2020年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

Q/市原佐都子 オンライン版『妖精の問題』

会期:2020/05/16~2020/05/17

『妖精の問題』は、2017年の初演以降、国内外で再演されているQ/市原佐都子の代表作。一部「ブス」が落語、二部「ゴキブリ」がミュージカル風の歌唱、三部「マングルト」が健康法の啓発セミナーという三部構成で、三つの物語がそれぞれ異なる形式により、俳優の一人芝居で演じられる。通底する主題は「妖精=見えない(ことにされる)もの」、つまりルッキズム、優生思想、社会的有用性、「清潔」信仰、(女性の)性への抑圧などにより、社会的に「異物」として排除や差別、嫌悪の対象とされるものだが、最終的には価値基準が相対化され、生(性)の強い肯定へと転じていく。


「オンライン版」として出演者や内容を再構成し、リアルタイムで配信した本公演は、Zoomのチャットやアンケート回答の送受信機能といった双方向性を効果的に取り込んだ点が秀逸。また、「菌(異物)との共生」「殺菌思想や優生思想の強化がもたらす、差別と排除、不可視化」という根底を貫くテーマが、コロナ禍の状況下で改めて、そしてより強く浮上した。劇場での過去の上演内容についてはすでにレビューを執筆しているので、本評では、(1)コロナ禍の状況に対する批評的応答、(2)Zoom機能の効果的使用による「コミュニケーション」の焦点化、の2点について述べる。



Q オンライン版『妖精の問題』より 一部「ブス」


まず、(1)について。「なぜ今、その作品を上演するのか」という同時代的アクチュアリティへの切実な応答が最も浮かび上がったのが、三部「マングルト」である。「膣内に常在する乳酸菌を利用して作ったヨーグルトを食べる」という健康法の啓発セミナーが展開されるのだが、創始者の「淑子先生」が「マングルト」開発に至るまでの自伝的語りが改めて訴えかける。多感な思春期に「性は汚いもの」という価値観を植え付けられ、極端な潔癖症になったこと。喫煙者、病人、障害者などを「不潔な存在」として嫌い、同じ空気を吸わないように息を止め、マスクを三重にし、手洗いするため席を離れたこと。「自分は清潔だ」と思い込むことで自分自身を守ろうとし、「清潔」の強迫観念と「殺菌」思想に憑りつかれた彼女の姿が、「他者」「異物」への排除と表裏一体であることは、まさに今の社会の鏡像だ(そのあと彼女は、抗生物質で善玉菌を殺したことで膣内バランスを崩し、女性器の感染症を発症した経験を経て、「菌との共生」に思考を転換する)。

一方、(2)オンライン版におけるZoom機能の使用は、これまでの劇場上演との比較によって、三部それぞれにおける「コミュニケーション」の異なる位相を浮上させる。まず、女子中学生2人の掛け合いを落語形式で語る一部「ブス」は、「自宅でのZoomによる会話」に置き換えられる。二部「ゴキブリ」では、豚骨ラーメン屋の近くに住む主婦が、ゴキブリ駆除に悩まされる日々、ゴキブリの異常な繁殖力、夫とセックスの意思疎通がうまくいかないこと、夫が勝手に焚いたバルサンの煙を妊娠中に吸ってしまい、「異常」な子どもができたことを、ジャズ調の曲で歌い上げる。俳優は自宅で演技するが、「主婦・妻」の「舞台」はキッチンがあてがわれる。これまでの劇場上演では、「妻」と「夫」のモノローグのパートを一人の俳優が歌い分けていたが、オンライン版では、それぞれ女優と男優が担当。Zoom画面を切り替えて登場するが、「Zoomを使っているにもかかわらず、一切『会話』しない」という齟齬は、「(バルサンを焚くのを相手に伝えなかったように)家事でもセックスでも意志疎通のうまくいかない夫婦」がより鮮明になり、「コミュニケーションの断絶」を逆説的に際立たせる。


Q オンライン版『妖精の問題』より 二部「ゴキブリ」


さらに、三部「マングルト」は、「Zoomセミナー」の形式への変更に加え、チャットやアンケートの送受信といったリアルタイムでの「参加」を、フィクションの仕掛けとしても実際の観客参加としてもうまく取り込んで成立させた。「セミナー参加者からのメッセージの表示」「参加者からの質問に答える」というフィクショナルな仕掛けが、「講師と参加者の(疑似的な)交流」を演出し、臨場感を高める。また、観客は、要所要所で、「発酵食品とそうではない食品のどちらを選ぶか?」「除菌グッズを使用したことがあるか?」「マングルトを汚いと思うか?」といった「質問」に答えるよう促され、「送信結果の集計」がグラフで視覚化され、講師役がコメントする。ポイントの顕在化とともに、観客に主体的に考えさせるこの仕掛けは、(劇場での上演とはまた別の)臨場感をもたらした。



Q オンライン版『妖精の問題』より 三部「マングルト」


『妖精の問題』の戯曲の特徴は、「落語」「歌謡ショー」「セミナー」という形式を借りることで、「モノローグ」の虚構性や不自然さをクリアさせた点にあるが、今回のZoomを用いたオンライン版では、コミュニケーションの素朴な肯定、失敗や断絶を経て、観客=視聴者参加型の双方向性へと拡張されていく段階性に特徴があり、「Zoom演劇」の開拓としても意義がある。だがより本質的な意義は、看過されるべきではない。コロナ禍による劇場閉鎖、上演中止・延期の状況下では、「なぜ舞台芸術が必要か?」という問いとともに、「なぜ今、その作品を上演するのか?」という自己反省的な問いに対する根拠が、より強く問われる。もちろん、オンラインを使った新たな表現手法の試みという面も重要だが、単なる代替案でも一過性の消費でもなく、この自己反省的な問いに本公演は真摯に答えていた。

公式サイト: http://qqq-qqq-qqq.com/?page_id=1451

関連レビュー

Q オンライン版 『妖精の問題』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年06月01日号)

市原佐都子/Q『妖精の問題』|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年12月01日号)

2020/05/16(土)(高嶋慈)

Q オンライン版 『妖精の問題』

会期:2020/05/16~2020/05/17

今回「オンライン版」として上演された『妖精の問題』はQの代表作のひとつ。2017年にこまばアゴラ劇場で初演されて以降、横浜、京都、ニューヨークと再演され、2020年4月には白水社から刊行された市原佐都子の初の戯曲集『バッコスの信女─ホルスタインの雌』に戯曲が収録された。戯曲は落語による一部「ブス」、歌唱による二部「ゴキブリ」、セミナー形式の三部「マングルト」の三部構成で、もともとは俳優・竹中香子による(ほぼ)ひとり芝居として上演されたもの。今回は戯曲はほぼそのままに複数の新たなキャストを迎え、オンライン用に再構成しての上演となった。

一部「ブス」は互いにそう認め合うふたりの「ブス」の学生(寺田華佳、遠藤早菜)のオンラインでの会話を描く。近づく選挙では逆瀬川志賀子率いる「不自然撲滅党」が話題を集めているらしい。彼女は平均(美男美女)から外れた顔を持つ人間は死ぬべきだと主張する。「ブス」の一方は平均から外れた自分は「天才」だから整形して「完璧の人類」として生きていくと言い、もう一方は迷惑な「ブス」は子孫を残すべきではないし自分は「一刻も早く消えてほしい」と言う。

Q オンライン版『妖精の問題』より

二部「ゴキブリ」で描かれるのは家に出るゴキブリに悩まされるある夫婦(西田夏奈子、日髙啓介)。ある日、夫が大量に焚いたバルサンを妻が吸ってしまい、胎児に「異常」が見つかる。一方その後、家には「異常のあるゴキブリ」がしぶとく生き残っているのであった。

Q オンライン版『妖精の問題』より

三部「マングルト」は女性器に棲息するデーデルライン桿菌で作ったヨーグルトを使った健康法(?)についてのセミナー。講師(竹中香子)と助手(山根瑶梨)が「マングルト」をはじめた淑子先生(山村崇子)のエピソードを交えつつマングルトのつくり方や効能を観客にレクチャーしていく。

Q オンライン版『妖精の問題』より

タイトルの「妖精」が示すのは「見えない(ことにされている)もの」。三部に共通するものとしてたとえば「遺伝子」を挙げてみることもできるが、いじめの常套手段である「無視」や人前で口に出すことを避けがちな「女性器」など、「見えない(ことにされている)もの」というキーワードの射程は広い。市原は『バッコスの信女─ホルスタインの雌』のあとがきで「自分のなかにある優生思想」に言及しており、なかなかに直視しがたいそれ=「見えない(ことにされている)もの」に対峙させられる凄みがこの作品にはある。

Zoomを使ったオンラインでの上演としてもよくできた作品だった。もともとほとんどがモノローグで構成されている作品のため俳優が正面を向いてしゃべり続けていてもさほど違和感がなく、Zoomと相性がよかったというのもある。だが、一部はオンライン通話、二部はミュージカル調の映像作品、三部は観客も巻き込んでのオンラインセミナーと、同じ画面を使いつつ形式をずらし、バーチャル背景やアンケートなどZoomの機能もフルに活用しての上演は形式への貪欲な探究と演出の巧みさの賜物だろう。

しかしそれでも、作品の出来不出来とは異なるところで、この戯曲はやはり劇場で上演されるべきものだという印象も受けた。市原が「自分のなかにある優生思想」と向き合うところから生まれたという『妖精の問題』にはもともと危ういところがある。一部における「ブス」、二部における「異常」はそれぞれ、ラストに至ってプラスの価値を持つものへと反転するようにも思える。だがそれはけっして広い意味での「役に立つ」という尺度から抜け出るものではない。大きな意味でのパラダイムの転換は起きていない。だからこそ、観客がそれをどう受け取るかが、さらに言えば、同じ客席で作品を受け取る「世間」としてのほかの観客の存在が重要になってくる。

三部にしても同様だ。女性が女性器名を連呼するのを聞く(特に男性の)観客の多くは居心地の悪い思いをするのではないだろうか。少なくとも私はそうだった。そしてそれはほかの(特に女性の)観客とともに客席に座る劇場においてより強く生じる感覚だろう。劇場での竹中香子の怪演にもそこで語られる言葉を容易に飲み込むことを許さない迫力があった。ひとり芝居として竹中が複数の人物を演じるという形式も、容易には割り切れない感情や価値観を体現するのにふさわしいものだった。オンライン版は巧みだった分、全体はマイルドで受け取りやすいものになっていた。それは悪いことではない。そうでなければ画面の前での130分は耐えられなかったとも思う。だが、自分とは異なる価値観を持つかもしれないほかの人間の存在が想定されなくなったとき、「舞台」上での差別的言動や性の解放は容易に娯楽として消費されるだろう。私はまだ、自分を含めた日本の観客をそこまで信用できない。


公式サイト:http://qqq-qqq-qqq.com/


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市原佐都子『バッコスの信女─ホルスタインの雌』 │ artscapeレビュー(2020年05月15日号) | 山﨑健太
市原佐都子/Q『妖精の問題』 │ artscapeレビュー(2018年12月01日号) | 高嶋慈

2020/05/16(土)(山﨑健太)

dracom『STAY WITH ROOM』

会期:2020/04/11〜

『STAY WITH ROOM』はdracomによる音声作品。2020年6月までに【Prologue】【1】【2】【3】の4本とdracomのリーダー筒井潤ソロ名義での特別編『ずっと、いたんだよ』が公開されている。この作品の面白さについては出オチ的な側面も強いので、レビューの続きを読む前にぜひ作品本編を鑑賞していただきたい。【Prologue】は約6分と短め、もっとも長い特別編でも約13分となっている。



タイトルが示唆する通り、『STAY WITH ROOM』はステイホームが叫ばれるなか、「部屋にいること」そのものに焦点をあてた作品だ。5本の作品はいずれもYouTubeで公開されていて、本編が始まる前には「スピーカーを使用した、微かに聴こえるほどの小音量」と「フルスクリーン再生」が推奨する鑑賞方法であるとの注意書きが表示される。音声作品であるにもかかわらず「フルスクリーン再生」が推奨されているのは、ディスプレイがオフになっているかのような状態をつくり出すためだろう。タイトルが表示されると画面はゆっくりと溶暗し、以降、画面は黒一色となる。

「こっち見て」「こっちこっち」「こっちだって」「わからない?」と囁く声はまるで鑑賞者である私のことを知っているかのような口ぶり。「たまにはこっちを見て」というその何者かの正体は「あなたの部屋」だ。【Prologue】は「見てくれてない」「だからたまには見て」という部屋がしばしの沈黙の後、「ちゃんと見てる?」と再び問いかけるところで終わる。

部屋が語りかけてくるというワンアイデアが作品として成立するのは、ユーモラスな語り口とアイデアをシリーズとして転がす機知のなせるワザだろう。そこにはしかし部屋の存在論とでも呼ぶべき哲学的(?)問いも孕まれている。【1】の冒頭は【Prologue】のラストを反復するように始まるのだが、「見て、じーっと、部屋を」という言葉に従って自室を眺めていた私は続く「違う、こっちじゃない」「それは壁」という言葉で思わず笑ってしまった。なるほど確かに私が見ていたのは壁だった。しかしそれでは「部屋を見る」とはいかなることか。部屋の内部にいながらにしてそれは可能なことだろうか。

オンラインを使って演劇を成立させようとするとき、鍵となるのは観客の想像力だろう。いかなるかたちであれ、観客が作品を鑑賞している現実だけはリアルタイム=生のものであり、そこに演劇を立ち上げる契機がある。『STAY WITH ROOM』はパソコンのディスプレイがオフになっている状態を擬態しつつ「声」だけを聞かせることで、観客のいる部屋を「俳優」に仕立て上げる。このとき部屋は俳優であると同時に劇場でもあるわけだ。

だが、「違う」「それは壁」という「部屋」の言葉は観客の想像力をはぐらかす。生真面目な観客は、それが「演劇」的なものだとわかっているからこそ、聞こえてくる言葉を「部屋」が語るそれとして受け取ろうとするだろう。だが、「私が見ているこの部屋が語っているのだ」という観客の想像は、部屋の「違う」「それは壁」という言葉で否定されてしまう。つまり声は、観客が想定していたのとは違うところから聞こえてきているのだということになる。ここには何か、単に部屋が語っているのだと想像するのとは違う、よりいっそう演劇的なものがありはしないだろうか。


公式サイト:http://dracom-pag.org/
dracom『STAY WITH ROOM【Prologue】』:https://www.youtube.com/watch?v=iSaFRU4PKO4

2020/05/10(日)(山﨑健太)

くものうえ⇅せかい演劇祭2020 キリル・セレブレンニコフ『The Student』

会期:2020/05/05~2020/05/06

「ふじのくに⇄せかい演劇祭」の中止を受け、開催予定だった4月25日~5月6日の期間、映像やトーク企画などの配信を行なう「くものうえ⇅せかい演劇祭」が開催された。『OUTSIDE-レン・ハンの詩に基づく』を上演予定だった、ロシア出身の演出家・映画監督のキリル・セレブレンニコフは、カンヌを始め世界各地の国際映画祭で評価を得た長編映画『The Student』(2016)を映像配信した。セレブレンニコフの映画作品は、日本初公開となる。

原作は、ドイツの劇作家マリウス・フォン・マイエンブルクの戯曲『Märtyrer(殉教者)』。主人公の男子高校生ヴェーニャは、水泳の授業をさぼったことが原因で母親と口論になる。問い詰める母親に対し、ヴェーニャは母が思ってもみなかった理由を口に出す──「水泳の授業は、自分の信仰と反する」。彼の「宗教的理由」は認められ、ヴェーニャはプールサイドでひとり、聖書を読みふける。だが、社会の縮図である学校は多様性の容認や異なる価値観の共存へと進む代わりに、「聖書の正しい言葉」を後ろ盾にヴェーニャが唱える原理主義に次第に染まり、さまざまなマイノリティ差別の構造を露わにしていく。

本作で描かれるのは、狂信的な原理主義とリベラルの対立の構図である。日和っているうちに感化され、「正しい」と思い込んで扇動されていく周囲の教師たち。ヴェーニャは、堕落と不貞を戒める聖書の語句を引用し、「ビキニは水泳の授業に相応しくない」と主張。女子生徒たちはカラフルなビキニの代わりに、黒いスクール水着と水泳帽を着用させられる。その光景を聖書を手に二階席から見下ろして微かにほくそ笑むヴェーニャは、大人や教師に従うべき「生徒」が、「大人たち」を支配しているという逆転構造を優越感とともに露わにする。「聖書=正義」の言葉が自分に権力を与えているという実感は、彼が「生徒」だからこそ、その歪さがより際立つ。


一方、ヴェーニャと徹底的に対立するのが、リベラルな生物学教師のエレナである。進化論の授業、セクシュアリティの多様性やセーフ・セックスについて講義するエレナに対し、ヴェーニャは畳みかけるような聖書の引用によって論戦を仕掛ける。「神はすべての造物主」、「同性愛は死に値する」、「婦人は男に教えたり、男の上に立つな」、「アダムはエヴァより先に生まれた」「女は、子を産むことによってエヴァの犯した罪から救われる」……。「聖書は2000年も前に書かれたもので、現代の価値観や科学とは相いれない」と反論するエレナに対し、ヴェーニャは彼女の名前がユダヤ系だからキリスト教を嫌悪するのだと言い返す。また、ヴェーニャを秘かに慕う同級生は、「足の障害を治す」奇跡を起こそうと、自分の足に触れて祈りを唱えるヴェーニャに欲情を覚えるが、「あらゆる病は懲罰」「女と寝るように男と寝るな」といった聖書の引用を投げつけられる。このように、聖書に依拠した彼の「正義」は、同性愛差別、女性差別、女性の「性の自己決定権」の否定、「進歩的」な性教育へのバックラッシュ、民族・人種差別、障害者差別といった「マイノリティ」を攻撃・排除する論理として作用し、社会の不寛容や根強い排他意識の病巣をあぶり出す。「大人・教師が生徒を管理する」閉じたコミュニティ、すなわち社会の比喩である「学校」を舞台に描く本作は、その意味できわめてリアリズムと言える。

ここで、ヴェーニャの台詞が「聖書の引用」で構成される点も重要だ。引用すなわち「自分自身の言葉ではない」ものを、自分の主張に合わせて都合よく切り貼りし、利用すること。また、ヴェーニャに「反論」を試みるエレナが、聖書を読み込んで「彼の主張」を切り崩す論拠に使おうとするくだりは、自説の論拠が反撃相手にも使用されるという両義性や脆弱性を示す。「相手の用いた言葉自体のなかに、反論や矛盾の根拠を見出そうとする」態度はまた、例えば歴史修正主義者の常套手段をも想起させる。

終盤、ヴェーニャは「殺人」と「虚偽の告発」という二重の罪を犯すが、最終的に「裁き」は下されない(前者は「事故」と片付けられ、「女性教師のエレナに身体を触られた」という後者は、校長はじめほかの教師たちが信じてしまう)。クビを言い渡されたエレナは、自分の足を靴ごと釘で貫いて床に打ち付け、「それでも私は出ていかない、ここは私の居るべき場所だから」と叫ぶ。この壮絶なラストは、原作戯曲のタイトル「殉教者」の方がわかりやすいだろう。それは、エレナはリベラルで進歩的な思想の持主だが、彼女自身もまた、自らの信念に狂信的な「殉教者」であるという両義性をつきつける。




「聖書の語句を引用しまくる緊迫した論争シーン」は長回しで撮影され、激しい長台詞の応酬は演劇的であると同時に、「台詞それ自体が『引用』である」という自己言及性は、一種の演劇批判でもある。一方で映像は、表向きは禁欲主義的なヴェーニャの態度とは裏腹に、カラフルなビキニで泳ぐ少女たちの伸びやかな肢体を、揺らぐ水中で下から捉えるカメラの躍動的な浮遊感や、「足を治すために触って祈ってほしい」とズボンを脱ぐ(脱いで誘惑する)同級生の太腿の窃視的なカットなど、エロティックな映像美が目をひく。「姦通するな」と聖書の言葉で「防御」しつつ、性に揺れ動く思春期のヴェーニャの内面的な危うさを、映像によってすくい上げていた。

公式サイト: https://spac.or.jp/festival_on_the_cloud2020

2020/05/05(火)(高嶋慈)

あごうさとし『無人劇』

会期:2020/04/29

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

「出演者、スタッフ、受付、そして観客も不在のまま、無人の劇場で上演される演劇」というきわめてコンセプチュアルな試み。本作を「鑑賞」する観客には、「開演時間の14:00に、自分が今いる場所で、一度、大きく呼吸する」ことだけが呼びかけられている。「入場料」は、劇場の運営費として活用される。演出家・劇作家のあごうさとしはこれまで、スピーカーやモニターを空間に立体的に配置し、録音音声や映像のみで構成され、生身の俳優が不在の「無人劇」を発表し、演劇の複製の(不)可能性について問うてきた。一方、本作は、コロナ禍による自粛要請で閉鎖中のTHEATRE E9 KYOTOの芸術監督であるあごう自身の、より切実な現状への異議申し立てであると同時に、「演劇」に対するメタ的な思索を多角的に含む点で、大きく異なる。

第一にそれは、相次ぐ「上演中止や延期」の事態を逆手にとり、「人々が集うこと」が禁止され、「たとえ『俳優もスタッフも観客も不在』であっても、上演は行なわれている」とする宣言である。同時に、「なにもない裸の舞台をひとりの人間が横切り、別の人間がそれを見つめることで演劇行為が成り立つ」とするピーター・ブルックの「なにもない空間」のコンセプトを参照すれば、「演劇」をどこまで最小限の単位に切り詰められるかという、モダニズム的な還元性の思考実験を徹底的に推し進める側面も持つ。また、「観客が実際に見ることができない」、すなわち徹底した「表象の禁止」は、一種の上演批判としても機能する。同時にそれは、観念性のレベルを超えて、「実際に劇場が(法的権力によって、あるいは「SNSでの批判の炎上や電凸」といった匿名的な攻撃によって)封鎖された事態」において、本来ならそこに集う観客に何ができるか? を問うシミュレーションでもある。

何もない、誰もいない、虚無的な時空間に向かって想起を向けること。それは、一種の「黙祷」さえ思わせる(そこで追悼を捧げられるのは、コロナ禍による「文化的な死」なのだろうか)。だがここに、逆説的な希望があるとすれば、通常の「黙祷行為」のように、「ある一定時刻に、その場所に集った人々を悲劇的出来事の中心性へと集約させる」ことで、(例えば「ヒロシマ」のナショナルな領有におけるような)国民国家的な共同体を強化・再生産する強制的な枠組みを欠いていることだ。観客は、自分が今いるその場所で、ただ、「呼吸」を行なう。ここに本作の賭け金がある。普段は無意識的に行なっているが、生命維持に必要不可欠な行為である「呼吸」、すなわち「同じ場所で他人と同じ空気を吸って吐く」ことが禁止事項とされている事態。「呼吸」というきわめてささやかだが、抵抗でもある行為を通して本作は、個々の観客が、それぞれの場所で、バラバラに孤絶されたまま連帯を示すことの可能性を提示していた。

公式サイト: https://askyoto.or.jp/e9/ticket/20200429

2020/04/29(水)(高嶋慈)

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