artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』

会期:2011/07/16

シネマライズ[東京都]

バンクシーをめぐる映画。グラフィティ・アーティストの表現活動を映像で記録していた男が、やがて自分でグラフィティを描く主体となり、ついにはミスター・ブレインウォッシュという名のアーティストとしてデビューを果たすという物語だ。夜間のあいだに人知れず実行されるグラフィティの制作現場を記録したという意味では、グラフィティについてのドキュメンタリー映画といえるが、おもしろいのは、バンクシーに憧れ、追従していた男が、バンクシーにそそのかされアーティストとして成り上がっていくプロセスに、アート業界の一端を垣間見ることができるからだ。ミスター・ブレインウォッシュの作品は、映像で見るかぎり、グラフィティとポップアートを安易に融合させた代物で、それ以上でもそれ以下でもない。ところが、それらをメディア戦略によって大々的に宣伝することで、華々しくデビューを果たしてしまうところに、現代アートのいかがわしさが現われている。バンクシーが言うように、「ルールなんか誰も求めていない」のが現代アートの本質なのだ。この映画が巧みであり、ある意味でずる賢いのは、その本質をバンクシーその人によってではなく、その傍らで炙り出しているからだ。ミスター・ブレインウォッシュという道化師の影で見えにくくなっているが、ルール無用の世界で成り上がった当事者はバンクシーその人である。その道化師がアーティストに成り上がったことを受けて、「誰もがアートに関わるべきだと思っていたけど、いまはそう思わない」というバンクシーの言葉は、そのことをみずから告白しているようなものだ。批評の役割は、ミスター・ブレインウォッシュのようにバンクシーに心酔しながら賛辞を送ることではなく、「それでも誰もがアートに関わるべきである」と頑なに主張することである。

2011/08/02(火)(福住廉)

『大鹿村騒動記』

会期:2011/07/16

丸の内TOEI[東京都]

長野県大鹿村で300年の伝統を誇る大鹿歌舞伎をモチーフとした映画。原田芳雄や岸部一徳、大楠道代、石橋蓮司などによる熟練の演技と堅実な脚本のおかげで心から楽しめる娯楽映画になっている。大鹿の山村を舞台に綴られる人情物語はたしかにフィクションだとはいえ、そこには近年のアートプロジェクトなり地域型の国際展が目指しているものが、はからずも巧みに視覚化されていように思われた。プロの歌舞伎役者ではなく、地元住民がみずから役者となり、舞台を動かし、興行を成功させる手作りの歌舞伎公演。それが素人による大衆演芸であることにちがいはない。けれども、見方を変えれば、それは、かつて福田定良(あの鬼海弘雄の師匠!)が東北地方を巡る合唱団「わらび座」に見出した、生活感と人間性を伴った、生き生きとした芸術として考えることもできるのではないだろうか。私たちが何の疑問も持たずに当たり前だと思っている「芸術」が、じつはきわめて偏向した狭い芸術であるということは、鶴見俊輔の「限界芸術論」や福田定良の「大衆芸術論」が明らかにした大きな功績である。「こういう芸術は、芸術家にとっては芸術であっても、地方の民衆にとってはそうではないのです。民衆は芸術の芸術性を評価する前に、芸術が彼らの生活に接触するときに示す明るさ・生気・健康性を感じ取ります」(福田定良「新しい大衆芸術の性格」[『現代人の思想 7:大衆の時代』平凡社、1969])。そして、この映画が生き生きと描き出しているのは、大鹿歌舞伎の芸術としてのすばらしさというより、むしろこの歌舞伎をめぐって繰り広げられる人間の営みの愛おしさや哀しさなのだ。作品が表象する内容の質的な優劣を専門家が判断するものを「都市型の芸術」だとすれば、作品を成立させる条件そのものを地域住民が自分たちの手で高めてゆくものを「地域型の芸術」といえるかもしれない。地域社会で組織されるアートプロジェクトにしろ、瀬戸内や妻有の国際展にしろ、それらが「都市型の芸術」とは異なる芸術を志向していることはまちがいない。けれども、そこに福田定良が見出したような「地域型の芸術」が必ずしも成熟しているといえないのは、それらが依然として芸術家を外部から招聘するという旧来の作法にとらわれているからだ。そうではなく、地域住民自身の自発的かつ主体的な創造行為をこそ、引き出さなくてはならない。『大鹿村騒動記』は「地域型の芸術」のモデルとして評価できる。

2011/08/01(月)(福住廉)

堂島リバービエンナーレ2011「Ecosophia─アートと建築」

会期:2011/07/23~2011/08/21

堂島リバーフォーラム[大阪府]

哲学者のフェリックス・ガタリが提唱した「エコゾフィー」という概念に基づき、美術家と建築家がコラボレーションを行なった本展。まずは肝心の「エコゾフィー」を理解するのが筋だが、なまかじりでは敵わないことがわかり、早々に降参して会場へと出かけた。美術家と建築家のコラボにもさまざまなかたちがあり、巨大な構築物をつくり上げた展示も見られたが、私自身は建築家が前に出ない展示の方が相性がよかった(例えば、大庭大介さんの展示)。展示は、アニッシュ・カプーアの建築模型のような立体を中心に、地圏、水圏、空圏の3ゾーンが緩やかに連続する形態だったが、3圏の違いや役割についてはあえて明確にしておらず、私自身の「エコゾフィー」への理解不足もあって曖昧な印象がぬぐい切れなかった。ただ、大阪ではこの手の大規模な現代美術展が少なく、しかも美術家と建築家とのコラボなど皆無の状況なので、本展の開催自体は大いに歓迎である。

2011/07/22(金)(小吹隆文)

モホイ=ナジ/イン・モーション

会期:2011/07/20~2011/09/04

京都国立近代美術館[京都府]

モホイ=ナジといえば、バウハウスの教師であり、写真やコラージュの作品が有名。その程度の認識しかなかった私にとって、本展は今までの認識を一新させてくれる目の覚めるような企画だった。彼はその流浪の生涯のなかで、写真はもとより、絵画、彫刻、グラフィック・デザイン、映画、舞台美術と、まさに八面六臂の大活躍。元祖マルチアーティストというだけでなく、コミュニケーションを重視するという点で現代アートの先駆者とも呼べる人物だったのだ。もしモホイ=ナジが現代に生きていたら、デジタル機器を用いてどんな表現を見せてくれただろうか。また、モダニストだった彼には、ポストモダン以降の世界がどう映ったのだろうか。作品を見ながらそんな夢想がどんどん広がっていった。

2011/07/19(火)(小吹隆文)

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トランスフォーマー3

IMAX Theatre[オーストラリア]

imaxの映画館で『トランスフォーマー3』を鑑賞。クライマックスとなるシカゴの破壊シーンはすさまじい。3DのCGを見せるために、最後は呆れるくらい、長時間にわたって戦闘の場面が続く。主人公とガールフレンドがこれだけサバイバルして、たいした怪我をしないとは、リアルの設定が違う。修羅場は複数の登場人物に割り当てたほうが納得できる。脚本のバランスは悪い。CGの廃墟もよくデザインされているが、やはり本物の廃墟の方が圧倒的に複雑で無様であり、それゆえにときには驚くべき風景が生まれる。

2011/07/08(金)(五十嵐太郎)