artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
「印象派を超えて──点描の画家たち」記者発表会
会期:2013/06/05
国立新美術館[東京都]
10月4日から国立新美術館で開かれる展覧会の記者発表。まだ4カ月も先のことだし、これから暑くなる時期に秋口の話をされてもなあ的な冷めた空気も漂う。展覧会のモネ、スーラ、ゴッホ、ドランと続く点描表現の流れは教科書的だが、モンドリアンの初期だけでなく幾何学的な色面抽象まで点描の延長として位置づけた点がユニーク。たしかに3原色の独立した配置は点描に通じるかも。しかし初期の点描風のマティスが出ないのは画竜点睛を欠かないか。そもそも出品作品の大半は、オランダのクレラー・ミュラー美術館のコレクションからで、「点描」でまとめるというアイディアも美術館側からの提案だったらしい。クレラー・ミュラーといえば日本でたびたび開かれる「ゴッホ展」の供給元として知られる美術館。日本にとってはありがたい存在であるが、クレラー・ミュラーからすれば日本はいいお得意さんに違いない。こうして西洋美術の需給のバランスは保たれているんだね。
2013/06/05(水)(村田真)
ヤノベケンジ「サン・チャイルド」
[大阪府]
阪急南茨木駅の前のロータリーに、震災後の希望を示す子どもの立像のモニュメント、ヤノベケンジによるサンチャイルドが常設のパブリックアートとして設置されている。先に見た岡本太郎記念館の庭や福島空港の室内に比べると、まちの屋外に立っているのは、のびのびとして気持ちがいい。茨木市教育委員会の平成23年度彫刻設置事業らしい。これでヤノベとゆかりが深い万博会場に近い場所で、いつでも見ることができる状態になった。
2013/06/02(日)(五十嵐太郎)
牧野邦夫─写実の精髄─展
会期:2013/04/14~2013/06/02
練馬区立美術館[東京都]
現在の「現代アート」には、圧倒的に「過剰」が足りない。画家・牧野邦夫(1925~1986)の絵画を見ると、思わずそんな嘆息を漏らしたくなる。情熱、技術、視線など、あらゆる点で行き過ぎているのだ。そのような常軌を逸した過剰性が、私たちの眼を釘付けにするのである。
本展で展示された、およそ120点あまりの作品の大半は、油彩による写実画。しかし、より正確に言えば、写実の技法を用いた幻想画というべきだろう。技法的には写実的に描きながらも、画面の随所に幻想的な主題が織り込まれており、そのことが絵画全体の性格を決定しているからだ。神話的な世界に投入した自画像や、建造物や植物にまったく脈絡なく挿入した人面などは、その幻想性を高める例証である。あるいは、こうも言えるかもしれない。牧野は写実に始まり、写実を極め、やがて写実を超えてしまったのだと。
そのように牧野を駆り立てたのは、いったい何だったのか。それは、おそらく現代美術の歴史に名を残す功名心などではなかった。なぜなら牧野の絵画にも言説にも表われているのは、あまりにも純粋なレンブラントへの憧憬ないしは衝動だからだ。それ以外は皆無であると断言してもいいほど、牧野はレンブラントに傾倒していた。この世にはいないレンブラントに手紙を書き、あまつさえその返信もレンブラントになりきって書いたという逸話は、その度を超えた情熱を如実に物語っている。
多くの近代美術家は、近代と伝統、ないしは西洋化と土俗土着の問題で思い悩んでいた。すなわち、近代芸術の理想と土着的な現実のあいだを縫合するには、あまりにも双方はかけ離れていたため、作品として結実させることが難しかったのである。西洋彫刻では筋骨隆々とした肉体が造形化されていたが、現実の風土においてはむしろ薄弱の身体でしかない。ところが、レンブラントしか見ていなかった牧野にとって、そうした問題に優先順位が置かれていたとは到底思えない。なぜなら、牧野が描く身体像はいずれも西欧人のような厚みがあり、そこには現実を必ずしも反映していないという後ろめたい影は微塵も見当たらないからだ。建物や風景を描いた絵画ですら、肉厚の身体のような量塊性がある。
この極端に偏った過剰性は、たしかに西欧芸術を崇拝する典型的な奴隷根性の現われだが、だからといって決して非難されるべきではない。しばしば引き合いに出される牧島如鳩もそうだったように、西欧だろうと土着だろうと、より徹底して、より過剰に、より大袈裟に表現したからこそ、あのような優れた絵画が生まれたのは否定できない事実だからだ。第一、どこかで過剰にならなければ、いったい何がおもしろいというのか。
2013/06/02(日)(福住廉)
森山大道「1965~」
会期:2013/06/01~2013/07/20
916[東京都]
916の大きな会場に、大判プリントを中心に森山大道の100点以上の作品が並んでいた。美術館並みのスケールで、しかもかなりわがままなチョイスで展示を構成できるこの会場の特性がよく活かされた展示といえるだろう。
展示作品は1965年2月号の『現代の眼』に発表され、デビュー写真集『にっぽん劇場写真帖』(室町書房、1968)の巻末にも掲載された「胎児」のシリーズから近作まで多岐にわたる。1960年代末~70年代初頭に撮影されたカラー写真が、大小のモノクローム・プリントに挟み込まれるようにして展示されているのも面白い。会場に掲げた解説の文章(飯沢耕太郎「森山大道──ラビリンスの旅人」)でも指摘したのだが、「湿り気」「浮遊感」「部分/断片化」という特質を備えた森山の作品世界を彷徨い歩く愉しみを、たっぷりと味わい尽くすことができた。
おそらく916を主宰する写真家・上田義彦の好みが、作品のセレクションに強く働いているのではないだろうか。目につくのは、女性を被写体にした、ポートレート、ヌード、スナップショットが、かなり多く選ばれていることだ。ハイヒール、網タイツ、花などを含め、森山が独特の「部分/断片化」の眼差しで切り出してきた「女性」のイメージは、エロティックな連想に見る者を誘い込む。視覚と触覚と嗅覚とが見極めがたく絡み合ったエロスの力を、上田のセレクションがとてもうまく引き出していると思う。
さらにいえば、その匂い立つようなエロティシズムは、上田の写真にはどちらかといえば欠けているところでもある。そのあたりの微妙な綾が、写真展の成立にかかわっていそうな気もする。
2013/06/01(土)(飯沢耕太郎)
淺井愼平「HŌBŌ 星の片隅」
会期:2013/05/30~2013/07/01
キヤノンギャラリーS[東京都]
「HŌBŌ」は淺井愼平が1997年に刊行した写真集のタイトル。旅先で切り取った光景を集成した写真集に「あちこち放浪する人」(もともとは日系移民が使っていた言葉だという)を意味するこの言葉はぴったりしている。それから15年以上を経て、淺井はキヤノンギャラリーSの10周年記念企画の一環として開催された展覧会で、同じタイトルを使った。今回は2011~13年にアメリカ・テキサス州、沖縄、ニュージーランドなどで撮影された近作のみで構成されている。やはり旅と移動が、写真家としての彼の基本的な撮影のスタイルであることに変わりはないことがよくわかる。
鋭いナイフですっと切り抜かれたような、これらのスナップ写真には、ガラス窓や鏡に映る自分の姿以外には「人」の姿がほとんど写り込んでいない。かといって、淺井の写真が「風景写真」なのかといえば、それとも違う。そこには人間の残した痕跡(足跡、ペンキの塗りむら、グラフィティ、古写真、看板など)が、たっぷりと写っているからだ。われわれはそれらの写真を見ながら、そこで何が起こったのか、あるいは起こりつつあるのかを想像する。そんな見えない物語を浮かび上がらせるための手がかりを、淺井は巧みに画面に配置していく。
このような写真は、むしろ「シーン」の集積といえるのではないだろうか。淺井は少年時代から映画に魅せられ、早稲田大学在学中は映画監督になることを夢見ていたという。旅先で好みの景色や事物を見出したとき、彼はあたかも監督が映画の「シーン」を構築するように、シャッターを切っているのだろう。実際に彼の写真の一枚一枚を組み合わせていくと、そこからさまざまな映画(物語)が生まれ落ち、育っていくようにも見えてくるのだ。
なおキヤノンギャラリー銀座では同時期(5月30日~6月5日)に「東京暮色─『早稲田界隈』より」が開催されていた。こちらはしっとりとしたモノクローム写真中心の展示。早稲田大学周辺の時の流れや澱みを、丁寧に写しとっている。
2013/06/01(土)(飯沢耕太郎)