artscapeレビュー
デザインに関するレビュー/プレビュー
喜多俊之『デザインの探険1969-──僕がイタリアに行った理由』
日本を代表するプロダクトデザイナーのひとり、喜多俊之氏の自伝である。1969年にイタリアのミラノを訪れた喜多氏は、当初3カ月の滞在の予定であったが、それが3年になり、その後イタリアと日本の双方に拠点を置く生活は40年にわたる。辞書と小さなトランジスタ・ラジオひとつを持って訪れたイタリア、ミラノを訪れたきっかけ、イタリアでの生活、他のデザイナーたちとの出会い、そして家具デザインなど自身の仕事が、スナップやプロダクトの写真とともに語られる。
なによりも興味深いエピソードは、家具メーカーであるカッシーナ社との共同作業であろう。カッシーナ社のオーナー、チェザーレ・カッシーナとの出会いは渡伊前の1967年。1969年にイタリアで再会したときのチェザーレの言葉は「10年くらい経ったら、私たちと仕事をしよう!」であったという。その意味は、ヨーロッパに暮らし、その生活を体験してこそそのマーケットに適したものづくりができるということであった。実際、両者の共同作業が始まったのは1976年。そして最初の打合せが始まってから、その成果である《ウィンクチェア》が完成するのは3年後の1979年。さらに《ウィンクチェア》の発表は翌1980年のことである。完成してすぐに発表されなかったのは、この製品が未来的、80年代的であるという経営者の判断でもあった。
このほか、本書にはイタリアの家具メーカー興隆の背景にある社会環境の変化やメディアのはたした役割、それらと日本のデザイン環境との比較考察もあり、喜多氏のデザインの背後にある優れたものづくりの思想と方法とを学ぶことができよう。[新川徳彦]
2013/01/06(日)(SYNK)
ミュシャを愛した日本人
会期:2012/11/17~2013/03/10
堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館[大阪府]
堺市立文化館は「与謝野晶子文芸館」と「アルフォンス・ミュシャ館」のふたつの館で構成されており、どちらも年に数回、コレクションをもとにしたテーマ展を開催している。今回、取り上げるのはミュシャ館で2013年3月10日まで開催中の「ミュシャを愛した日本人」展だ。明治期の日本におけるミュシャの受容の様相を、写真・文献資料を読み解きつつ、ミュシャおよび日本人作家の作品を並置することで照射する意欲的な試みである。
4章から成る本展は、第1章がトゥールーズ=ロートレックやミュシャ等、19世紀末の著名なポスターの紹介を通じて、アール・ヌーヴォーの芸術を概説する役割を担っている。最後の第4章は、堺市が所蔵する約500点のミュシャ作品を収集したコレクター、土居君雄氏の紹介にあてられている。このふたつの章は、おそらく当館のどの企画展においても欠かすことのできない部分だろう。それゆえ、今回のテーマを直接反映していたのは第2、3章だが、とりわけ第2章の展示は秀逸だった。同章では、明治期においてミュシャのポスターが、黒田清輝らが設立した美術団体「白馬会」展などで展示されたことが、ミュシャのポスターが片隅に映っている白馬会展の会場風景写真により示される。そして、この写真の横には、写真に写っているミュシャのポスターそのものが展示されているのだ(無論、ポスターは複製物であるから、写真に写っているポスターと展示されているそれはまったくの同一物ではないが、複製物である以上そのことは問題ではない)。明治期へのタイムスリップのような演出が容易にできるのは、やはり土居氏の充実したコレクションあってのことである。良き美術館とは良き所蔵品によってつくられるのだ。
第3章は、藤島武二や杉浦非水らがミュシャの影響のもとに生み出した装丁デザインを中心に、ミュシャの受容の高まりを伝える。興味深かったのは、『明星』の挿絵等を手がけた一条成美がふたつの対極的な試みを披露していることだ。ひとつはミュシャの作品の意図的な模倣であり、もうひとつは、ミュシャと月岡芳年のような浮世絵とを融合させるかのような試みである。異なるふたつの方向の試みには、当時の日本人画家たちの心の淵にあった西洋画への憧れと、ジャポニスムの流行に刺激された浮世絵の再発見というふたつの極の対峙を見る思いがする。そして、そのことは不思議と、現代の日本の若者たちがやはりミュシャと若冲や国吉の両方の極に同時に魅かれていることにも呼応するのだ。[橋本啓子]
2012/12/27(木)(SYNK)
ものづくり 上方“酒”ばなし──先駆・革新の系譜と大阪高工醸造科
会期:2012/10/27~2013/01/19
大阪大学総合学術博物館[大阪府]
上方(関西地方)の酒造の歴史を紹介する展覧会。酒造道具や機械からラベルやポスターまで、さまざまな資料をとおして上方の酒造りの歴史を紐どいている。上方は日本の酒の歴史を牽引してきたといっても過言ではない。その影響力は生産技術に止まらず、社会や文化、教育にまで及んだ。江戸時代には、池田や伊丹で清酒が大量生産され、灘では寒造りが確立されたという。こうした生産技術の発展は市場を拡大させ、さらにその経済的繁栄を背景に文人たちを集めることになった。上方は洋酒生産においても先駆的な役割をはたしてきた。1891(明治24)年に吹田村に巨大ビール工場が登場(現アサヒビール吹田工場)、1924(大正13)年には山崎で国産ウイスキーの製造が開始され、洋酒の製造や普及をもリードしてきたのである。また1897(明治30)年、大阪高等工業学校(大阪大学工学研究科の前身)に国内初の醸造科が設置され、焼酎白麹の発見者・河内源一郎(1883-1948)、秋田吟醸酒の父・花岡正庸(1883-1953)、ウイスキーの伝道師・竹鶴政孝(1894-1979)(ニッカウヰスキー創業)などを輩出した。小規模ながらも充実しており楽しめる展示となっている。[金相美]
2012/12/20(木)(SYNK)
レオ・レオニ「絵本のしごと」/Leo Lionni, Book! Art! Book!
会期:2012/12/06~2012/12/27
美術館「えき」KYOTO[京都府]
絵本作家レオ・レオニ(Leo Lionni, 1910-1999)の仕事を紹介する展覧会。絵本の原画や版画、彫刻など約130点が展示されていた。オランダのアムステルダムで生まれたレオニは結婚後イタリアで暮らしていたが、ナチスの弾圧を逃れアメリカへ亡命、そこでグラフィックデザイナーとして活躍した。イタリアのファシスト政権が崩壊すると、アメリカとイタリアを行き来しながら活動を続けた。レオニが絵本を描き始めたのは49歳の頃でかなり遅いデビューだったが、「ニューベリー賞(Newbery Award)」と並んで、アメリカでもっとも権威のある児童文学賞とされる「コールデコット賞(Caldecott Award)」を4度も受賞するなど、絵本作家として独自の世界を築いた。ちなみに、両方ともにアメリカ図書館協会が、毎年アメリカで出版された本のなかから受賞作を選んでいるが、ニューベリー賞は物語を、コールデコット賞はイラストレーションをおもな対象とする。処女作『あおくんときいろちゃん(Little Blue and Little Yellow)』(至光社、1984[原著1959])にまつわる面白いエピソードがある。レオニが孫たちと汽車に乗っていたときの話だ。孫たちが騒ぎ出し、ほかの乗客に迷惑がかかることを心配したレオニは、読んでいた雑誌を切り抜いて即席絵本をつくった。それがデビュー作の『あおくんときいろちゃん』。以後、1999年にこの世を去るまで30作近くの絵本が発表され、日本でもその多くが翻訳出版されている。ネズミやシャクトリムシなど、小さな主人公たちが自分らしく生きる姿や、家族の大事さが温かいストーリーで描かれている。また、グラフィックデザイナーとして培ってきた構成や色彩に対する優れた感覚が存分に発揮されており、子ども向けの絵本とは思えないほど、洗練された、完成度の高い作品が多い。グラフィックデザイナーの福田繁雄は『コーネリアス(Cornelius)』の日本語版に次のような言葉を寄せている。「『コーネリアス』は彼の21冊目の新作で、フロッタージュ(拓本的な技法)と切紙という手法で、切れ味の良い、ゆったりとした画面をつくりあげています。登場する動物たち、空や樹木や草や水などの表現に、常に実験的な新しさが用意されているのには、感心させられてしまいます。このことはレオ・レオニの絵本の重要な魅力のひとつです。印刷技術にいかに、精通しているかということですが、このことは、彼が世界的なグラフックデザイナーであるという経歴から納得させられるというものです。」[金相美]
2012/12/18(火)(SYNK)
シャガールのタピスリー展──二つの才能が織りなすシンフォニー
会期:2012/12/11~2013/01/27
松濤美術館[東京都]
白井晟一が設計した松濤美術館の地階展示室に巨大で鮮やかな色彩のタピスリーが並ぶ。最大の作品《平和》(1993)は、国連本部のステンドグラスのためのマケットをモチーフとして、フランス・サルブール市の依頼でつくられたもので、幅620センチ、高さ410センチある。
シャガール(Marc Chagall, 1887-1985)は60歳を過ぎてから絵画以外に陶器や彫刻、リトグラフなどの作品を手がけるようになり、70歳を過ぎてからはモザイクやステンドグラス、タピスリーなど、モニュメンタルな作品を手がけた。実際には規模の大きな作品は技術的にも体力的にも自ら手がけることは困難で、職人や専門家たちとの共同作業が行なわれた。本展が焦点を当てるのは、シャガールとタピスリー作家イヴェット・コキール=プランス(Yvette Cauquil-Prince, 1928-2005)との協業である。他のモニュメンタルな作品とは異なり、シャガールはタピスリーにはほとんど口を挟まなかったという。理由のひとつには技術的な問題があったようだ。イヴェットのタピスリーの制作方法は、次のようなものである。(1)シャガールの原画を撮影し、原寸大のモノクロームにプリントする(裏から織るために写真は鏡像である)。(2)原画に基づき配色を決定し、使用する色や織りの指示を写真に書き込む。これをカルトン(大下絵)という。(3)経糸(たていと)の下に置かれたカルトンの指示に従い、職人たちがタピスリーを織る。緯糸(よこいと)が織り込まれていった部分は少しずつ巻き取られ、職人の目の前にあるのは常に白い経糸とその下に置かれたモノクロームのカルトンのみ。ひとつの作品が織り上がるまでに小さなものでも数カ月、大きなものでは2年におよぶという。そして、すべてが織り上がって枠から外されたときに、初めて全体が現われる。すなわち、織りの途中で口を挟む余地がないのである。
もちろん、その仕上がりが意に反していたならば両者の関係は続かなかったであろう。シャガールとイヴェットとの出会いは1964年、シャガールが77歳のときである。以来両者は20年にわたって共同作業を続け、シャガールの没後もイヴェットはシャガール作品のタピスリーを作り続けたのは、ふたりのあいだに深い信頼関係があったからにほかならない。展覧会の副題に「二つの才能が織りなすシンフォニー」とあるように、シャガール自身、両者の関係を音楽に例えていた。すなわち、作曲家=シャガールが描いた「楽譜」を指揮者=イヴェットが読み解き、演奏者=職人たちがそれぞれのパートを奏でる。イヴェットのタピスリーはシャガールの原画のたんなる拡大コピーではない。大画面に拡大したときにふさわしい色の組み合わせを選び、必要な色に糸を染め、織り方を考える作業から生まれたのは、またひとつの独立した芸術作品なのである。[新川徳彦]
2012/12/16(日)(SYNK)