artscapeレビュー

書籍・Webサイトに関するレビュー/プレビュー

安藤忠雄『建築家 安藤忠雄』

発行所:新潮社

発行日:2008年10月24日

安藤忠雄、初の自伝である。初というのが意外に感じられるのは、それだけ彼の生涯が知られているからだろう。ともあれ、本書は、いわゆる作品集の形式ではなく、個人の生きざまの物語を通じて、建築の思想が語られる。つまり、自伝だが、同時に建築のエッセンスがつまっている。安藤にとっては、それだけ生きることと建築をつくることが分ちがたくつながっているからだろう。生い立ちや旅のはなしは有名だが、まず興味深いのは、ゲリラ集団として位置づけられている事務所の組織論を冒頭で論じていることだ。仕事論としても読めるだろう。また自伝では、安藤の反骨精神が、1960年代の既成のものを否定するアヴァンギャルドと大阪人の気質に由来していることがうかがえる。

2009/10/31(土)(五十嵐太郎)

成実弘至編『コスプレする社会』

発行所:せりか書房

発行日:2009年6月

さまざまな論者が、タイトル通り、コスプレをキーワードに若者の文化現象を読みとく。ヴィジュアル系やタトゥー、ドラァグクイーンなど、それらはまさにもうひとつのアイデンティティをまとうために行なわれる。だが、アンダーグラウンドのサブカルチャーとして出発したスタイルも、すぐに消費され、記号化し、本来の意味が変容してしまう。今年、筆者は編著として『ヤンキー文化論序説』を刊行したので、とくに難波功士の「不良スタイル興亡史」を興味深く読んだ。彼は、ヤンキーが70年代の不良の遊び着=非学校文化を起源とするのに対し、ツッパリは反学校的生徒文化だと位置づけている。だが、不登校や学級崩壊という新しい状況も生じ、学校への対抗という意味を失い、もはや日用としてのツッパリのスタイルは恐竜と化し、卒業式などのイベントで目立つためのアイテムとしてのみ残っているという。

2009/10/31(土)(五十嵐太郎)

都市デザイン研究体『日本の広場』

発行所:彰国社

発行日:2009年5月

最近、広場研究をやっているのだが、ちょうどいいタイミングで今年復刻版が出たのが、『日本の広場』である。もともとは『建築文化』1971年8月号の特集を書籍化したものだ。やはり、1960年代の初頭に同誌に特集が組まれた「日本の都市空間」や「都市のデザイン」がのちに単行本になったのも一連のシリーズの続編であり、伊藤ていじが仕かけている。筆者が大学院生の頃、エディフィカーレの同人とともに『建築文化』に都市の特集を持ち込んだとき、実はこれらの事例がモデルだった。さて、『日本の広場』は、先行する二冊と同様、フィールドワークと事例収集を行ないつつ、さまざまなキーワードによって事象を整理している。しばしば日本に広場はないと言われるが、本書は神社や団地、街角や河原において日本的な広場のあり方を探っているのが興味深い。西欧が固定した広場の空間をもつのに対し、日本ではアクティビティや装置などによって生じるという。時代を感じさせるのは、デモや新宿西口広場のフォーク集会などが紹介されていること。なるほど、人々が路上を占拠した1960年代終わりの雰囲気が、本書を生みだした契機のひとつだったことは間違いないだろう。

2009/10/31(土)(五十嵐太郎)

伊東豊雄+藤本壮介+平田晃久+佐藤淳『20XXの建築原理へ』

発行所:INAX出版

発行日:2009年9月30日

伊東豊雄が3人の若手に架空のプロジェクトを依頼するドキュメント本である。選ばれたのは、好敵手の藤本壮介と平田晃久、そして佐藤淳。近代主義を乗りこえるための、伊東の問いかけから始まり、討議、ゲストを交えての研究会、プレゼンテーションを経て、それぞれの21世紀の造形が示される。1960年代のメタボリズムをほうふつさせるような前向きに未来の原理をつかみだそうとする姿勢が気持ちいい。社会の空気に萎縮し、妙に大人びた学生の案よりも、はるかに若々しい。そう、彼らは童心に帰って、建築を楽しんでいる。何をつくったかという最終形を知るだけなら、一冊の本をつくる必要はない。写真を中心にした冊子でも充分である。むしろ、創造というプロセスを四人が共有しながら、建築家として議論する言葉や思考の動きこそが、本書の最大の醍醐味である。ANY会議のような抽象的な議論とは違う、具体性のある刺激的なトークが展開されている。

2009/10/31(土)(五十嵐太郎)

清野賀子『至るところで 心を集めよ 立っていよ』

発行所:オシリス

発行日:2009年9月19日

自ら命を絶ってしまったという清野賀子の遺作写真集。前作の『THE SIGN OF LIFE』(オシリス、2002年)からは、もう一つその立ち位置、狙いが伝わってこなかったのだが、この写真集からは差し迫った心の動き、これを見せたいという思いが伝わってくる。揺らぎ、傾き、歪み、間隙といった要素が強まり、特に散在するヒトの写真に痛々しさを感じないわけにはいかない。
あとがきにあたる文章に「もう『希望』を消費するだけの写真は成立しない。細い通路を見出して行く作業。写真の意味があるとすれば、『通路』みたいなものを作ることができたときだ。『通路』のようなものが開かれ、その先にあるものは見る人が決める。あるいは、閉じているのではなく、開かれているということ」とある。だが文章の最後は「それでもあきらめず、『通路』を見出し続けることが大切。いや、大切とすら本当は思っていない」と書く。このような「希望」と「絶望」の間を行ったり来たりしながら、消しゴムで消すように最後は「希望」をぬぐい去ってしまう身振りが、写真集全体にあらわれているのだ。でも僕は、この写真集では、「見る人」に向けられた「通路」はきちんと確保されていると思いたい。なお、印象的なタイトルは、ドイツの詩人、パウル・ツェランの詩「刻々」から採られている。

2009/10/18(日)(飯沢耕太郎)