2020年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

屋根裏ハイツ『ここは出口ではない』

会期:2020/07/23~2020/08/02

こまばアゴラ劇場[東京都]

『ここは出口ではない』は仙台を中心に活動をしてきた屋根裏ハイツが関東圏の観客にその名前を広く知られるきっかけとなった作品のひとつ。2019年には京都の劇場・人間座が主催する田畑実戯曲賞を受賞しており、カンパニーの代表作と言えるだろう。今回は同じく代表作である『とおくはちかい』とともに「再建設ツアー」(=再演ツアー)として東京公演を終え、9月18日からは仙台公演が予定されている。

舞台はヤマイ(佐藤駿)とシホ(宮川紗絵)の二人が同棲しているらしいアパートの一室。コンビニから帰ってきたヤマイはコンビニが「やってなくって」と不可解なことを口にする。夕飯に適当なものを探していると二人の共通の知り合いであるヨウちゃん(村岡佳奈)の葬式の香典返しにもらった海苔の佃煮が出てくるが、ヤマイは葬式に行ったことを覚えていない。ヨウちゃんの思い出話をしているうちに、部屋にはいつしかヨウちゃんその人がいる。二人はそれをなんとなく受け入れ、そのままビールを飲み始める。途中、ビールが切れ、ヤマイがコンビニに買い出しに出るが、今度は街の電気も消えてしまっていて、「帰れなくなったんだって」と見知らぬ男・マエダ(瀧腰教寛)を連れて戻ってくる。とりとめもない話をする四人。やがて夜が明け、ヨウちゃんとマエダは「自分の家」に帰ると部屋を去っていく。

[撮影:本藤太郎]

今回の再演は2018年の初演を踏襲したものだが、新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、シホ役の宮川がタブレット端末とビデオ通話アプリを使ってのリモート出演となっている。アパートの一室でのなんということのない会話が続くこの作品において、このような出演形態の変更は作品全体の骨格には影響を及ぼすことはなく、基本的には初演と同様の会話が舞台上では展開されていた。しかし、俳優ひとり、登場人物ひとりの身体が舞台上に不在であることはこの作品に漂う死の気配を際立たせ、初演では生と死のあわいに危うく釣り合っていた天秤を死の側に大きく傾かせることになった。

そもそもヤマイからはどこか「生きている」感覚の薄さのようなものが漂っていた。行ったはずのヨウちゃんの葬式のことは忘れてしまい、それどころか自分がさっきコンビニに行ったことさえ不確かなヤマイは、どこか上の空でそこにいる。ヨウちゃんがヤマイの部屋に現われたのも、その場におけるヤマイの生が希薄だからであり、生と死のあいだにあるはずの敷居が下がっているからなのだ、と言いたくなる。初演ではヤマイと同棲するシホが生者の世界への錨(いかり)のような役割を果たしていたが、その彼女が画面の向こうに「いってしまった」再演ではヤマイの生はますます希薄だ。

[撮影:本藤太郎]

そのようなヤマイのあり方は観客とも無関係ではなく、その足元の危うさを暴き出す。ヤマイは、あるいはヤマイを演じる佐藤は、客席の物音にさえ敏感に反応を示してみせる。私の見ていた限りではほかの俳優が客席の物音に反応している様子はなく、その聞こえないはずの物音はヤマイ=佐藤にだけ聞こえていることになる。ここでもまたあるはずの境界が揺らいでいる。上の空に生きるヤマイ=佐藤は、だからこそ自らの世界と接するまた別の世界──ヨウちゃんやマエダのいる、コンビニや駅がやっていない世界、あるいは観客のいる世界と交流することができるのだ。

観客もまたヤマイと同じようにしてヤマイのいる世界から何かを受け取っている。防音が完全とは言えないこまばアゴラ劇場の客席には、電車の音やセミの声が入り込んでいた。それらを確かに耳にしながら、しかしそのとき私が確かな実感を持って受け取っていたのは、舞台上で発せられる、登場人物たちの声ではなかったか。屋根裏ハイツの舞台ではごく小さな声で言葉が発せられる。それは彼らが小さな声に(それは物理的な小ささに限定されない)耳を傾けることに、そのような場をつくり上げることに注力しているからだろう。小さな声は、そこら中にあふれている。

予定されていた京都公演は新型コロナウイルスの影響で中止となってしまったが、東京公演は映像が販売されている。映像編集は劇作家・演出家の宮崎玲奈。『とおくはちかい(reprise)』の映像(映像編集:小森はるか)とともに10月末まで視聴可能だ。


公式サイト:https://yaneuraheights.net/
中村大地インタビュー(passket):https://magazine.passket.net/interview/2020/07/22/yaneura-heights-interview/

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屋根裏ハイツ『とおくはちかい(reprise)』| 山﨑健太:artscapeレビュー(2020年09月01日号)
屋根裏ハイツ B2F 演劇公演『寝床』| 山﨑健太:artscapeレビュー(2019年11月01日号)

2020/07/30(木)(山﨑健太)

はらぺこ満月『書簡観光』

会期:2020/07/23~2021/07/22

「お元気ですか? こちらはなんとか元気に暮しています」。郵便受けに見つけた葉書にはそう記されていた。差出人の名はなく、そのような葉書を受け取る心当たりもない。表面には渋谷の写真。そこはたしかに渋谷なのだが、ここ数年の再開発の結果、街並みは私の見慣れたそれとは大きく変わってしまっている。写真がモノクロであることも、そこをどこか見知らぬ街のように見せていた。

はらぺこ満月『書簡観光』は50通の葉書による1年間のツアープロジェクト。送られてくる葉書の片面には写真が、もう一方の面には言葉やQRコードなどが記されているらしい。一通目の葉書には、しばらく東京から出ることが叶いそうにないという「私」が「この都市の中を1年かけて気ままに旅することにし」たという近況報告(?)とともにその「旅のブログ」にアクセスするためのQRコードが記されている。

「旅のブログ」にアクセスしてみると、そこにはどうやら渋谷を観光しているらしい「私」の日記が置かれている。日々更新されるそれは、そこに記された天気から判断するにリアルタイムで書かれているもののようだ。なかには渋谷を写した写真や動画が付されているものもある。

しかし、この「旅のブログ」にアクセスできるのは「次の葉書の投函日24時まで」のことで、「期限になると、はじめから何もなかったかのようにコンテンツは消えてしま」うらしい。私の手元には葉書だけが残る。QRコードからアクセスできるのはブログとは限らず「読み物や映像、音声、またある時には……とコンテンツの形は様々」とのことだが、50通もの葉書を受け取り1年が経つ頃には、私はその多くを忘れているだろうという気もしている。50通の葉書をよすがに、私が振り返るその1年はしかし、実際に体験した1年とは大なり小なり異なるものとして思い出される。

『書簡観光』の葉書が投函されるのは2020年7月23日から2021年7月22日の1年間。現時点で延期された東京オリンピックの開会式は2021年7月23日に予定されており、『書簡観光』の1年は東京オリンピックが延期となったために生じる空白の1年とおおよそ重なっていることになる。だが、果たして東京オリンピックは本当に開催することができるのだろうか。

本来であれば、この原稿が書かれている2020年の7月末はすでに東京オリンピックが開催中だったはずだ。1年前には想像もしなかった世界を私は生きている。1年後には改めて東京オリンピックが開催されることになっているが、政府の対応を見るに、東京オリンピックが中止になる可能性も十分にあるように私には思われる。万が一(よりはそうなる確率は高いと思われるが)東京オリンピックが中止になった場合、私がこれから過ごす1年の意味合いは、その時点から遡って塗り替えられることになるだろう。

どこか別の世界から不意に紛れ込んだような葉書は、どこか別の世界に紛れ込んでしまったように感じている今の私の漠然とした不安と共振する。たしかな「いま」の手触りを持ったブログも1年後に読み返すことは叶わず、そのとき、どのような世界が訪れているかは誰にもわからない。モノクロの渋谷の街並みは、私の目にどのように映るだろうか。

『書簡観光』は途中からの参加も受け付けている。届かなかった葉書に思いを馳せるのもこの「上演」にはふさわしい鑑賞のあり方かもしれない。


公式サイト:https://harapeko-fullmoon.com/

2020/07/29(水)(山﨑健太)

紙カンパニーproject『悪霊』

会期:2020/06/13~2020/06/14

無人(島)プロダクション[東京都]

紙カンパニーprojectという団体がドストエフスキーの『悪霊』を上演していたことを知ったのはその公演期間が終わったあとだった。Twitterで見かけた知人の感想に興味を惹かれ、今回の公演を見逃したことを残念に思いつつ、次回は見逃すまいと紙カンパニーprojectのTwitterアカウントをフォローした。その後に公開された舞台写真やティーザーも次回公演への期待を高めるのに十分な役割を果たした。『悪霊』が実際には上演されていなかったことを私が知るのはそれからおよそ1カ月後のことになる。

紙カンパニーprojectは「実際にはやっていない演劇公演の周辺情報の偽造」を「事業内容」とするプロジェクト。「やってもいない公演と、やりはしたが観られないままもう終わってしまった公演はアーカイブだけ見比べたら同じことになってしまうのかそうでもないのか」という問いを掲げ「作品をロックダウンし、中身を想像する状況を作り出すことで新しい舞台鑑賞の形態を探り出す」ことを基本方針としている。

急いで付け加えておくならば、このような「事業内容」はあらかじめ公式サイトのトップページに記されていた。つまり、本当に公演が行なわれたのだと誤認させることはこのプロジェクトの第一義ではない。私の勘違いは、すでに公演が終わったものと詳細を確認しなかったために生じたものだ。

基本方針に含まれる「ロックダウン」という言葉が示唆するように、紙カンパニーprojectはコロナ禍における舞台芸術のあり方を考えるなかから生まれてきたものだろう。だが、コロナ禍でなくとも、それを劇場で見ることが叶わなかった観客にとって、ある公演の「実在」は周辺情報によって間接的に保証されるものでしかない。

この数カ月、無観客の劇場で舞台を上演し、その映像を配信する試みがいくつも行なわれてきた。では、映像さえあればその舞台の「実在」は保証されるだろうか。だが、映画で使われるCGの精度はいまや現実と見分けのつかないレベルに達している。現実世界においてさえ、「ディープフェイク」と呼ばれる高度なCG技術を用いたフェイクニュースが登場してきている。もはや映像は「実在」の保証とはなりがたい。

いや、高度なCG技術などなくとも、断片的で不確かな情報が拡散することでも「不在の中心」は簡単に「実体」をまとう。『悪霊』が実際に上演されたものと私が思い込んでしまったのもTwitterのタイムラインに並んだいくつかの情報だけを見ていたからだった。紙カンパニーprojectのTwitterアカウントに「事業内容」の記載はなく、その意味では私の「誤認」もプロジェクトメンバーの目論見のうちだろう。

『悪霊』は「架空の政治団体の代表を名乗る男が、自ら組織した秘密結社の中で引き起こした」実際の事件を元に書かれた小説なのだという。フィクションが現実に働きかけ、その現実が新たなフィクションを生むこと。

紙カンパニーprojectのTwitterアカウントには長谷川厄之助なる人物による新聞評までアップされている。「空っぽの中心の周囲で、登場人物たちが汗をかきながら狂奔する様を見ていると、ないはずの中心からなんとも言えない不思議な色気が匂いたってくる」。それは『悪霊』への評であると同時に、紙カンパニーprojectの活動そのものへの評でもある。評は「色気の正体は、ただの虚空であることを私たちは改めて認識すべきなのだ」と締められる。だがもちろん、演劇とはそういうものなのだ。

演劇を「そこにはないものをある/いることにする」営みだとするならば、紙カンパニーprojectの企みは、『悪霊』が上演されていなかったとしても/だからこそ、十分に演劇の要件を満たしている。それが上演などされていないことを知りながらTwitterに『悪霊』の感想を書き込んでいた私の知人たちも「俳優」として自主的に観客の役割を演じていたのだ。では私は?

『悪霊』が実際に上演され(それを見逃し)たと思い込んでいた私にとって、『悪霊』の公演は現実以外の何物でもなかった。『悪霊』の上演を見逃した(と思い込んでいた)私は「実在しない公演を実在したことにする」という紙カンパニーprojectの本来の「上演」もまた見逃していた。私は二重の意味で「観客」たり得なかったというわけだ。


公式サイト:https://kamicompanyproject.tumblr.com/
『悪霊』の記録(完全版):https://kami-akuryo.tumblr.com/

2020/07/28(火)(山﨑健太)

屋根裏ハイツ『とおくはちかい(reprise)』

会期:2020/07/23~2020/08/02

こまばアゴラ劇場[東京都]

屋根裏ハイツ『とおくはちかい』(作・演出:中村大地)が「reprise」と冠しての全編改訂版として再演された。『とおくはちかい』は仙台を中心に活動してきた屋根裏ハイツが首都圏で上演した最初の作品。この作品で注目を集めた屋根裏ハイツがその評価を確かなものにした『ここは出口ではない』とともにカンパニーの代表作と呼ぶべき作品で、今回はその『ここは出口ではない』と合わせての再演・二都市ツアーとなる。

二幕構成の本作が描き出すのは「大きな地震から半年後と10年後」。一幕では仮設住宅に住む男・ショウくん(渡邉悠生)を友人のハマヤ(三浦碧至)が訪れ、二幕では同じくショウくんが住む復興住宅をハマヤが訪れなんということのない会話を交わす。初演時には地震ではなく大きな火事という設定だったらしいが、今回の再演にあたって、初演版の執筆時から念頭にあったという地震の話へと書き換えての上演となった。

[撮影:本藤太郎]

地震があっても同じ土地に住み続け、仕事も変えていないショウくんに対し、ハマヤは地震以前に地元を離れており、二人の会話は久しぶりに地元に戻ったハマヤとショウくんとのあいだの近況報告が中心となる。それらを通して浮かび上がるのは特別な出来事ではなく、互いのなかに蓄積された記憶のあり方そのものだ。

作品のほとんど終わりに至ってショウくんは「揺れて、家がなくなって、避難して、(仮設に)引っ越しして、(ここに)引越ししてっていうのはもうずっとある」「忘れる忘れないとかじゃなくて、ある」と自らの記憶のあり方を言語化しようとする。そこに至るまでに配された何気ないエピソードが呼応し合い記憶の複雑なあり様を浮かび上がらせる中村の筆致は巧みだ。

例えば、一幕に登場する箸と二幕に登場する鍋つかみの対比。仮設住宅への入居とともに支給されたはずの箸は1カ月も経たずに行方不明になってしまうが、高校のときにプレゼントでもらった、しかし思い入れがあるわけではない鍋つかみは震災でも失われず、仮設住宅を経て引っ越した復興住宅で発見される。あるいは駅前の銅像。地震以前に地元を離れたハマヤは失われたそれを震災によるものだと勘違いするが、ショウくんによればそれは地震以前に撤去されていたらしい。

「地元」に関するハマヤの記憶は断続的だが、そもそも人生自体が連続性があるようでなく、ないようであるものだ。ハマヤは自身が料理を始めたのは昔の友人がすえた臭いをまとっていたからだと説明する。その臭いが禁煙を決意させ、それが料理を始めたことにつながっているのだと。しかし説明を始めてみれば本人にもそのつながりははっきりとしない。だが、それでもそれらはどこかでつながっている。つながりははっきりせずとも人生は、時間は流れていく。

過ごした場所と時間の異なる二人の会話からは、それぞれに別様に流れ蓄積してきた時間と記憶が浮かび上がる。地震から半年後と10年後という区切りこそ示されているものの、地震とは関係なく時は流れている。大きなイオンモールができるという巨大な空き地にはかつてスーパー銭湯が建っていたというが、それは震災によって失われたわけではなく、震災後に建てられそして潰れたらしい。ある大きな出来事を振り返るとき、振り返るそのときまでに流れた時間もまた確かにそこにあるのだということを忘れることはできない。

[撮影:本藤太郎]

コロナ禍の最中の上演となった今回、二幕に登場するハマヤはマスク姿で現われた。物語的には大きな意味を持つとは思えないそれは、東日本大震災から10年が経とうとする現在を二幕の現在に重ね合わせるためのちょっとした小道具のように思えた。だが、このレビューを書くために読んだ上演台本には次のような文言が記されていた。「未知の疫病が世界を取り巻いている。(略)地域により再建のありようはさまざまで、いまようやく新しい街の着工にとりかかるようなところもあれば、ようやく人が住めるようになったところもある。行政の判断によって、もう人が住むことができなくなった土地もある」。影響の範囲ということで言えば、地震よりもよほど広い範囲で深刻な疫病の被害があったらしきことがこの記述からは窺える。しかし、上演からこの設定を読み取ることは不可能だろう。観客に彼らの事情を知ることはできない。そしてそれはいつもそうなのだ。自らのものでない記憶を私たちは十全に知ることはできない。それでもそこに、寄り添おうとすることはできる。互いの話を聞くというだけのシンプルな作劇の本作には、そのような倫理的な厳しさと温かさが滲んでいる。

9月18日からは『ここは出口ではない』とともに本作の仙台公演が予定されている。また、映像作家の小森はるかが映像編集を担当した東京公演の映像が有料配信されている。『ここは出口ではない』の映像(映像編集:宮﨑玲奈)とともにチェックされたい。


公式サイト:https://yaneuraheights.net/
中村大地インタビュー(passket):https://magazine.passket.net/interview/2020/07/22/yaneura-heights-interview/

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2020/07/25(土)(山﨑健太)

ドナルカ・パッカーン『野獣降臨』

会期:2020/07/22~2020/07/26

萬劇場[東京都]

コロナ禍の最中、いかなる戯曲を上演するか。戯曲を上演するという演劇の「方法」は、過去のアーカイブに現在を照らし合わせることで歴史から反省を(あるいは無反省を)引き出すことに優れている。演出家の仕事が上演の結構を整えることにあることは確かだが、その前段階として上演する戯曲を選択することもまた演出家の仕事であり、その腕の見せ所であると言えるだろう。

演出家・川口典成の個人企画「ドナルカ・パッカーン」が今回「緊急上演」したのは野田秀樹が1983年に第27回岸田國士戯曲賞を受賞した『野獣降臨』。伝染病を描いた本作は「野獣降臨」と書いて「ノケモノキタリテ」と読むことからも明らかなように差別を描いた作品でもある。コロナ禍の日本においては残念ながらさまざまな差別の問題が顕在化/激化しており、伝染病と差別を描いた本作の上演はきわめてアクチュアルなものとして現在に立ち上がってくる。

[撮影:三浦麻旅子]

ほかの多くの野田戯曲と同じように、本作もまた複数の筋と場面が混線し時空間も行きつ戻りつしながら進行していくため、ひと口にあらすじを紹介することは難しいのだが、大まかに言えば二つの物語がDNAの二重螺旋のように絡み合いながら進行し(あるいは退行し?)ていく。ひとつはあばら骨を一本失ってしまったボクサー・アポロ獣一(鎌内聡)の物語。それは地球と人の物語だ。もう一方は月と獣の物語。アポロ11という音をよすがに舞台は月へとジャンプする。獣を人のように変えてしまう伝染病を媒介するという月の兎(那須野恵/人形遣い:海老沢栄)を追う伝染病研究所の所長(丸尾聡)をはじめとする人々。しかし同じように地球では、人を獣のように変えてしまう伝染病が広がっているのだった。獣一が「獣のハジメ」と名乗るように人は獣へ獣は人へ、しりとりがごとく互いの尻にかじりつく。

たとえとしてDNAの二重螺旋をわざわざ持ち出したのは、それこそがこの戯曲の核となる構造だからだ。24本ある人間の肋骨を獣一は一本失い、残ったのは23本。それは人間が持つ46本の染色体のちょうど半分にあたる。人間は両親から23本ずつの染色体を受け継いで一人前のヒトとなる。だからこそ獣一と月の兎はそれぞれ半人前でしかなく、半人+半獣=地球+月でようやく一人前の物語が紡がれることになるのだ。

[撮影:三浦麻旅子]

戯曲の核に置かれたDNAの構造は伝染病や差別のモチーフとも呼応する。いずれもしばしばその「起源」が問題とされるが(「武漢ウイルス」なるWHOのガイドラインを無視した呼称を思い起こされたい)それはしばしば正統性への執着と裏表の関係にある(管見の範囲では「武漢ウイルス」という呼称を用いた人々とネトウヨと呼ばれる人々は重なっていた)。「宇宙家族アポロは、原始家族と背中合わせの双なりでございます」というセリフは過去(=原始家族)=起源と未来(=宇宙家族)=その結末とが切り離せないものであることを示している。野田はこの作品を「被差別民族」の物語だと明言したそうだが、しかし獣一たち宇宙家族=原始家族はときに聖家族と呼ばれ、物語の結末に至ってその「起源」がイザナギとイザナミの間に生まれた水蛭子にあったらしきことが示唆される。かつて現人神と呼ばれた天皇に一般的な意味での基本的人権は認められていない。差別と正統(性への執着)は表裏一体であり、この戯曲がもっともアクチュアルなのはその点だろう。『野獣降臨』は日本(人)の宿痾を鋭く抉り出す。

[撮影:三浦麻旅子]

川口は萬劇場がいち早く新型コロナウイルスへの対策を明示したことを受けて公演会場に選んだという。会場の入り口では検温、手洗い、手指靴底の消毒が行なわれ、一席おきに指定された客席はビニールシートで仕切られていた。宇宙飛行士/伝染病研究所所員を演じる俳優たちはフェイスシールドを装着し、観客たる私の「日常」はそのまま舞台上と地続きになる。煩雑であるはずの諸々でさえ劇世界への気分を盛り上げる道具立てになっていたという点においてもこの戯曲の上演は成功していたと言えるだろう。観劇前後の観客への情報提供も徹底していた。フェイスシールド越しの言葉が聞き取りづらい(しかしそれは観客たる私の側の問題でもあったのだろう。上演が進むにつれ耳がチューニングされたのかそれほどは気にならなくなった)など、上演上の課題こそいくつか見られたものの、この状況下でこそ上演すべき戯曲を「緊急上演」した川口の「目」は確かだ。前作『女の一生』初稿版完全上演でも川口は、戦後上演され続けている改訂版ではなく、戦時中に上演された初稿版のドラマツルギーこそが現代日本に通じているのだと示してみせた。日本人作家の手による戯曲に、いまこそ上演すべきは何かという観点から継続的に取り組み、過去の戯曲のなかに現代を照射するドラマツルギーを見出し上演し続けているドナルカ・パッカーン/川口の仕事に引き続き注目したい。

[撮影:三浦麻旅子]

[撮影:三浦麻旅子]


公式サイト:https://donalcapackhan.wordpress.com/

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ドナルカ・パッカーン『女の一生』| 山﨑健太:artscapeレビュー(2020年03月01日号)

2020/07/23(木・祝)(山﨑健太)

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