artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

プレビュー:ミラル

会期:2011/08/06

ユーロスペース[東京都]

ジュリアン・シュナーベルがパレスティナの歴史を綴った映画。1948年から1994年までの46年間にわたる激動の歴史を、孤児院を中心にして叙事詩のように物語る。殺戮の応酬という血塗られた歴史であることはたしかだが、この映画の特徴は、それを男性の視点からではなく、すべて女性の視点から描いていることだ。闘争する男性を尻目に戦災孤児を受け入れる活動に邁進する女性、逆に止むにやまれずインティファーダへ身を投じてゆく女性、あるいは継父からの性的虐待から逃れるも、その傷が癒えぬまま死を選ぶ女性。時系列に沿いながらも、それぞれの時代を4人の女性の人生から物語る構成だから、抽象的で一般的な歴史としてではなく、あくまでも個人が介在した具体的な歴史としてパレスティナの歴史を理解することができるわけだ。だからこそ、他者を傷つけ、あるいは傷つけられながら、歴史に翻弄され、あるいは歴史をつくり上げていく人びとの痛みや怒り、苦しみが深く伝わってくるのである。歴史とは、切れば血が出る生身の肉体にもとづいた物語であることを、この映画はみごとに体現している。

2011/07/08(金)(福住廉)

BIUTIFUL ビューティフル

会期:2011/06/25

ヒューマントラストシネマ渋谷[東京都]

残された人生の時間をいかに生きるのか。あるいは生きようと努めるのか。若者であれ老人であれ、人生が有限であるかぎり、これは誰にとっても妥当する普遍的な問いである。本作は、末期がんに侵された男が、この自問自答を繰り返しながら、やがて死を迎え入れるまでを描いた物語。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督にとっては十八番ともいえる「生と死」をテーマとした映画だ。バルセロナの下町を舞台に、闇の仕事によって2人の子どもを養う男が次第に追い詰められてゆく様子は痛々しく、とてもやり切れない。離婚した妻やアフリカ系・中国系移民との神経をすり減らすようなやりとりも、その切迫感を倍増させている。ただその一方で、この映画は「死」に向かう恐怖より、むしろ「死」を受け入れる受動性に重点が置かれているせいか、圧迫されるにしても、その先に抜ける道が用意されることも事実だ。たとえば主人公の男は霊媒師として死者の霊の声を代弁したり、死者の魂を目撃することができたりと、ある種の霊能力に恵まれているという設定で描かれているが、この仕掛けによって、死に向かって残酷に進む「生」の時間を描きながらも、目に見えない「死」の空間を巧みに視覚化しているのである。それゆえ、主人公の男にとって、死はわが子との別れであると同時に、かつて若くして亡くなった父との再会でもあった。この世とあの世の境界がさほど明確ではなく、双方が互いに入り組んだ世界観。それが、現実の重い足かせをひとまず外してくれるように思わせるところに、今日的なリアリティーがあるような気がした。

2011/07/06(水)(福住廉)

映画『テンペスト』

会期:2011/06/11

テアトル梅田ほか[大阪府]

ウィリアム・シェイクスピアの最後の戯曲といわれる『テンペスト』。筆者が記憶するだけでも二回映画化されている。デレク・ジャーマン監督の『テンペスト』(1979)とピーター・グリーナウェイ監督の『プロスペローの本』(1991)。上記の二作は、監督の知名度もあって話題になったもので、映画化された作品はもっとあるはずだ。文学作品の映画化はそれほど珍しいことでもないが、400年も前の作品が繰り返し映画化されるにはそれなりの理由があるだろう。ジュリー・テイモアがメガホンをとった、今回の『テンペスト』は、主人公のプロスペロー(ヘレン・ミレン扮)を女性に変えたこと以外、粗筋から台詞に至るまで原作(原文)に忠実である。シェイクスピア戯曲独特の台詞を(現代人にとっては冗長かもしれない)、観客は延々と聞かされる。もちろんそこには言葉の美しさや、時代を超え人間の本質を暴く鋭さがある。だが、それはあくまでもシェイクスピアの力量であり、戯曲の魅力である。映画としての『テンペスト』は、空気の妖精エアリエルの表現など、CGを駆使したファンタジックな映像作りが試みられたものの、映画という媒体の特性が十分に活かされているかについて疑問が残る作品だ。アカデミー賞の衣装デザイン賞にノミネートされるだけあって、ゴージャスな衣装は見応えあり。[金相美]
図版クレジット=テンペスト �2010 Touchstone Pictures

2011/07/03(日)(SYNK)

メタルヘッド

会期:2011/06/25

シアターN渋谷[東京都]

芸術の本質とは何か。そのひとつが常識的な基準を超越する非日常的な価値にあるとすれば、本作で描かれているヘヴィメタ野郎、ヘッシャーはまちがいなくアーティストである。破天荒な風来坊、もっと平たくいえば、かなりヤバいやつ。主人公の少年の自宅に突然押しかけて居座るばかりか、家族のデリケートな問題にズカズカと入り込み、挙句の果てに少年を車で跳ね飛ばしてゲラゲラ笑うありさまには、悪魔とスレスレの魅力があふれている。その怪しい魅力を存分に描きながらも、同時にその背後に魂の喪失感や虚無感をあぶり出し、それを子どもであろうと大人であろうと、男であろうと女であろうと、本作の登場人物たちに共通する精神的な痛みとして示しているところに、本作ならではの大きな特徴がある。あるいは、へヴィメタルというジャンルには、そうした二重性が本来的に備わっているのかもしれないが、仮にそうだしても、やはりそこにこそ芸術という価値を与えるべきである。なぜなら、登場人物たちが内側に抱えている暗い喪失感は、いま私たちがその取り扱いに苦慮している痛みとまちがいなく通底しているからだ。同時代のアートとして評価するべき映画である。

2011/06/29(水)(福住廉)

アリス・クリードの失踪

会期:2011/06/11

ヒューマントラストシネマ有楽町[東京都]

たった3人しか登場しないクライム・サスペンス。誘拐犯の男2人組みと、誘拐された女が、それぞれを騙し、騙されながら二転三転する物語の展開がたいへん小気味よい。映画というより戯曲の印象が強いという点では、タランティーノの映画『レザボア・ドッグス』というべきか、あるいは3人だけの応酬で物語を綴るという点では、中江兆民の『三酔人経論問答』というべきか。いずれにせよ、三人寄れば文殊の知恵というわけではないが、少なくとも3人そろえば世界は成立するのではないかと思わせるほど、よくできた物語映画である。

2011/06/29(水)(福住廉)