artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

小谷真輔「無重力サーキット」

会期:2011/04/12~2011/05/07

MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/w[京都府]

自身の内面に宿る妄想的世界を描いてきた小谷だが、元々は映像作品でキャリアをスタートさせたのだという。ということは、映像とインスタレーションと絵画をミックスした本展の構成は、彼にとってバック・トゥ・ルーツ的な意味合いがあるのかもしれない。映像は、カラフルな影絵のような作品と、飼い猫を撮った2点。その周囲に映像の世界から抜け出してきたようなインスタレーションが施され、壁面には絵画が展示されている。室内の照明は落とされており、絵画は備え付けのペンライトを使って見ることになる。また、ペンライトでインスタレーションを照らすと映像作品と相似のシチュエーションを再現することもできる。ある意味、本展は、彼の絵画世界を3次元に拡張したものと言える。身体ごと作家の脳内にダイブしたような気分になれる、ユニークな個展だった。

2011/04/12(火)(小吹隆文)

わたしを離さないで

会期:2011/03/26

Bunkamura ル・シネマ[東京都]

自らに課せられた宿命を静かに受け入れること。あるいは、無常の風に逆らうことなく、儚い諦念とともに理不尽な死を迎え入れること。沢木耕太郎が的確に指摘したように、本作は英米映画であるにもかかわらず、じつに日本的な印象を感じさせる映画である。臓器移植やクローン技術といったテーマが物語に独特の緊張感を与えているが、登場人物の若者たちは不当な運命に抗うこともないまま、物語は淡々と進行する。その静かな佇まいは、一見するとあまりにも非人間的な身ぶりに見えなくもないが、しかしキャリー・マリガン演じる主人公が好意を寄せる幼馴染の男を親友に横取りされるなど、甚だ人間臭いドラマがないわけではない。けれども、それにしても親友から男を奪い返すことはなく、ただひたすらじっと耐えるだけなのである。抵抗や闘争、あるいは反逆の欠如。すべてを受容する寛容性と困難を耐え忍ぶ忍苦の精神。このような「日本的」とされがちな特質は、欧米の風土からすれば奇特な美しさに見えるのかもしれない。しかし、現在まさに原発の危機に襲われている当事者の視点から見ると、多少の苛立ちを覚えないでもない。不幸の要因を宿命に帰着させたところで、状況は少しも改善しないばかりか、むしろ決定的な破滅を招き寄せかねないことは明らかだからだ。この映画の若者たちも運命に抗わないわけではない。ただし、一抹の希望があっけなく途絶えてしまうと、それ以上の抵抗を展開することはなく、ただ悲痛な絶叫を繰り返すだけなのだ。ほんとうに悲しいのは、抵抗の身ぶりや拒否の意思を自ら内側に封じ込めてしまうことである。これを「美しい」なんて言うな。

2011/04/05(火)(福住廉)

鎮西尚一『ring my bells』

会期:2011/03/19~2011/03/25

ポレポレ東中野[東京都]

いま執筆の時点でぼくの鎮西体験は『パンツの穴 キラキラ星みつけた』と『パチンカー奈美』に本作を含めて3本、これらのわずかな判断材料からほとんど当てずっぽうで言うのだが、鎮西作品の本質はミュージカル映画にあるのではないか。『パンツの穴』はまさしくミュージカル映画で、ジャック・ドゥミみたいに野外で登場人物が突然唄いだす。『パチンカー奈美』はミュージカル映画ではないにしても、ある1曲が主人公のギャンブル運を支えるというように、音楽的要素が物語を動かす。なによりミュージカル映画の潜在的な力は「ミュージカルをつくるミュージカル」といった自己反省性にあるはずで、本作『ring my bells』はまさに「音楽をつくる音楽の映画」だ。物語は、男2人が山深い公演で曲を作り、リハーサルを繰り返すなか、図書館司書である幼なじみの女の子が男たちの1人とつきあったり、図書館に毎日やって来る老人と遊んだり、場を揺らす。core of bellsのメンバー2人が出演し、主人公の女の子と唄う彼らの奇怪なレパートリーは重要な要素になっている。幼なじみというだけで、彼らの音楽がさっぱりわからない女の子は、わからないけど歌を口ずさむことで、2人とつながる。core of bellsの強さは「歌」にある。本作はその歌の力を引き出そうとしていた。それに本作では酒もつながりを誘発するアイテム。男2人は山で酒を密造し、女の子は味もわからず老人に勧める。ひとを一瞬でつなぐ歌と酒。そのつなぐ力で物語を転がす分、転がらない状況の持つ可能性へと逸脱することはなかった。そのあたり、同じくcore of bellsとのコラボレーションで映像作品を制作した小林耕平と対照的でもあった。

青春H「ring my bell ~リングマイベル~」

2011/03/25(金)(木村覚)

GONZO─ならず者ジャーナリスト、ハンター・S・トンプソンのすべて─

会期:2011/02/19

新宿シネマート[東京都]

「ニュー・ジャーナリズム」のトム・ウルフによって「ゴンゾ・ジャーナリズム」と称されたハンター・S・トンプソンのドキュメンタリー映画。対象との一定の距離を保ち、客観的な報道を心がける正統的なジャーナリズムとは対照的に、トンプソンが成し遂げたのは対象の只中にみずから没入して内側から記述する方法だった。暴走族に参加したり、保安官の選挙に立候補したり、トンプソンの「ジャーナリスト」らしからぬ履歴は、たしかにおもしろい。ただ、トンプソンについてのドキュメンタリー映画であれば、当然そのようなゴンゾの方法を踏襲するのかと思いきや、ドキュメンタリー映画としてはいたって中庸なところが残念といえば残念だ。疾走するバイクに同伴するかのようなスピード感あふれる編集は近頃のドキュメンタリー映画の定番と化しているし、とくに緩急も抑揚も工夫されていないから、逆に愚鈍な印象を覚えてしまう。むしろ注目したのは、トンプソンが攻撃的に批判の矛先を向けた当人たちがインタビューに応えていたこと。これは、このドキュメンタリー映画の成果というより、むしろアメリカの政治家の懐の深さを物語っているが、ひいては「ジャーナリズム」を育む土壌のちがいをも暗示していた。ゴンゾをおもしろがる風土がやせ細っていくと、おそらく世界はますます退屈になってゆくにちがいない。

2011/03/07(月)(福住廉)

風穴 もうひとつのコンセプチュアリズム、アジアから

会期:2011/03/08~2011/06/05

国立国際美術館[大阪府]

西洋美術史の文脈とは異なる視点から、現代の日本やアジアで活動するコンセプチュアルな作風のアーティストたちをピックアップした展覧会。1960年代から関西を拠点に活動しているプレイ、ダンスとも喧嘩ともつかないパフォーマンスで知られるcontact Gonzoをはじめ、島袋道浩、木村友紀、ヤン・ヘギュ、ディン・Q・レーら9組の作家が紹介された。どの作品にも、かつてのコンセプチュアル・アートにありがちな上から目線の難解さや近寄り難さは感じられない。むしろわれわれと同じ目線、同じ言葉で語りかけてくるので、スムーズに作品の世界へと入っていけるのだ。担当学芸員は本展を読み解くキーワードとして、スピードの遅さ、ローカリティー、日常との緩やかなつながり、を挙げていた。とても風変わりな企画展だが、本展のような機会が増えれば、現代アート展は今までよりずっと身近なものになるだろう。

2011/03/07(月)(小吹隆文)

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