artscapeレビュー
印刷と美術のあいだ──キヨッソーネとフォンタネージと明治の日本
2014年12月01日号
会期:2014/10/18~2015/01/12
印刷博物館[東京都]
明治政府が招聘したふたりのお雇い外国人、エドアルド・キヨッソーネ(1833-98)とアントニオ・フォンタネージ(1818-82)の仕事と日本への影響を軸に、明治期に発展した日本の印刷技術と美術との関係を振り返る企画。イタリアの銅版画家であったキヨッソーネは1875(明治8)年に大蔵省紙幣寮(のち印刷局)に彫刻師として招かれ、紙幣や切手の印刷に従事するほか、日本人の技術者に銅版画の技法を指導した。フォンタネージは1876年(明治9)年に招かれ、工部美術学校において洋画と石版画の技術を教えた。印刷の歴史には文字の印刷を行なう活字の技術と、図像の印刷を行なう版画技法からの流れとの二つがある。キヨッソーネの銅版画もフォンタネージの石版画も、図像の印刷の流れに属している。さらにいうならば、印刷博物館を運営している凸版印刷株式会社は、キヨッソーネの退職とともに印刷局を辞した2人の門下生・木村延吉と降矢銀次郎が1900年1月に設立した凸版印刷合資会社に起源を持ち、活字印刷ではなく有価証券や偽造防止技術を用いた図像の印刷を目的としていた。これら当時の印刷はただ版をつくる技術があればよいのではなく、版に直接図像を描画する必要から美術に関する素養が必須であった。美術の側は必ずしも印刷を包含しないが、明治期において印刷技術は美術と不可分の関係にあったところに本展の主題がある。印刷技術の発達、とくに写真製版の登場が印刷と美術とを分離させた一方で、本来複製印刷技術であった銅版画や石版画が美術の技法として展開していく様は本展の視野からはやや外れるが、とても興味深いものがある。
1875年の来日後、1898(明治31)年に没するまで日本で暮らしたキヨッソーネと、体調を崩して来日からわずか2年後の1878(明治11)年に帰国したフォンタネージとのあいだには、ほとんど接点がなかったようである。しかし2人のお雇い外国人は、その弟子たちを通じて凸版印刷と関わっていた。キヨッソーネの門下生が凸版印刷を設立したことは上に述べたとおり。他方で工部美術学校でフォンタネージに学んだ明治初期の洋画家たちの活動を経済的に支援した人物のひとり河合辰太郎はまた凸版印刷設立時の出資者であり、初代社長なのである。河合は根岸に住んでいた浅井忠の隣人で、浅井がフランス留学する際に支援し、また帰国後に京都高等工芸学校教授として赴任した際に、浅井の根岸の家を買い取っている。その後も河合家と浅井家との関係は長く続き、浅井忠の三十三回忌の法要は浅井の旧宅であった根岸の河合家で営まれたという。会場後半に展示されている浅井忠関連の絵画や書簡類は、そのような両者の関係で残されたものである。すなわち、この展覧会は順番に見るとお雇い外国人が日本にもたらした美術の技法と印刷・版画技術の歴史であり、逆順に見ると凸版印刷創業の歴史という構成なのだ。[新川徳彦]
2014/10/17(金)(SYNK)