2020年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

ロロ「窓辺」 第1話『ちかくに2つのたのしい窓』

会期:2020/04/19~2020/04/25

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離れた土地で暮らす人々の、ビデオ電話でのコミュニケーションを描く連作短編通話劇シリーズ「窓辺」をロロが開始した。出演俳優は実際にZoomを使って会話劇ならぬ「通話劇」を演じ、記録映像ではなくYouTube上で生配信される。第1話『ちかくに2つのたのしい窓』は、3日間で計6ステージが上演=配信された。

スマホを手に、「オンライン飲み会」をする30代の男性2人が登場人物。それぞれ地元の仙台と東京で離れて暮らす高校時代の同級生だが、互いに想いを寄せ合う関係性が次第に明らかになっていく。それは、離れて会えないからこそ貴重で愛おしく、言葉にすると脆く壊れてしまいそうな、繊細な感触だ。「どんなに手を伸ばしても届かない相手への、一途で切ない想い」は、ロロが得意として描いてきたが、本作では、「ひび割れたスマホの液晶画面越しに、傷の付いた(ように見える)相手の頬に触れる」というやり取りが効いていた。それは、「修復不可能な亀裂の入った日常」の比喩であるとともに、「Zoomを用いて演じる」設定の消化と物語の消費を超えて、これが「演劇」として成立することの担保としても機能していた。「ひびの入ったスマホで相手の顔を見ながら会話している」設定だが、当然、観客が見ている画面には、その「ひび=傷」は映らない。だがそこにこそ、演劇的想像力の駆動する余白が生まれる。

画面の向こうの相手に繋がろうと、『E.T.』を真似て液晶画面に人指し指を付けて言う「ともだち」から、「友達、パートナー、恋人……。どんな関係でもお互いが納得していればそれでいい」という台詞への繋ぎ方や、冒頭で歌われた鼻歌が「架空の魔法少女アニメの主題歌」として劇中で反復され、「テレポーテーション 窓を抜けて 瞬間で手をつなぐ」という歌詞のメタ性とともに回帰する構造など、20分という短編だが、よく練られていた。

また、「スマホでZoomを介した会話」という本作の設定および実際の使用は、「視聴デバイスによって、観劇体験が左右される」という面に気づかせる(本作の場合、PCやiPadよりも、スマホ視聴の方がより臨場感や親密さが高いだろう)。ロロは今後、5月中旬に第2話、6月上旬に第3話の配信を予定している。シリーズを通して、Zoom演劇の面白さや可能性がどう開拓されていくのか、楽しみに待ちたい。

公式サイト: https://note.com/llo88oll/n/nb7179ad5e3a5?fbclid=IwAR3I-4YxVu_p_HHztKIL88VVzmqypEnasPmhVbYu5hgHaDxX9UXlFJFll0A

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2020/04/22(水)(高嶋慈)

ロロ「窓辺」 第1話『ちかくに2つのたのしい窓』

会期:2020/04/19~2020/04/25

ロロが新たに立ち上げたシリーズ「窓辺」は、離れた土地で暮らす人たちのあるひと晩のビデオ電話を切り取った連作短編通話劇。すでに4月に第1話『ちかくに2つのたのしい窓』が上演され、5月22日(金)〜24日(土)には第2話『ホームシアター』の、6月上旬には第3話の上演も予定されている。YouTubeLiveを使った生配信形式の作品は「ビデオ通話」というシンプルなシチュエーションを用いながら、劇場で上演されてきたこれまでのロロの本公演や「いつ高」シリーズと同じく「いまここに(い)ないもの」への想いをかき立てる。いや、そこには「いまここにいないもの」とつながることを可能にしながらも不十分でしかあり得ないビデオ通話だからこその親密さとさみしさがあった。

[Photo by Masami Ihara]

さて、ここからは作品内容に触れるが、第1話『ちかくに2つのたのしい窓』は第2話の上演に先立つ5月21日(木)に再演が予定されている。未見の方は続きを読む前にぜひ再演をご覧いただきたい。

『ちかくに2つのたのしい窓』で描かれるのは宮城県に住む村田秋乃と東京都在住の川岸風太の通話。会話は仕事から帰ってきた旧友同士のそれとして始まるが、やがて風太はパートナーと別れてきたことを秋乃に告げる。どうやら風太と秋乃は想いを寄せ合っているらしい。しかし二人の気持ちが完全に一致するわけではない。秋乃は風太にもっと宮城に帰ってくればいいのにと言うが、秋乃はそんなに気軽に新幹線は使えないと言い返す。問題は距離だけでない。それぞれが置かれている状況の違いはなかなか見えづらく、ときに相手を傷つけてしまうこともある。

[Photo by Masami Ihara]

ロロとしては珍しく、直接にエロティックな場面があったのが印象的だ。ビデオ通話の画面越しに触れ合う二人。風太のスマホは画面がひび割れているらしく、画面に映る秋乃のくちびるにも細かい傷があると風太はそれをなぞる。当然、観客にそのひび割れは見えないのだが、だからこそ観客は風太のなぞる指先を改めて想像する。それを受けて照れてみせる秋乃の想像は観客のそれと重なり合っているだろう。

ところで、秋乃と風太はそれぞれロロのメンバーの亀島一徳と篠崎大悟が演じていて、設定にも二人が男性であることがはっきりと記されている。セックスするかどうかについてのセリフもあるにはあるのだが、二人の関係がどのようなものであるのかがはっきりと語られるわけではない。ロロ/三浦直之はこれまでの作品でも既存の枠組みに捉われない関係の結び方を描いてきた。本作では、単に男性同士のパートナー関係を描くのではなく、二人の人間が結ぶ関係が本来どのようなかたちにでも開かれているということを描いている。秋乃と風太との間で互いへの想いが一致しているかどうかはわからないし、その必要もない。二人の関係はこれからまた変わってもいくだろう。画面越しに触れ合いE.T.の真似をするふたりが何度も繰り返す「ともだち」という言葉はそのたびに違って聞こえる。

自分とは、いまとは違う「普通」を想像すること。それもまた「いまここにないもの」への想像力だ。そこには「いまここ」を未来へと開いていく可能性がある。

[Photo by Masami Ihara]


公式サイト:http://loloweb.jp/
ロロ『窓辺』:https://note.com/llo88oll/n/nb7179ad5e3a5


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2020/04/19(日)(山﨑健太)

市原佐都子『バッコスの信女─ホルスタインの雌』

発行所:白水社
発行日:2020/04/10

第64回岸田國士戯曲賞受賞作として市原佐都子の戯曲『バッコスの信女─ホルスタインの雌』が白水社から刊行された(同時受賞の谷賢一『福島三部作』はすでに2019年11月に而立書房から刊行されている)。選評によれば、審査員一人ひとりが最終候補作のそれぞれに対して○△×で評価を示すところから始まる選考会において、「珍しく、最初から委員全員が大意において同じ方向を向いてい」て、『バッコスの信女─ホルスタインの雌』には「誰ひとり『×』をつけなかった」(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)らしい。平田オリザは「全体のことで言うと、今年は例年に比べてレベルが高」かったと述べており、レベルの高い最終候補作のなかでも市原の戯曲が選考委員の圧倒的支持を集めたということがわかる。私個人としてもここ数年、岸田賞の最終候補作にはすべて目を通しているが、同様の印象を持った。

『バッコスの信女─ホルスタインの雌』の主人公は一見したところ「普通の」主婦である。しかし彼女はのっけから「ケロッグのコーンフレークってマスターベーションをやめさせるために生まれたらしい」などと観客に向かってまくしたてる。性と食はこれまでの市原のほとんどすべての戯曲で中心的なモチーフとなっており、それはつまり、市原が演劇を通して生の生々しさを描き出し曝け出そうとしていることを意味する。性にせよ食にせよ、ほとんどの場合、それが他者を必要とする営みであるという点において共通しており、市原はそれらを奇妙に混線させることで人間の営みの欺瞞を暴き出す。

かつて「家畜人工授精師」として働いていた主婦が「獣人」(牛と人間のハーフであり、かつ上半身が女、下半身が男の「ハーフ」でもある)を生み出してしまうという物語は単に荒唐無稽な、あるいは作家のフェティシズムを具現化したものではなく、確固たる構造に裏打ちされたものだ。獣人は「母」である主婦を女性だけの楽園に誘い、彼女と結びつき「生まれ直す」ことを夢見るが(母乳と精液の循環!)、その願いが成就することはない。肉を食いたい、セックスがしたい、子供がほしい。他者を欲望する限りその回路を閉じることは不可能だ。自己完結のユートピアに閉じこもることはできない。

日本で性が語られるとき、反応の多くは対象への性的な興味か、私的領域に留めるべきものが公の場で語られることへの羞恥に二分され、性が十分に真っ当な議論や教育の対象となっているとは言いがたい状況がある。市原はならばとばかりに「過激」な言葉を並べ立てる。それは観客の生理的な反応をより一層引き出すだろう。だがその背後に奇妙ではあるかもしれないがある種の論理的構造が確固たる作品の枠組みとして用意されている。劇作家としての市原の強みはその両輪の確かさにある。

併録された『妖精の問題』は2016年の「相模原障害者施設殺人事件を受けて生まれた」作品で、本書のあとがきによれば市原は「事件によって、自分のなかにある優生思想や、自分が抱えている生きづらさを意識させられた」のだという。市原はさらに「できるだけ偽善的ではない方法であらゆる生を肯定することを試みたいと思った」とも書いている。「できるだけ偽善的ではない方法」というのはそこにある問題そのものから目を逸らさないということだろう。市原は演劇の上演という枠組みを利用して観客に「直視すること」を迫る。真っ直ぐな言葉で自らの創作について語る市原のあとがきも本書の読みどころのひとつだ。『妖精の問題』は5月16日(土)・17日(日)にオンライン公演が予定されている

あいちトリエンナーレ2019で初演された『バッコスの信女─ホルスタインの雌』は、ドイツで3年に一度開かれる世界演劇祭(テアター・デア・ヴェルト)での上演も予定されていたのだが、残念ながら新型コロナウイルスの影響で演劇祭自体が2021年6月へと延期となってしまった。現時点で次は9月、神奈川芸術劇場KAATでの上演が予定されている。市原の主宰する演劇ユニット「Q」の近作は多くがレパートリー化されているが、本作は作品の規模的にも再演の機会は限られてくるだろう。この機会に再演が実現することを切に願う。


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2020/04/18(土)(山﨑健太)

劇団テレワーク:第0回公演 『ZOOM婚活パーティー』と「Zoom演劇」

YouTube

舞台公演の延期・中止が相次ぐなか、既存のカンパニー/新たな活動形態として立ち上げた新規団体を問わず、「Web会議サービスZoomを活用した演劇」の試みがさまざまに開始・予定されている。本評では、初動の早い一例として、4月5日に第0回公演がYouTube上でライブ配信された劇団テレワークによる『ZOOM婚活パーティー』を取り上げる。

劇団名が示すように、「出演俳優」はそれぞれの自宅からオンライン上の会議室に入室し、分割表示された画面どうしのあいだで会話が交わされる。「司会」役の進行と仕切りのもと、3名の男女ごとに3組に分かれてチャットを始めるが、次第に不穏な展開になり、各セッションごとに「タワマンに住む金持ちに見えたがじつは会社が倒産」「じつは元カレ」「じつはストーカー」が判明するが、最終的には「カップル成立」のハッピーエンドに回収され、エンタメ重視で気楽に見られる。ただし、「会社の倒産という苦労を経験した男性」に共感して惹かれる女性、「自分に経済的に依存していた元カレの感謝の気持ちを受け入れ、よりを戻す」女性、「根暗なストーカーの女性が『運命の女性』に変わった」という「ハッピーエンド」は、いずれも「男性が癒される物語」である偏向が気になる。また、「自室に侵入したストーカー女性に、キスマークを散らされた男性の顔」は、(彼は満面の笑みであるが)もし男女が逆であれば、「レイプ」の比喩的表象として映っただろう。




本評で考えたいのは、内容面よりも、今後増えるであろう「Zoom演劇」の可能性や制約についてである。「舞台公演が打てない」現状の打開策として始まった試みではあるが、(ニコニコ動画と同様)「観客の反応」がリアルタイムでチャットの表示窓に書き込まれる/再生されることで、「舞台/客席」の固定構造を揺るがす潜在性を持つ。「観客の反応」が(身体と切り離して)可視化され、(疑似的な)同期や一体感を得ることで、鑑賞体験は二重化されたものとなる。書き込みがログとして残ることで、(台本とは別の)スクリプトのタイムラインが形成されていく。この仕組みをメタ的に組み込む、「背景をバーチャルで変えられる」仕掛けを使って虚実を攪乱する、「手話や字幕」を入れるなど、さまざまな実験や手法が可能だろう。

また、「Zoomならでは」の特性として、PCやスマホの内蔵カメラで撮影するため、基本的にバストアップで、「顔の表情」が大写しになる。だがこれはメリットであると同時にデメリットでもあり、「表情」以外の身体性は縮減されていく。また、設定がワンシチュエーションに固定され、「オンライン飲み会」「オンライン面接」「オンライン会議」など「Zoomを使用して会話するシチュエーション」に限定されてしまい、「舞台設定」も(「外出の自粛」が解かれない限り)「自室など室内空間」の閉塞性や「ネット接続が可能な場所」の物理的制約を受けるため、今後、似たような試みの量産に陥る可能性も懸念される。

より広い視野で見れば、「Zoom演劇」の試みは、「(ライブ配信であれ録画であれ)生身の俳優が演じる行為を、映像として鑑賞する」という、すでに身近になった鑑賞形態を、より浸透させていくのだろうか。映画のNetflix視聴のように、「演劇=動画配信で見るもの」という消費形態が一般化・加速していくのか。DVDでの鑑賞、「シネマ歌舞伎」、2.5次元ミュージカルの映画館での「ライブビューイング」などのように、流通の経路に乗った「コンテンツ」として、商業的な回路に吸収されていくのだろうか。 「Zoom演劇」に限らず、舞台芸術作品のオンライン配信は次々と始まっており、オンラインチケット、有料配信、投げ銭制やドネーションなど「見ることで支援につながる」取り組みとしても機能している。そして、自粛要請や行動制限が解除され、劇場での公演が再開されるようになった将来(それはいつかきっと来る)、ネット視聴で掴んだ観客をどう「生の劇場空間」に還流させるかが、課題となるだろう。

2020/04/10(金)(高嶋慈)

山下残『インヴィテーション』

会期:2020/03/27~2020/03/29

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

飄々としたユーモアとクリティカルな視線で「ダンス」「舞台芸術」を照射してきた山下残。本作では、パフォーマー同士の「~してもいいですか」「どうぞ/ダメです」「~してください」というやり取りによって、許可/禁止/指示される行為が積み重ねられていく。舞台芸術の制作現場やワークショップにおけるコミュニケーションへの自己言及に始まり、パワハラ、セクハラなどさまざまな関係性におけるヒエラルキーや不均衡な権力構造をあぶり出し、「舞台芸術」を成立させている制度内の/外側の社会構造を解体し、再提示してみせた。その先に浮かび上がるのは、コロナ禍における「自粛」の要請と、(あいトリでの文化庁の補助金不交付問題やオリンピック関連の文化事業においてとりわけ顕在化した)「事前に許可と承認を求める」「忖度」という日本の文化芸術を取り巻く現状だ。またここで、「許可/禁止」の判断の根拠の曖昧さや、判断を下す役を絶えず入れ替える流動性は、その判断の咨意性や責任主体の不透明な曖昧さについても鋭く問うていた。


上演会場はオールスタンディングで、舞台の壇も客席のひな壇も取り払われたフラットな空間を40-50人ほどの観客が取り巻く。虫の触覚のような装置を頭につけたパフォーマー(音響担当のおおしまたくろう)が登場し、「ご来場ありがとうございます。只今より山下残振付・演出作品『インヴィテーション』を始めます」とどもりながら告げる。彼が身体を動かすと、触覚状のセンサーが振動を拾い、不穏な音響が響く。だがその「前説」は、「トイレ行っていいですか」という唐突な声によって遮られ、作品の「開始」「輪郭」もまた曖昧にぼかされていく。あるいは、おおしまが何度も登場するたびに繰り返す「前説」によって、「開始」はずるずると遅延させられていく。

「トイレ行っていいですか」「タバコ吸っていいですか」と許可を求める声の積み重なりは、その日常的な行為のたわいのなさゆえに、「わざわざ許可が必要か」という不穏さを次第にまとっていく。許可と指示の言葉は、「左腕を上げてください」「耳を触ってください」「腰を回してください」といった具体的な動作と、「海をつくってください」「橋を架けてください」「入道雲になっていいですか」といった抽象的・詩的な言葉によって、「舞台芸術の制作現場やワークショップにおけるコミュニケーション」の様相を呈し始める。だが、「海をつくる」ために床に唾を垂らし続けるパフォーマーや、「その海に橋を架ける」ためにブリッジの姿勢を取り続けるパフォーマーの姿、そして強い調子で度々発せられる「もっとイマジネーションを使え」という(演出家の? ワークショップ講師の?)声や禁止の命令は、時に理不尽な要求や身体的な過酷さを強いる振付や演出がはらむ権力性や暴力性を浮上させ、舞台芸術の制度への自己批判とともにパワハラへの危うい接近を見せる。また、男性パフォーマーが女性パフォーマーに「身体の部位を触ってもいいですか」と低い声で言うシーンはセクハラを匂わせ、ジェンダーの不均衡に基づく権力関係が追記される。一方的で理不尽な要求のエスカレート、こなしきれない多重のタスクを課された身体は、次第に暴走的な様相を呈していく。



[撮影:中谷利明]



[撮影:中谷利明]

このように本作は、行為遂行的な言葉のやり取りがはらむ、(微温的な/だからこそ不穏な)権力の在りかをさまざまに浮上させつつ、「許可/禁止/要請」を発話する役割はパフォーマー間で絶えず交換される。その流動性は、ヒエラルキーの固定化に抗う一方で、誰が「許可を与える権力の主体」なのか? を曖昧に拡散させ、責任主体の見えにくさについても問いかける。また、反復される「前説」は、劇場に集った観客を迎える「インヴィテーション」の言葉であると同時に、「ここは舞台である」というメタ的な言及の繰り返しは、「人が集まること」という舞台の成立基盤と、それが「禁止」「自粛要請」されていく現状を照射する。「換気」のためと称して何度も解放される「扉」からは新鮮な外気が流れ込み、パフォーマーたちはラストで、開け放たれた扉から「劇場の外」へと歩み去っていく。



[撮影:中谷利明]


「入場料無料」という点も戦略的だ。それは一方では、「舞台作品にお金を払う価値とは」「観客は何を見たいと思って劇場に来るのか」という問いを投げかけ、「見たい」欲望と金銭的価値の交換、劇場・上演批判を繰り出す。だが他方では、スタッフワークの比重を下げ、照明や音響を出演者自身が操作することで、「低資金でも公演が実現可能」「無料で見られる」という、劇場利用者と観客の増加を共に目指す試みの希望的提示でもある。

山下によるこのポジティブな提示は、2019年6月に新しくオープンしたTHEATRE E9 KYOTOという劇場に対する強いメッセージでもある。同劇場は、関西圏のほかの多くの劇場が公演中止や延期を決定するなか、換気やアルコール消毒、客席の間引きなどコロナ対策を講じながら、3月末の本作まで初年度のプログラムをやり切った。もちろんここには、劇場スタッフや各公演団体の尽力があったことは言うまでもない。日々厳しさを増す状況のなか、1年目を最後までやりとげ、そしてこの作品で締めくくったことは、大きな意義があったといえよう。

2020/03/28(土)(高嶋慈)

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