artscapeレビュー
西江雅之『異郷──西江雅之の世界』
2012年09月01日号
「顔を洗わず、歯を磨かず、ふろは年に数回しか入らない……汗をかかない、清潔な特異体質」(『朝日新聞』1984年11月3日、朝刊)、「布団を使わず床に寝る」(同2008年10月2日、夕刊)、「エアコンも炊飯器もない」(『読売新聞』2010年9月6日、朝刊)、「毒がなければなんでも食べられる」(同)、「まるで忍者みたいに速く歩く」(『朝日新聞』2008年10月2日、夕刊)、「クリームあんみつ好き」(『読売新聞』2010年9月6日、朝刊)、「『五十カ国語の読み書きができる』『百二十四カ国語が話せる』」(『アエラ』1998年9月28日)……。数々の伝説とともに語られる異色の文化人類学者・西江雅之(1937-)。『異郷──西江雅之の世界』は、20代のはじめにアフリカを縦断して以来半世紀にわたって世界中を旅してきた西江が撮りためた数万点の写真のなかから100余点の写真と、これまでに書かれてきたいくつかのエッセイとを収録した写真集である。本書の刊行と合わせて、5月には写真展も開催された
被写体となっているのは、西江が旅したアフリカ、アラビア、インド洋海域、カリブ海域、パプアニューギニアなどの人々である。展覧会そして写真集に収録された作品を見て少し不思議に感じたのは、カメラと被写体とのあいだの距離感である。作品を見るまでは、もっともっと被写体に近いところにいるのではないかと思い込んでいた。たとえば西江の友人でもあった作家の阿刀田高は「西江はカメレオンのように置かれた環境に染まる。ふつうの物差しで測れない個性で、帰った時にアフリカ人になったように顔つきまでも変わっていて、しばらくしたらまた日本人の顔に戻りました」と語っている 。そうした言葉から受ける印象と西江の写真とははずいぶんと異なる。なぜなのか。西江は自身の写真を少年時代に熱中した昆虫採集の方法になぞらえ、影を掬い取るものと記している。「わたしは路上に立ち、求める対象が気に入った場面の中に姿を現すと、シャッターを切る」。「この本に残されている写真は、ある時、ある場所で、わたしの眼前に現れた事物から掬い採った影なのである」 。こちらから採りに行くのではない。視界に現われるのを待つ。手の届く距離というよりも、採取用の網の届く距離なのだ。旅人でありつつも冷静な観察者であるという複雑な視線と距離感が、その写真のなかに刻まれている。それは旅行者によるスナップでもなく、写真家の作品でもなく、かといって研究者による記録写真ともまた違う独特の表現を生み出している。
本書にはさまざまな地域、さまざまな時代の人々の写真が入り交じって掲載されている。そして写真にキャプションはない。これも不思議に感じた点である。その理由について西江は、程度の差はあれども世界のどの地域においても同様に人々の生活は急速に変化し、写真に残された世界の大部分はすでに失われてしまっているという点で共通しているからであるという。興味深いのは、西江はこの失われた世界を感傷的に惜しんでいるわけではないという点である。人々の生活が変化するのは当然のことである。「消え去らないでほしいなどとは、わたしは考えない。しかし、永遠に消え去ってしまう前にもう一度、この目にその姿を映してみたい」 。写された人々の姿は、失われた世界の記録であるとともに、世界を旅し続ける西江雅之の記憶なのである。[新川徳彦]
2012/07/28(土)(SYNK)