artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
桂ゆき ある寓話
会期:2013/04/06~2013/06/09
東京都現代美術館[東京都]
桂ゆきの生誕百年を記念した回顧展。美術館の回顧展としては、これまで山口県立美術館(1980)や下関市立美術館(1991)があったが、東京では初めてである。油彩画をはじめ、コルクによるコラージュ、書籍の装丁や挿画、スケッチや写真などにより、およそ60年にわたる長く幅広い画業を振り返った。
本展は、桂ゆきの創作活動を「コラージュ・細密描写・戯画的表現」の3点で要約していたが、それらを鑑賞した実感を整理すると、「ユーモア・抵抗・柔和性」の3点になると思う。
事実、桂ゆきの絵には軽やかな哄笑を誘うものが多い。樹木に生えたキクラゲだけを描いた絵を見ると、そのユニークな着眼点に思わず笑みがこぼれるし、《人が多すぎる》(1954)や《おいも》(1987)にいたっては、タイトルだけですでに可笑しい。画面にたびたび登場する上向きの目玉も、特定の物語を説明する戯画的なキャラクターというより、あらゆる役割や意味から解き放たれたナンセンスな存在なのだろう。
ただ同時に、そうしたユーモアが抵抗の精神の現われであることもまた事実である。桂ゆきの絵画的な特徴は、シュルレアリスムやアブストラクト、ルポルタージュ絵画、ソフト・スカルプチュアなどと共鳴しながらも、それらから逸脱している点にある。シュルレアリスムの代名詞とも言える「地平線のある絵」を嫌悪していたという逸話が残されているように、桂ゆきは特定の表現形式に回収されることを明らかに拒んでいた。様式をみずから更新していく運動性によって、社会や政治というより、むしろ美術そのものに抵抗していたのだ。だからこそ、西欧的な絵画の模倣でもなく、日本的な土着性への回帰でもない、独特の絵画表現が可能になったのだろう。
とはいえ桂ゆきの作品は、どちらかといえば、日本的な土着性に傾いている。画面にはアジの開きや山菜など私たちの食生活を彩る主題が頻出しているし、晩年に取り組んだ紅絹を用いた立体表現のそれも、釜や下駄、団扇、しゃもじといった庶民の暮らしを支える道具が多い。企画者の関直子が指摘しているように、ここに家事労働によって酷使され打ち捨てられた道具が妖怪と化すとする「九十九神」との類縁性を見出すこともできるかもしれない。
けれども、それらの作品があまりにも土俗的にすぎないのは、そこにある種の柔和性が一貫しているからではないだろうか。一般論で言えば、細密描写には偏執的な求心力が作用していることが多いが、桂ゆきの場合、そうした執着心はほとんど見受けられない。むしろ、切り取られた樹木を描いた《伐採》(1942)に表わされているように、対象を柔らかく包み込むような優美な印象が強い。前述した《人が多すぎる》は、丸い円で抽象化した複数の人間の顔を漁網で絡めとり、引き上げる絵だが、それぞれの円がほどよく離れているせいか、あるいは緑と青を基調としたバルールによるのか、凝集した圧迫感はまったく感じられない。むしろ際立っているのは、網を表わす大きな円の中に人を表わす小さな円をていねいに収めた優しさである。そこかしこに「温和なにおい」(久保貞次郎)が漂っているのだ。
コラージュや細密描写を手がけるアーティストは数多いし、戯画的表現にいたっては昨今の現代アートの王道とすら言える。けれども、ユーモアと柔和性によって美術そのものに抵抗している美術家は明らかに希少である。桂ゆきの今日的なアクチュアリティーはここにある。
2013/06/08(土)(福住廉)
LOVE展 アートにみる愛のかたち
会期:2013/04/26~2013/09/01
森美術館[東京都]
「愛」についての展覧会。草間彌生、オノ・ヨーコ、ジェフ・クーンズ、デミアン・ハーストから、ロダン、マグリット、ブランクーシ、キリコまで、文字どおり古今東西のアーティストによる200点あまりの作品が一挙に展示された。
あまりにも中庸なテーマだからだろうか、総花的な展観であることは間違いない。とはいえそうだとしても、その群生のなかからひときわ美しい花を自分の眼で選び出すことが、こうした展覧会の楽しみ方である。
注目したのは、3点。アデル・アビディーンの《愛を確実にする52の方法》は、作家本人がタイトルが示すテーマについてカメラに向かって語りかける映像作品。恋愛マニュアルの形式をシミュレートしながらも、内容に皮肉や冗談を交えることで、逆説的に真実味を増大させた。映像としては簡素であるが、その内容は思わず膝を打ったり、首肯したりするものばかりでおもしろい。視点が男性側に置かれているので、ややもすると女性側からの反発もなくはないのかもしれないが、機知に富んだ翻訳も手伝ってか、来場者の多くは性差にかかわらず共感を寄せていたようだ。
ローリー・シモンズの《LOVE DOLL》は、日本で購入したラブドールをニューヨークに持ち帰り、衣服を着用させてさまざまなシーンで写真を撮影した連作。デートを楽しんだり、家事に勤しんだり、終始一貫して人間として扱いながら愛情を注いでいる。ところが、その写真そのものが人工的に撮影されたことを自己言及的に表わしているので、結果として変態性や人工性が倍増した奇妙な写真になっているところがおもしろい。
変態的といえば、むしろ出光真子の《英雄チャン ママよ》の方が強烈である。溺愛してやまない息子が遠方で暮らすようになってから、自宅で撮影したビデオ映像を食卓で上映しながら日常生活を送る母親の生態を描いた映像作品だ。映像のなかの息子を愛おしく見つめ、甘い声で語りかける母親の姿は、フィクションとはいえ、なんともおぞましい。とても80年代のビデオ・アートとは思えないほどの強い映像だったが、裏を返せば、つまりそれだけこの問題が依然として現在も継続しているということなのだろう。
3点に共通しているのは、いずれも愛の裏側を的確に表現しているところ。ダークサイドをえぐり出すことのできるアートの力を存分に楽しめる展観である。
2013/06/08(土)(福住廉)
トーキョーワンダーウォール公募2013入選作品展
会期:2013/05/18~2013/06/09
東京都現代美術館[東京都]
毎年100人ほどの入選者のうち、足を止めて見てみたいと思えるのはせいぜい5、6人だが、今年はもっとキビシー。透明感のある岩を描いた岩瀬晴香、ちょっとだれかに似てるけど三井淑香、色彩が美しい清水香帆の絵画に、かろうじて目が止まった程度。3人とも女性で、なぜか全員「香」がつくぞ。関係ないけど。
2013/06/07(金)(村田真)
笹井青依「Camellia」
会期:2013/06/04~2013/08/10
アンドーギャラリー[東京都]
案内状の絵を見て、以前「五美大展」で見た作品を思い出した。プリミティヴな木の絵なんだけど、葉っぱがカツラのように描かれてるのと、色彩が美しい中間色だったのでよく覚えている。今回もその延長線上の作品で、50号と150号が4点ずつ、ドローイング3点の展示。背景はいずれもグレーだが、斜め方向に濃淡をつけてるので風が吹いてるように感じる。幹と枝はベージュ、葉っぱは緑灰色で、これが木の葉というより髪の毛みたいに見え、ユーモラスかつ不気味でもある。モチーフは木だけで(なぜか2本か4本)、色彩は2、3色のみというシンプルさ。にもかかわらず不思議と惹きつける絵だ。作者がどれだけの力量をもっているのか、ほかの絵を見てみたい気もするが、まだしばらくこれでやってもらいたい気もする。おのずと変わっていくかもしれないし。
2013/06/07(金)(村田真)
立原真理子 展 戸とそと
会期:2013/06/03~2013/06/08
藍画廊[東京都]
会場の天井からいくつものアルミサッシがぶら下がっている。近づいてよく見ると、それらはいずれも網戸だった。さらに目を凝らすと、大小さまざまな網戸の網に色のついた糸を縫いこむことで、風景画を描いていることがわかった。とはいえ支持体である網戸の網自体が背景と融け合うほど見えにくく、しかもそこに縫いこまれた糸の線や色面でさえ明瞭ではないため、結果として非常に茫漠とした絵画になっている。あるいは、網戸というフィルターを通過して初めて立ち現われる風景という点に、室内に視点を定めがちな現代人の視線のありようが暗示されているのかもしれない。
いずれにせよ、大きく言えば、ゼロ年代の絵画に顕著な、はかなく、浮遊感のある性質を共有しているのだろう。けれども、立原による絵画がおもしろいのは、それらを既成の絵画という形式にのっとって表現するのではなく、その形式を含めて表現したからだ。絵画を描くには、内容より前に、形式からつくり変える必要があったのだ。
絵画を見ること、あるいは対象を見ること。この時代にふさわしい絵画は、おそらくこの基本的な身ぶりを根本的に再考することから生まれるに違いない。
2013/06/06(木)(福住廉)