artscapeレビュー
映像に関するレビュー/プレビュー
アンチクライスト
会期:2011/02/26
ヒューマントラストシネマ有楽町[東京都]
タイトルが示しているように、この映画は天国に昇天する話ではなく、地獄に落ちる話である。登場人物は、セックスに明け暮れている最中に、愛する幼子を事故で失ってしまった夫婦。悔やんでも悔やみきれない悔恨から精神を病んでしまった妻(シャルロット・ゲンズブール)を、精神科医の夫(ウィレム・デフォー)がなんとかして快復させようと孤軍奮闘する物語だ。ハイスピードカメラを多用した映像美と重厚で荘厳な音楽、さらにデヴィッド・リンチを彷彿させる山と森、暗闇といったモチーフが、映画の深度を効果的に深めている。たった2人によって繰り広げられる物語の悲劇的な展開を見ていると、底なしの深い沼に引きずり込まれるような恐怖を覚えるほどだ。とりわけ、映画の随所に仕掛けられた謎めいたメタファーは鑑賞者の眼を幾度もかどわすが、これを真正面から受け止めてしまうと、地獄の底から抜け出せなくなってしまう。なぜなら明快な解答は最初から用意されていないからだ。いったい何を暗示しているのかをつまびらかにすることなく、暗喩や寓意を画面に仕込む手法は、一部の現代アートにも見られる、芸術のもっとも性悪な一面である。見る者をうまい具合に煙に巻くことが、作品に高尚で深遠な価値を与えるといった思い込みは、依然として根強い。こうした地獄のスパイラルを打ち破るには、いくつかの方法が考えられるが、もっとも効果的なのは、それを丸ごと笑い飛ばす身ぶりである。悲劇を喜劇へ、難解な芸術を滑稽な芸術へ読み換えること。ラース・ファン・トリアー監督による本作でいえば、激怒した妻が夫の脚にドリルで穴を穿ち、そこに重たい砥石をネジ付けしてしまうシーンは、格好の手がかりとなるにちがいない。固く締めつけられたナットを外そうとして隠されたスパナを這いつくばって探し出す夫の姿は、涙なくして見ることはできない。おお、なんという悲喜劇!
2011/03/02(水)(福住廉)
悪魔を見た
会期:2011/02/26
丸の内ルーブル[東京都]
復讐は可能か。打ち振るわれた暴力に相応する暴力を敵に打ち返すことはできるのか。しかも、新たな苦しみと哀しみを生むことなく、復讐の応酬に終わりを告げるかたちで。キム・ジウン監督による本作は、この人間にとって根源的な問いを突き詰めた意欲作。しかし、この映画はその野心を実現させるには少々詰めが甘すぎた。殺人鬼を演じたチェ・ミンシクの演技は文字どおり鬼気迫るもので見応えがあるし、この猟奇犯に妻を惨殺された主人公のイ・ビョンホンが一気に復讐を果たすのではなく、GPSを内臓したカプセルを殺人犯に服用させ、監視と追跡を続けながら、悪事を働かせようとするたびにそれを暴力的に阻害するという復讐のかたちは、たしかに一理ある。しかし、主人公の捜査官と妻の関係が十分に描写されないまま妻が惨殺されてしまうので、残虐非道な描写に嫌悪感が募ることはあっても、この悲劇に感情移入することがまったくできない。2時間を超える全体の尺も長すぎで、編集も甘い。イ・ビョンホンの演技もいつもと同じだし、後半のカーチェイスのシーンはまるで「アイリス」のようだ。細部の綻びが、映画が志す構想を台無しにしてしまっているのである。綻びを修繕することができていれば、復讐は決して可能ではないことの哀しみを象徴的に描いたラストシーンも、今以上に効果的だったはずだ。
2011/03/01(火)(福住廉)
林勇気 展 あること being/something
会期:2011/02/18~2011/03/19
兵庫県立美術館[兵庫県]
兵庫県立美術館が、注目作家の紹介を目的に新たに始めた企画展「チャンネル」。その第1弾として、林勇気の個展が行なわれている。出品作品は、新作《あること》と、旧作5点。見どころはやはり新作で、天地6メートル以上、左右10メートル以上の大スクリーンに投影される映像大作となった。本作の特徴は、作中に登場する人物や素材の一般公募が行なわれたこと。延べ121人から集められたスチール画像は林の手で編集され、巨大スクリーン上で浮遊しながらゆっくりと上昇して行く。画面を見つめていると、まるで自分が世界そのものと対峙しているような気持ちになった。本作は、デジタル技術の進化により従来とは異なる質と形態でコミュニティーが構築されるようになった今日の世界観をビジュアライズしたものかもしれない。豊かな才能を持つ作家に活躍の場を与えるという美術館の狙いは、1回目から見事に的中した。
2011/02/18(金)(小吹隆文)
愛する人
会期:2011/01/15~2011/02/25
TOHOシネマズシャンテ[東京都]
「孤独と悔恨」。誰もが生きていくうえで必ず身につまされる厄介な代物だ。それらを克服するには「忘れる」か「強がる」か、あるいは「祈る」ことなどが考えられるが、どうあがいたところで「なかった」ことになるわけではないから、どっちにしろ人はそれらを心の底に折り畳みながら何とかやっていくしかない。この映画は、若くして産み落とした娘を養子に出してしまった悔恨にいまも苛まれる母と、その母に捨てられた孤独を胸に秘めて強くたくましく生きてきた娘が、30数年の後、それぞれのやり方で互いを探し出そうとする物語。両者の物語とは別に、もうひとつの物語を同時に描きながら、それらを一気にまとめあげていく脚本がよくできているし、何よりアネット・ベニングとナオミ・ワッツの演技がとてつもなくすばらしい。物語の設定から言えば、たしかに特殊な条件における悲劇なのかもしれない。けれども、この映画の醍醐味が私たち凡庸な観覧者のもとにしっかり届くのは、悲惨な境遇を哀れむ同情に由来しているからではなく、この母娘を演じた2人がともに不器用な人間、いや正確に言い換えれば、人間の不器用さを見事に体現しているからだろう。孤独と悔恨に苛まれる人は、他者との適度な距離を保つために身の回りに壁を打ち立てるほかない。そうやって囲い込んで孤独と悔恨を飼い慣らさなければ、自分が内側から食い破られてしまうからだ。自分で自分の首を絞めるかのような不器用さには、きっと誰もが思い当たる節があるにちがいない。
2011/02/14(月)(福住廉)
ソウル・キッチン
会期:2011/01/22~2011/03/04
シネマライズ[東京都]
料理人のサクセス・ストーリーではない。何を隠そう、これはオルタナティヴ・スペースについての映画である。しかも、飛び切り上等な傑作だ。舞台はハンブルク。古い倉庫を自分たちで改築した大衆的なレストランが買収の危機に瀕するが、これを何とかして阻止するという物語の骨格はいたって単純明快。けれども、ここに保健所や税務署といった面倒な行政の問題や生々しい移民問題、そして弱みにつけこんでまで乗っ取りを図る貪欲な資本主義などが肉づけされることで物語の厚みが増し、さらに良質のソウル・ミュージックが次から次へと淀みなく流れてくるおかげで、映画の旨みがよりいっそう味わい深くなっている。美人で大酒呑みで画家志望のスクワッターや子持ちのバンドマン、さすらいの料理人、あこぎな不動産屋、恐るべき税務署員、そしてダメ兄貴など、それぞれキャラ立ちした登場人物たちもたまらない。まるで落語を聴いているかのような心地よさを覚える。人生において大切なのは、みんなで分け合える旨い料理とみんなで踊ることができるソウルフルな音楽、それらに欠かせない大量の酒、そして恋愛とセックス(さらに少々の媚薬とちょっとした違法行為)。ファティ・アキン監督がこの映画で描いているのは、それらを自分たちの手でなんとか確保しようと四苦八苦する人びとのありようである。だから、この映画を見ると、助成金をあてにしなくても、知恵を絞って力を集めてなんとかすれば、自分たちのオルタナティヴ・スペースを手にすることができるのではないかという元気がもらえるはずだ。ただし、注意しなければならないのは、この映画には美術が一切登場しないということ。音楽はあるが、絵画はないし、彫刻もない。映像すら出てこない。オルタナティヴ・スペースはアートを必要としているのだろうか。いや、もっと厳密に言えば、社会はアートを必要としているのだろうか。あるいはアートがなくても、人は幸福になれるのだろうか。これは、今も昔もさほど変わらない、つまり今も考えるに値する、根源的な問いである。
2011/02/08(火)(福住廉)