artscapeレビュー
デザインに関するレビュー/プレビュー
第5回企業のデザイン展──花王株式会社「にほんのきれいのあたりまえ」
会期:2014/10/04~2014/10/26
東京藝術大学大学美術館 陳列館[東京都]
2012年から2年間にわたって「家庭用品の未来」を研究テーマに、花王株式会社と東京藝術大学が行なってきた「藝大デザインプロジェクト」の報告展覧会。陳列館の1階会場では日本人の暮らしの変遷と花王製品の関わりを三つの切り口──「からだのきれい(石鹸、シャンプー、ボディソープなど)」「ころものきれい(洗濯用洗剤)」「すまいのきれい(室内用洗剤、簡易モップ、台所洗剤など)」でたどる。2階会場では「きれい」をイメージしたインスタレーションと、識者たちが考える未来の「きれい」、そして藝大生による提案がパネル展示されている。このほかに1階では花王の前身である長瀬商店が海外輸出向け石鹸のために制作したラベルや、1931(昭和6)年に「新装花王石鹸」の発売にあたって行なわれた包装紙の試作コンクールの作品も展示されている(ただし、複製)。杉浦非水、村山知義、広川松五郎ら8名が参加し28点が提出されたこのコンクールで採用されたのは、最年少で当時はまだ無名だった原弘のデザインである。
展示を見たあと、もやもやとした印象が残る。もやもやのひとつはサブタイトルになっている「にほん」について。スペインやポルトガルの手によって日本に石鹸がもたらされたのは天文年間(1532-1555)というが、じっさいに石鹸が洗顔や入浴、洗濯に使用されるようになるのは明治に入ってからのこと。石鹸工業は他の工業と同様「欧米諸国の物に譲らざるの佳品を製出せん」という精神によって発展してゆく 。明治23年に発売された「花王石鹸」の包装紙には牡丹があしらわれていたが、これは中国大陸への輸出をも考慮したデザインだという 。国内需要においても、その展開は日本人の生活様式の西洋化と軌を一にしてきたことは1階会場の展示によって示されているとおり。そして原材料のパーム油は輸入品だ。こうした製品と企業のあゆみを「にほん」という枠組みで考えるのには無理がないだろうか。
もうひとつ、「きれいのあたりまえ」についても疑問が残る。そもそも衛生観念はそれ自体が近代の産物であり、かつ時代や地域、さらには個々人によって大きく異なっている。日本に限定しても清潔さについての「あたりまえ」はけっして不変ではないし、普遍でもない。そしてそうした清潔観自体がまた石鹸・洗剤メーカーの宣伝コピー、広告、コマーシャルによってつくられてきたものであることを忘れるわけにはいかない。緑の芝生の上に真っ白なTシャツがはためく会場2階のインスタレーションは、まさしくコマーシャルによってつくり出された清潔さのイメージそのものである。歴代の合成洗剤の効能書きは洗い上がりの白さを盛んに訴えてきた。このことは他方で人々に汚れや不潔な状態であることに対する罪の意識と恐怖とを植え付けてきた。そうした「罪の意識」や「恐怖」が合成洗剤の需要を増大させ、1970年代から80年代にかけて河川や湖沼の汚染を招いたのではなかったか。そればかりではない。「あたりまえ」とは他者に対する同調圧力であり、清潔さを追求する人々は不潔な人々を忌避する。それは異質な者たちを排除する思想と一体ではないだろうか。
そうした歴史的経緯をふまえて改めて本展を見ると、藝大生の提案のなかの「WASHVAL!!」に目がとまる。「wash」と「carnival」を合わせたタイトルのこのプロジェクトの解説によれば「近年の日本では『きれい・清潔』を重視しすぎるがあまり、逆に『汚してはいけない』という抑圧された心理を生み、『心の汚れ』を日常生活の中でため込んで」いるという。「WASHVAL!!」はそのようなストレスを解放するために、汚れてもよいポンチョを着て絵の具を仕込んだボールを投げ合うイベントである 。終了後に「花王の洗剤で綺麗に洗濯・掃除」するというパフォーマンスはともかく、日本人の「美徳」を自画自賛する展示のなかで、僅かでも「にほんのきれいのあたりまえ」がもたらした問題を示している点は注目に値する。[新川徳彦]
2014/10/24(金)(SYNK)
桜圃名宝
会期:2014/09/27~2014/12/06
学習院大学史料館[東京都]
寺内正毅(1852-1919)は、山口県(長州)の出身で陸軍士官学校長・教育総監・陸軍大臣・初代朝鮮総督などを務めたのち、大正5年に内閣総理大臣となった人物で、「桜圃」と号した。すなわち「桜圃名宝」とは正毅が所有していた書画骨董の優品のことである。本展には学習院大学が2013年度に寺内家から寄贈を受けた正毅・寿一関連資料350余点から、漆芸、書簡、墨蹟など約30点が出品されている。注目すべき品のひとつは、第10代学習院長・乃木希典が明治天皇に殉死した当日に正毅に送った書簡(大正元年9月12日付)である。同時代に書かれた文献から、乃木が自決する前に一番最後に書いた書簡であると考えられるという。その他の墨蹟には、西郷隆盛、木戸孝允、高杉晋作、吉田松陰らの書や書簡がある。いずれも正毅の故郷である長州出身者、あるいは正毅の人生に関わった人々の手によるものである。もうひとつ注目すべき品々は漆芸。中心となるのは寺内正毅が国の要職を務めた明治大正期に、その功績により皇室から下賜されたものである。明治維新後、大名家の庇護を失った職人たちは輸出工芸に新たな活路を見出し、江戸期までの国内向けの意匠とは異なる外国人好みの大胆なデザインの作品が多くつくられていた。これに対して御下賜品の漆芸は古典的な意匠や時代ごとの流行の技術を体現したものであり、その背景には日本の伝統工芸の技術を守ろうという考えが見て取れる。蒔絵の硯箱や文台の制作にはかなりの時間を要するものであり、これらの品の多くは下賜の機会や相手を特定せずに事前に皇室により発注された可能性もある。一方、制作期間が短くてすむ小品は、下賜の機会や相手が特定された特別注文の品と考えられ、作品の意匠からそれがわかるものもある。寄贈資料にはボンボニエール(皇室や華族家などの慶事の際に配られる小さな菓子入れ)が数多く含まれており、本展にはそのなかから漆塗りの品が10点出品されている。唐櫃や手箱をミニチュア化したうつわは雛道具にも似てかわいらしい。[新川徳彦]
2014/10/22(水)(SYNK)
印刷と美術のあいだ──キヨッソーネとフォンタネージと明治の日本
会期:2014/10/18~2015/01/12
印刷博物館[東京都]
明治政府が招聘したふたりのお雇い外国人、エドアルド・キヨッソーネ(1833-98)とアントニオ・フォンタネージ(1818-82)の仕事と日本への影響を軸に、明治期に発展した日本の印刷技術と美術との関係を振り返る企画。イタリアの銅版画家であったキヨッソーネは1875(明治8)年に大蔵省紙幣寮(のち印刷局)に彫刻師として招かれ、紙幣や切手の印刷に従事するほか、日本人の技術者に銅版画の技法を指導した。フォンタネージは1876年(明治9)年に招かれ、工部美術学校において洋画と石版画の技術を教えた。印刷の歴史には文字の印刷を行なう活字の技術と、図像の印刷を行なう版画技法からの流れとの二つがある。キヨッソーネの銅版画もフォンタネージの石版画も、図像の印刷の流れに属している。さらにいうならば、印刷博物館を運営している凸版印刷株式会社は、キヨッソーネの退職とともに印刷局を辞した2人の門下生・木村延吉と降矢銀次郎が1900年1月に設立した凸版印刷合資会社に起源を持ち、活字印刷ではなく有価証券や偽造防止技術を用いた図像の印刷を目的としていた。これら当時の印刷はただ版をつくる技術があればよいのではなく、版に直接図像を描画する必要から美術に関する素養が必須であった。美術の側は必ずしも印刷を包含しないが、明治期において印刷技術は美術と不可分の関係にあったところに本展の主題がある。印刷技術の発達、とくに写真製版の登場が印刷と美術とを分離させた一方で、本来複製印刷技術であった銅版画や石版画が美術の技法として展開していく様は本展の視野からはやや外れるが、とても興味深いものがある。
1875年の来日後、1898(明治31)年に没するまで日本で暮らしたキヨッソーネと、体調を崩して来日からわずか2年後の1878(明治11)年に帰国したフォンタネージとのあいだには、ほとんど接点がなかったようである。しかし2人のお雇い外国人は、その弟子たちを通じて凸版印刷と関わっていた。キヨッソーネの門下生が凸版印刷を設立したことは上に述べたとおり。他方で工部美術学校でフォンタネージに学んだ明治初期の洋画家たちの活動を経済的に支援した人物のひとり河合辰太郎はまた凸版印刷設立時の出資者であり、初代社長なのである。河合は根岸に住んでいた浅井忠の隣人で、浅井がフランス留学する際に支援し、また帰国後に京都高等工芸学校教授として赴任した際に、浅井の根岸の家を買い取っている。その後も河合家と浅井家との関係は長く続き、浅井忠の三十三回忌の法要は浅井の旧宅であった根岸の河合家で営まれたという。会場後半に展示されている浅井忠関連の絵画や書簡類は、そのような両者の関係で残されたものである。すなわち、この展覧会は順番に見るとお雇い外国人が日本にもたらした美術の技法と印刷・版画技術の歴史であり、逆順に見ると凸版印刷創業の歴史という構成なのだ。[新川徳彦]
2014/10/17(金)(SYNK)
「私の選んだ一品2014」展
会期:2014/10/04~2014/10/25
東京ミッドタウン・デザインハブ[東京都]
グッドデザイン賞の審査委員71名が、それぞれ気になる受賞作のひとつを取り上げて紹介する展示会。会場には審査委員たちの顔写真とプロフィールが書かれたパネルがずらっと並んでいる。パネルの裏側には各審査委員が選んだ「一品」の写真と短い製品解説。その右側には審査委員がその「一品」を取り上げた理由が記されている。会場のエントランスに数点のプロダクトが置かれている以外は、写真とテキストによるパネルのみ。小冊子のかたちでもいいし、ウェブ媒体で公開されていてもおかしくない内容であるが、会場に足を運んでもらい、読ませる工夫としてとても良く考えられている。床に敷かれた奇妙な形のカーペットが、奥から見ると文字になっているという仕掛けも楽しい。会場デザインはMOMENT。[新川徳彦]
2014/10/17(金)(SYNK)
日清・日露戦争とメディア
会期:2014/10/04~2014/11/24
川崎市市民ミュージアム[神奈川県]
川崎市市民ミュージアムが所蔵する錦絵、風刺画、写真から、日清戦争(明治27-28)および日露戦争(明治37-38)に関連する資料、作品を取り上げて、明治期における複製メディアの変遷、多様化を考察する展覧会。メディアの変遷は編年式で論じることもできようが、日清・日露戦争という10年の期間を隔てて行なわれたふたつの類似する「国家的イベント」に焦点を当て、その異同を考察する企画と考えられようか。理由の正当性はさておき、戦争は国民にとって一大関心事であり、その帰趨はさまざまなかたちで大衆に伝達されてきた。技術の変遷という点では、両戦争のあいだに木版による錦絵から多色石版画へ、そして写真利用の普及を見ることができる。この10年間には印刷技術の発展とともに雑誌メディアが伸長し、それにともない風刺雑誌、風刺画が多く見られるようになる。戦争のヴィジュアルは公式に伝えられるばかりではなく、こうした雑誌メディア、ポンチ本と呼ばれる娯楽絵本などを通じて大衆に伝えられた(ただし風刺されるのは対戦国ロシアを中心にヨーロッパ諸国である)。他方で日露戦争はヨーロッパ諸国にとっても関心事で状勢は写真やイラストを通じて伝えられた。日本から見たヨーロッパ列強のイメージと、ヨーロッパから見た極東イメージの違いは、同時代の国際社会の力関係を表わしていてとても興味深い。「戦争」と「メディア」が冠された展覧会タイトルからはメディアに操作される大衆というテーマを想像していたが、展示はおもに技術と媒体物とそこに現われた図像。情報の受け手に対する考察が加われば、さらに面白い企画であったと思う。[新川徳彦]
2014/10/12(日)(SYNK)