を経験できることだ。尋常ではないほどの震動と音を体感しているうちに、どういうわけか腹の底から笑えてくるのだ。むろん、それは笑いを求めてくるお笑い芸人の芸に否応なく応じる類の笑いではない。なんというか、身体が震動のリズムに呼応し、共鳴し、共振した結果、自己の意志とはまったく無関係に、底知れぬ哄笑を生み出したと言えばよいのだろうか。ほんとうに恐ろしいのは、この笑いである。

2013/07/31(水)(福住廉)

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