2020年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

ロロ×いわきアリオス共同企画 オンライン演劇部『オンステージ』

会期:2020/06/27~2020/06/28

ロロ×いわきアリオス共同企画 オンライン演劇部「家で劇場を考える」は福島県いわき市にある文化交流施設「いわきアリオス」が「新型コロナウイルス感染症の影響で世界的に苦しい状況が続くなか、(略)“創造的な日常”を応援するべく、芸術文化を通したコンテンツを無料配信する『#おうちでアリオス』」の一企画。『オンステージ』はそこでつくり上げられた作品のタイトルだ。2017年7月から毎年開講されているいわきアリオス演劇部でも講師を務めるロロ・三浦直之を脚本・演出に、セノグラファーで舞台美術家の杉山至をワークショップ講師に迎え、アリオス演劇部のOB・OG(白土和奏、原田菜楠、齋藤永遠、門馬亜姫、秋葉ゆか、森﨑陽)にロロの俳優陣(望月綾乃、森本華、島田桃子)を加えた出演者9名によるオンライン演劇が上演・配信された。

「Zoomをつかって作品をつくってみてもなかなか演劇になってくれない。作品をつくるだけだとそれはやっぱり映像作品で、これを演劇にするためにはきっと観客についてもっと考えなくちゃいけない。演劇はみるだけじゃなくて過ごすものだ」と言う三浦が書いたのは「オンライン演劇を鑑賞する『ホームシアター』開演までの10分間の物語」。八つに分割されたZoomの画面の中央にはミニチュアの舞台らしきものが映っている。残りの七つのウインドウにはそれぞれイヤフォンで音楽(?)を聞きながら思い思いに過ごす人々。ミニチュア舞台の枠に現われた人物の「いらっしゃいませ。みなさま、会場BGMを流しながら、お席にておまちください」という言葉に対し「開演ってあとどれくらいですか」と質問が投げかけられ、もうすぐ演劇が始まるところだということがわかる。どうやら周囲の七つのウインドウに映る人々は観客で、「それぞれのやり方で、各々の気持ち高めていって」いるところらしい。遅れてさらにひとつウインドウが現われ、九つのウインドウが開演のときを待つ。

演劇を観るという体験には、作品を観るまでの、そして観たあとの一連の出来事も組み込まれている。チケットを確保し、劇場の場所を調べ、電車に乗り、劇場に着き、席に座って当日パンフレットを読み、開演を待つ。上演が終われば劇場の近くのラーメン屋に寄り、作品を反芻しながら帰途につく。オンライン演劇をはじめとする、新型コロナウイルスの影響下にある「演劇」あるいはその代替物が、作品の完成度とは別のところで物足りないものになってしまうのは、自宅での鑑賞では、劇場に足を運ぶという体験が、それによって生じるはずの環境の変化が失われているからだ。

だからこそ、三浦は演劇の上演前の時間にフォーカスをあて、開演を待つ観客の姿を描き出す。「お客様には、開演まで、それぞれが用意した音楽を聴きながら過ごしてもらっている」という設定も、それこそ「気持ち高め」るための、自宅にいながらにして劇場気分をつくり出すための工夫だろう。

もちろん、劇場に足を運ぶことは気分だけの問題ではない。環境の変化は出会いの可能性を呼ぶものだ。出会うのは人とは限らない。それはコンビニに並ぶ新商品かもしれないし、いままで通ったことのない路地、そこに見える風景かもしれない。現実のオンライン演劇では、おそらくは運営上のリスク管理の観点から、観客同士の「出会い=接触」は避けられる傾向にある。だが、三浦はあえてオンライン演劇の「客席」を描き、そこで生まれるささやかな交流を描いた。それは「出会い」を描き続けたきた三浦の願いの表われのようにも思えたのだった。

『オンステージ』は脚本と映像のアーカイブが公開されている。9名の出演者のうち台詞のある役は3名のみ。共通の脚本で配役をシャッフルした3チームのバリエーションも見どころだ。


『オンステージ』アーカイブ配信:https://alios-style.jp/cd/app/?C=blog&H=default&D=01989
『オンステージ』台本:https://iwaki-alios.jp/cd/sites/files/2006online_engeki_daihon_3.pdf
『オンステージ』当日パンフレット:https://alios-style.jp/cd/app/?C=blog&H=default&D=01984

2020/06/28(日)(山﨑健太)

ロロ「窓辺」 第3話『ポートレート』

会期:2020/06/26~2020/06/28

ロロによる連作短編通話劇「窓辺」の第3話は『ポートレート』。「今後も継続予定」だが「一旦一区切り」となるという第3話は、物語を完結させるのではなく、描かれる世界の余白とそれが存在する手触りとを感じさせる作品となった。

「ビデオ電話しながら肖像画を描かせてくれる人がいたらDMください」というツイートを見て興味本位で応募した松田青太郎(板橋駿谷)。青太郎は画家の遠山栗美(望月綾乃)とビデオ通話を介して実際にモデルを務めることになり——。

ビデオ通話をしながら栗美のスケッチブックに描かれる青太郎の肖像画は最後まで観客に示されることはなく、最終的には消しゴムで消されてしまう。タイトルにもなっているポートレート=肖像画というのは、自分には見ることのできない、他人から見た自分の像を可視化するものだ。見ること、見られること、見えていないこと。見ることをめぐるモチーフはこの短い作品のなかに繰り返し現われている。

例えば、描く側=見る側の栗美はビデオ通話の画面で自分のウインドウを非表示にしてみせ、通話が切れたのだと思った青太郎を焦らせる。しばらくそのままの状態で絵を描き続ける栗美に対し青太郎は「見てる人が見えないってなんか恥ずかしいですね」と言う。「誰にも見られてない気もするし、みんなに見られてる気もするし」というその言葉はそのまま演劇における俳優と観客との関係を指すものとして受け取ることもできるだろう。もちろんそれは「窓辺」を見る観客にも当てはまることだ。

あるいは、1話でも登場していた『魔法使いミント』。最終話でミントは思いを寄せる相手に自分が魔法使いであることを明かし、その結果として姿の見えない、声だけの存在になってしまう。このエピソードは栗美に元彼とビデオ電話で別れ話をしたときのことを思い出させる。別れようと言った瞬間、元彼の画面がフリーズし、声だけが聞こえる状態になってしまったのだと語る栗美。固まった画面を見ながら話し続けるうち、栗美は肖像画を描くことを思いついたのだった。栗美にしか見えない元彼の姿と、栗美には見えない元彼の姿。「ビデオ電話って見つめ合えないからいいよね」という栗美の言葉にはそこにあるさみしさも透けて見える。

ところで、2話までに登場した4人には高校の同級生という共通点があり、2話のラストはそこからさらに物語が展開することを予感させるものだったが、3話の2人は意外なことにこれまでの4人とは基本的には無関係な人物として設定されている。だが、青太郎の話に登場する『魔法使いミント』が好きだという東京のレコード屋の店員は1話の風太(篠崎大悟)を思わせるし、3話の後半では栗美の隣に住んでいるのが同じく1話に登場していた秋乃(亀島一徳)らしいことも明らかになる。2話で紺(島田桃子)が秋乃に返してほしいと夕(森本華)に託した消しゴムは、偶然にも栗美の手を経由して秋乃に手渡される。赤の他人同士でたまたまつながった青太郎と栗美は、知らぬ間に風太と秋乃を、秋乃と夕、そして紺とをつなげつながっている。

せっかく書いた青太郎の肖像画を、元彼の肖像画ともども消してしまった栗美は、その消しカスを元彼の破片と青太郎の破片と呼び、混ぜ合わせた挙句に窓の外に投げ捨ててしまう。「風に乗って青太郎のところに届くといいね」と栗美は言うが、栗美が青太郎の肖像画を描いているその状況自体、元彼との別れのビデオ通話がもたらしたものだった。元彼の破片はある意味ですでに青太郎に届いているのだ。人は出会い、ときに別れ、混ざり合いながら生きていく。ロロらしさ全開でありながら新たな展開を見せた「窓辺」の再始動を楽しみに待ちたい。


公式サイト:http://loloweb.jp/
ロロ『窓辺』:https://note.com/llo88oll/n/nb7179ad5e3a5


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2020/06/26(金)(山﨑健太)

「クラシックホテル展─開かれ進化する伝統とその先─」、高山明/Port B「模型都市東京」

会期:2020/02/08~2020/08/23

建築倉庫ミュージアム[東京都]

建築倉庫ミュージアムでは、2つの旅の展覧会が開催されている。ひとつは「クラシックホテル─開かれ進化する伝統とその先─」展であり、文字通り、日光金谷ホテルや富士屋ホテルなど、12の建築を詳しく紹介するものだ。展示スタイルもクラシックで、最初の壁に大きな年表を掲げ、模型、図面、写真、家具などを使い、赤を基調とした会場デザインも効いている。



建築倉庫ミュージアムの外観


「クラシックホテル」展に展示されていたホテル年表


「クラシックホテル」展、会場風景

そしてもうひとつは高山明/Port Bの「模型都市東京」展だ。これまで建築展を開催してきた建築倉庫ミュージアムとしても異例のラインナップだろう。事前の情報をあまり仕入れずに訪れたので、彼が具体的に「どんな展覧会をするのか?」という疑問を抱きながら会場に入ったが、すぐに「ああなるほど!」と納得した。建築模型は一切ない。むしろ、ブースを設けて、それぞれの個室で映像を見せる、いつもの手法が用いられている(ただし、今回はイヤホンでインタビューの音声を聴く)。すなわち、ここが倉庫であることを生かし、市橋正太郎、榎本一生、キュンチョメ、吉良光、ケン・ローら、12人の「利用者」の私物を各部屋に持ち込み、逆説的に「模型都市東京」を表現しているのだ。


「模型都市東京」展、展示風景

高山によれば、演劇と模型は相性がよい。なぜなら、演劇は身振りの模倣から始まったものだからだ。だが、今や活きのいい模型は舞台の上ではなく、街の中にある。そうした目で東京を観察すると、オリジナルの建築は少なく、いわば模型に溢れているという。つまり、模型は会場ではなく、都市に偏在する。そこで都市の模型=建築やインフラをオリジナルに使いこなす、移動が多い、非定住的な人たちのアクティヴィティに注目し、前述の12人を「利用者」として召喚した。おそらく彼らの活動によって、貸し倉庫のような状態になった会場の展示物は刻々と変化するのだろう。


渡邉颯のブース


キュンチョメのブース

建築模型が展示されている場合、それを見た鑑賞者は、実際の街にたつオリジナルの建築を想像する。同様に、われわれは、今回の展示において、会場に並ぶ各部屋のさまざまなパターンの私物と所有者の語りから、彼らが都市の中でどのように活動しているかを思い描く。とすれば、会場に置かれているのは、「利用者」の生活の模型だろう。そもそも模型とは何か、を考えさせる企画である。


「模型都市東京」展の会場模型スタディ

2020/06/24(水)(五十嵐太郎)

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ヌトミック『Our play from our home』

リリース:2020年6月12日


演劇カンパニー・ヌトミックが音楽作品『Our play from our home』をリリースした。バンド・東京塩麹の作曲・キーボード担当としても活動している主宰の額田大志は、実質的な演劇デビュー作である『それからの街』で演劇にミニマルミュージックの手法を用いて注目を集め、その後も「ヌトミックのコンサート」と題したパフォーマンスを不定期に開催するなど、上演と演奏の境界を問いながら自在に行き来するような活動を展開してきた。とはいえ、演劇カンパニーであるヌトミックの名義での楽曲配信はさすがに今回が初めてである。

『Our play from our home』はタイトルが示唆する通り、ヌトミックのメンバー4人(河野遥、長沼航、原田つむぎ、深澤しほ)の日常生活を録音した作品。それぞれの起床から就寝までがほぼノーカットで収録されている、らしい。「らしい」というのは、リスナーであるところの私にはそれを確認する術がないからだ。聞こえてくるささやかな生活音や環境音だけでは、そこに複数の人間の日常生活が重なり合って存在していることはほとんどわからない。

全60曲、およそ20時間にもおよぶこの作品を、私はパソコンでの作業中のBGMとして断続的に「プレイ」した。私が作業に集中していたこともあり、メンバーの生活音は私のそれと馴染み、実際のところ私は何度か楽曲を再生していることを忘れて席を外してしまったほどである。編集による効果もあるだろうが、考えてみれば私が日常生活で無意識のうちに耳にしている音は、そもそも多くの人間の生活から生じた無数の音の集合体なのであった。

Openingと題された冒頭のトラックでは20時間のあいだに19個の「プレイ」が潜んでいるということも宣言される。「プレイ」の内実はさまざま、かつ、それが「プレイ」であるとはっきりと示されることもない。音楽らしきものの演奏であったり、あるいは戯曲の読み合わせであったりと音楽/演劇の範疇に収まっているものもあれば、おそらくこれが「プレイ」なのだろうと推測するしかないもの(たとえば化粧講座など)もある。リスナーは作品を聴きながら日常生活のなかに「プレイ」を自ら発見していく。ヌトミックのメンバーによってプレイされた『Our play from our home』をそうしてリスナーもまたプレイするのだ。

新型コロナウイルスの影響により劇場での公演が困難な状況で、多くの劇団や作家が一時的な代替手段として、あるいは新たな展開として劇場公演ではない「演劇」のかたちを模索している。それは演劇そのものの問い直しでもある。もちろん答えはひとつではない。だが、たとえば演劇とは「いまここ」にそれとは別の時空間を呼び込むことなのだと考えるならば、『Our play from our home』はきわめて演劇的な作品だということになるだろう。

私の生活音に紛れ重なり合う他人の生活音。しかし宣言される時刻が、あるいはふいに聞こえてくる防災無線の声が、そこにある時空間が私のいる「いまここ」とは異なるそれであることをふいに際立たせる。プレイヤー側はどうだろうか。「一部のplayを除き、メンバーもお互いの状況を確認することができない中で録音が進められた」とのことだが、しかし「いまここ」の私の音を異なる時間・場所に属する誰かが聴くだろうことは意識されていたはずだ。プレイヤー側にもリスナーの「いまここ」は流れ込んでいる。

ヌトミックは5月から「ヌトミックのメルマガ」の配信を始めた。「少なくとも劇場に通うことが日常の一部になるまでは、定期的に配信を続ける予定だ」というそれは、「私たちは直接会うことはできない。しかし、書かれた言葉を辿った先の『誰か』を想像することはできる」という思いからスタートしたのだという。ヌトミックのほかの活動と同じように、メールマガジンにはメンバー全員が参加し、それぞれに言葉を紡いでいる。このような姿勢は『Our play from our home』とも共通している。演劇は、生きた個人の生活のなかから生まれてくるものだ。常ならざる状況で自らの足場を改めてしっかりと確認するようなヌトミックの営みは好ましくも頼もしい。

『Our play from our home』はbandcampで900円で配信(ダウンロード&ストリーミング)中。冒頭およそ80分の試聴(!)も可能だ。


公式サイト:https://nuthmique.com/
『Our play from our home』配信ページ:https://nuthmique.bandcamp.com/album/our-play-from-our-home


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ヌトミック『それからの街』 │ artscapeレビュー(2020年03月01日号) | 山﨑健太

2020/06/21(日)(山﨑健太)

越智雄磨『コンテンポラリー・ダンスの現在──ノン・ダンス以後の地平』

発行所:国書刊行会

発行日:2020/03/19

本書は、1990年代半ば以降のフランスにおいて、「ノン・ダンス」という論争含みの呼称を与えられた新たなダンスの潮流を対象とし、国家的な文化政策とその限界、実践者たちの異議申し立て、1960年代アメリカのポスト・モダン・ダンスの遅れた移入による「パフォーマンス的転回」といった複合的な成立要因を明らかにし、政治と美学の両面における「二重のパラダイム・シフト」として位置付けた研究書である。

まず、「ノン・ダンス」出現を準備した前史として検証されるのが、1980年代、ミッテラン大統領の左派政権下で進められた、ダンスに対する国家的支援の拡充である。文化省にダンス部門が設立され、助成金が大幅に増加し、フランス各地に国立振付センター(CCN)が設置された。CCNのディレクターに就任した振付家は、潤沢な予算でカンパニー制を維持することができ、振付家の個性を重視した「作者のダンス」「ヌーヴェル・ダンス」が盛行した。

こうした国家的な文化支援に対し、その制度的問題点と改善を訴えて活動したのが、「ノン・ダンス」及びその周辺の振付家、ダンサー、批評家によって結成された団体「八月二〇日の署名者たち」(1997-2001)である。彼らは制度的弊害として、助成制度の評価基準がもたらすダンスの規範化、作家主義、毎年新作発表を課す生産性至上主義、特定のテクニックの継承が招くアカデミー化を挙げ、文化大臣への意見書の提出やセミナーを通して批判した。彼らの活動は、文化政策の修正や多様なダンスの創作を支援する環境の整備につながった。

上述の政治的側面に加え、実践面から「ノン・ダンス」成立の一因となったのが、「八月二〇日の署名者たち」の複数のメンバーが関わった舞踊グループ「クワテュオール・アルブレヒト・クヌスト」(1993~2002)である。特に本書が重視するのは、イヴォンヌ・レイナーの作品を彼らが再演したことだ。アメリカのポスト・モダン・ダンスの遅れた移入によって、作家主義・ダンサーの道具化・スペクタクルに対する批判、振付家/ダンサーのヒエラルキーを排した民主主義的な創作態度、日常的な身体の肯定がもたらされ、表象(represent)から現前(present)へという「パフォーマンス的転回」がフランスのダンス界に到来した。

こうした複合的な背景を解きほぐした後、本書の後半で「ノン・ダンス」の中核的な振付家として分析されるのが、ジェローム・ベルとグザヴィエ・ル・ロワの2名である。ベルやル・ロワは、スペクタクルとしての美学的強度を否定し、タスクやゲーム的な要素を取り込み、絶対的な権限を持つ振付家の道具としてダンサーを従属させるのではなく、出演者個人の「生」に焦点を当て、舞台の素人を出演させたり観客との対話を組み込む。このように作家の署名性を手放し、創造の権限を出演者や観客に分譲する「民主的」な作品について、著者は「共存のためのコレオグラフィ」を提唱する。

ただ、その理論的根拠──「作者のダンス」を乗り越える足掛かりとしてのロラン・バルトの「作者の死」、二コラ・ブリオーの「関係性の美学」、ジャック・ランシエールの「解放された観客」──については、美学的な吟味や批判的検討を加えず、素朴に自らの理論的基盤とする点は安易に感じた。同時代的な思潮との連関として、ブリオー、ランシエール、そしてクレア・ビショップの「委任されたパフォーマンス」を挙げるのであれば、ブリオーの「関係性の美学」に対するビショップの批判「敵対と関係性の美学」や、ブリオー×ランシエール間の論争にも踏み込んでブリオーのタームの問題点や限界を明らかにし、ビショップの「委任されたパフォーマンス」における論点もより吟味して議論すれば、「ダンス史」の更新の試みを超えて、より深みのある、面白い議論が展開できたのではないか。

特に、ベル作品は、民主性の素朴な称揚だけに収まらない複雑な力学を潜在させている。本書で分析の中心となる《ザ・ショー・マスト・ゴー・オン》(2001)は、世界的にヒットしたポップ・ソングを使用し、曲名や歌詞がシーンの展開や出演者の動きを即物的に規定する(例えば、4曲目のデヴィッド・ボウイ「レッツ・ダンス」では、「レッツ・ダンス」という歌詞が流れるたびに、出演者はクラブ風の踊りを繰り返す)。ここでは、(ハイアートが忌避してきた)ポップ・ソングの歌詞がタスクとして規定されることで、「振付」からメッセージや物語性、内面性、ムーブメントの審美性や高度なテクニックが一切はぎ取られ、「無意味で無価値なもの」としてメタ的に提示され、大文字の「ダンス」は徹底的に破壊される。そこに露呈するのは、ゲームの規則の解読をとおした「作者と観客が応答しあう相互のコミュニケーション」(172頁)というよりも、ルールとその咨意性、そして(不在の)「振付家」の一方的な権力構造である(註で補足されているように、ボリス・グロイスは、参加型芸術における出演者・観客への権限の譲渡に関して、「作者の権限は縮小したのではなく、ある部分では拡張している」と指摘する)。

また、ベル作品における「出演者」の戦略的な選択にも留意すべきだろう。舞台芸術の素人、ヒエラルキーの下位に位置する群舞のバレエダンサー、タイの伝統舞踊家、障害者など、「西洋のダンスの規範」の外部や周縁的な存在を舞台上に召喚することは、「地理的・制度的に周縁化されてきた他者」に光を当てるという肯定的な面とともに、そうした「外部」を貪欲に取り込もうとする植民地的暴力の側面も有する。西洋中心主義を相対化しようとしつつ、一方で枠組みの強化につながるというアポリアや、人種・ジェンダー・年齢・障害など「多様性の包摂」というPCを発信するための手段に陥るジレンマなど、ベル作品が顕在化するより微妙で複雑な政治的領域については、プロではない人や特定の社会的属性を持つ人に出演を依頼する「委任されたパフォーマンス」における「搾取」の問題と合わせて、より批判的に検討していく余地がある。

2020/06/17(水)(高嶋慈)

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