artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
亀谷彩 漆作品展「あめつちのくら」
会期:2013/06/05~2013/06/14
GALERIE CENTENNIAL[大阪府]
大地に見立てられた小さな羊の背中、フワフワした鳥の羽根を手のひらにおさめた手など、漆の質感や表情もそれぞれに異なる作品が並んでいた。作品のほとんどは小さなものだが、惑星の軌道や、天体、そして季節の移り変わりをイメージさせる展示空間がその軽やかで小さな作品世界にいっそう広がりを与えていて、雨の匂いや湿気、夜空、そよそよと吹く風など、眺めていると自然現象やその光景への連想を掻き立てていくから楽しい。最近は東京と関西で交互に発表をしていることが多いという亀谷。10月末から11月にかけては東京で個展が開催される予定だという。「逆さまの舟」をモチーフにした作品が発表される予定とのこと。そちらも気になる。
2013/06/14(金)(酒井千穂)
木洩れ陽の宇宙II 山本修司 作品展
会期:2013/06/08~2013/07/14
尼信会館[兵庫県]
山本が近年精力的に発表している《木洩れ陽》シリーズを中心に、約25点の作品が出品された。その多くは、これまでに画廊で見たことがある作品だが、美術館並みの空間に並べてみると、やはり新たな感動がある。彼の作品は、木洩れ陽から敷衍して宇宙的スケールにまでイマジネーションが飛躍する。それゆえ広大な展示空間で本領を発揮するのだ。ユニークだったのは床置きされた1点の新作。雪見障子のごとく低位置に設置された窓に合わせた、サイトスペシフィックな作品だ。ただ、千変万化の天然光には山本も手を焼いたらしい。私が訪れた時間帯は発色が沈んで見え、少々残念だった。
2013/06/14(金)(小吹隆文)
空想の建築 ─ピラネージから野又穣─
会期:2013/04/13~2013/06/16
町田市立国際版画美術館[東京都]
1990年代に開催されたピラネージ展以来、久しぶりに町田市立国際版画美術館へ。「空想の建築 ピラネージから野又穣へ」展は、アンビルドの建築と美術を架橋する企画だ。建築史系では、コロンナ、ビビエナ、ルドゥー、シンケル、エジプト誌、フェリスなどを楽しめる。シブいセレクションだ。アートからは、デマジエール、阿部浩、コイズミアヤ、野又穣など。この展覧会があまり建築界で知られていなかったのはもったいない。
2013/06/13(木)(五十嵐太郎)
西村正幸 展「知らずにいた記憶」
会期:2013/06/04~2013/06/16
gallery SUZUKI[京都府]
戦争の絶えない世界への無常感とそこでいつも犠牲になる多くの子どもたちへの胸ふたがる思い、それを知ってただ立ちすくむやるせない悲しみ。そのような感情を根底にもつ西村さんの作品は、けれどまったく押し付けがましさの欠片もなく、清々しい魅力を放って、まるで足下でそっと生きる小さな植物や生き物に気づいたときの、喜びにも似た感覚を喚起する。画面の隅を飛ぶ小さな白い鳥、海に浮かぶ小舟、世界の真理とともに希望を見いだそうとするような青い画面。こちらに語りかけるようなその絵の具の青に個展を訪れるたびに打たれる。
2013/06/13(木)(酒井千穂)
天才ハイスクール!!!!
会期:2013/06/01~2013/06/29
山本現代[東京都]
「天才ハイスクール!!!!」とは、Chim↑Pomの卯城竜太が講師を務める美学校の講座名で、本展は同講座の修了生を中心にしたグループ展。2011年以来、東京は高円寺の素人の乱12号店を会場にそれぞれ個展を開催してきたが、ついに昨年は旧東京電機大学の校舎で催された大規模なグループ展「TRANS ARTS TOKYO」で大いに注目を集めた。
その最も大きな特徴は、荒削りで奔放、野性的で直情的な美術表現。それは、ほとんどが美術の高等教育を受けておらず、その経験がある場合でも、おおむねドロップアウトしているという出自に由来している。アカデミックな知識や高度な技術は欠落しているが、その反面、美術教育の現場では敬遠されがちな、きわめてストレートなエネルギーの放出が、彼らの強みである。自分たちの日常と分かち難く結びついているネットカルチャーやアイドル、ゲーム、グラフィティといった若者文化を背景にしながら、家族愛や生きにくさ、3.11、生と死の問題といった、同時代の主題を表現する方法が、じつに清々しい。
事実、本展では旧作もかなり展示されていとはいえ、展示会場はおろか階段や洗面所、物入れなどのバックヤードにも作品を設置することで、それらの作品によって既存の空間を押し広げるほどの強力な表現意欲が伝わってくる。なかでも自分の母親への愛をテーマにした映像を見せた大島嘉人と、階段を無限に駆け上がるパフォーマンスを映像で見せたケムシのごとしが今回は際立っていた。前者は、ちょうど森美術館のLOVE展における出光真子の映像作品とは対照的に、息子の視点から母親との関係性を実直に描いたとすれば、後者は駆け上がっても駆け上がってもどこにも到達しえない今日的な無常感を簡潔に表現したのである。
とはいえ、一抹の危惧を覚えないわけではない。彼らは着々と経験値を上げており、作品そのものの質は別として、少なくとも空間の使い方に関しては抜群のセンスを発揮している。こうした点は、むしろ多くの美大生は見習うべきだろう。ところが、会場に立ち込めていた野性的で破天荒な空気感は、一方で容易にパッケージ化されやすい。仮に同展を地方都市の会場に巡回させたとしても、それぞれの会場で異なる空間的な特性を読み取りながら、ほぼ同水準の展示を構成することができるに違いない。だが、それ自体がひとつの芸風として定着すると、当初はその斬新さに目を奪われていた鑑賞者は必然的に作品の質を問うことに焦点を合わせるようになる。いくら集団性に基づくとはいえ、いくら美術教育の外側にいるとはいえ、最終的に問われるのはやはり個別の作品なのだ。
Chim↑Pomのように強固な集団的主体性を構築しているわけではなく、あくまでも個々のアーティストの集団としてあるならば、彼らにとって必要なのは「天才ハイスクール」という枠組みの外側に踏み出すことではないか。それは、天才ハイスクールという看板のもとで個展を催すことではない。もっと徹底的に外部へ踏み外し、さまざまな世界を渡り歩き、あるいは徹底的にひきこもり、場合によってはアートからも距離を取るような方向性に身を投げ出すこと。逆説的かもしれないが、野性が飼い慣らされることを拒否しながら表現をさらに展開するには、そのような方策が最も適切だと思う。
2013/06/13(木)(福住廉)