artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
若だんさんと御いんきょさん『チラ美のスカート』
会期:2023/09/23~2023/09/24
THEATRE E9 KYOTO[京都府]
同じ戯曲を3人の演出家がそれぞれ演出した3本を連続上演する画期的なシリーズが、6回目を迎えた。企画は「若だんさんと御いんきょさん」(演出家の田村哲男とコトリ会議の若旦那家康によるユニット)。2019~2021年の3年間は、安部公房の戯曲を上演。4年目からは、山本正典(コトリ会議)の短編を若手演出家がそれぞれ上演した。未上演作品の『すなの』(2022)、書き下ろしの『かさじぞう』(2023)に続き、今回は山本自身が演出し、2018年に第9回せんがわ劇場演劇コンクールで劇作家賞を受賞した『チラ美のスカート』が選ばれた。
『チラ美のスカート』は、天王星衝突による地球滅亡が2週間後に迫ったある夜、研究室/崖の上にいる2組のカップルを描いた会話劇である。絶望的な状況や死にどう向き合い、「自分を置いて行った」相手に対してどう行動するのか。構造的には類似した2組のエピソードが交差しながら反復されるだけに、ラストの対比性が際立つ。
1組めのカップルは、研究室にこもる発明家の男(田中)と、久しぶりに会いに来たチラ美。外の浜辺には、地球滅亡のニュースに追い詰められて崖から飛び降りた人たちの死体が打ち上げられているという切迫した状況らしいのだが、2人の会話は「チラ美が履いてきたスカート」をめぐってすれ違う。「あなたが昔買ってくれたスカート」を見つけて、運命を共にする覚悟を決め、そのスカートを履いてきたと言うチラ美。だが田中は、発明したばかりの小さな機械を見せ、順序をすっ飛ばしてプロポーズしてしまう。動揺するもプロポーズを受け入れ、「月の見納めをしてお月見婚にしよう」と言うチラ美。彼女にとっては、残り少ない時間を愛する人と一緒に過ごすことがまっとうな生き方なのだ。発明品を自殺装置と勘違いしたチラ美は「ずっとあなたと一緒よ」と手を重ねる。だが、これは実は「過去に逃げるためのタイムマシン」だった。延命や逃避を拒否し、愛に殉じようとするチラ美。タイムマシンを起動させた田中は、すれ違う気持ちを「スカートの思い出補正」にぶつけながら消失してしまう。「そのスカートは僕が買ったプレゼントじゃなくて、色が気に入らないと君がわがままを言って、買い直したやつだから」……。その瞬間、天王星の重力で月がバラバラに砕け、夜空が真っ暗になる。
一方、崖の上には、もう1組のカップルが座っている。見えるのは、はるか崖の下で点滅する原発の灯だけだ。2人はもう長い間ここに座っているらしく、「原発に行ってお風呂入りたい」と言う片方(千尋)。「こんな崖下りられないよ」と返すもう片方(桃)。「下で待ってるね」と千尋は姿を消すが、既に崖の下には彼女のサンダルの片方が落ちており、死者であることを暗示する。ふんぎりがつかないまま泣く桃は、同じく「この世界に一人取り残された」チラ美と出会う。「行ってあげないの」「死にたくない」。「やっぱり最期は一人より二人だよ」とチラ美に背中を押され、崖を伝い下りていく桃。そこに「スカートの件が中途半端だったから」と言い訳する田中が過去から戻ってくる。並んで朝日を待つチラ美と田中。一方、崖の下では千尋の傍に桃が横たわっている。
1本目の演出を手がけた田宮ヨシノリ(よるべ)は、大きな解釈を加えずシンプルに上演。「タイムマシンから伸びるチューブ」が、切断しようとするチラ美と田中の溝を示すと同時に、崖の斜面や彼岸/此岸の境界線にも変貌する。ただ、「タップ付き延長コードの連結」はいささか雑であり、世界観を損ねてしまうのではないか。
2本目の湊伊寿実(シイナナ)の演出は、コミカルさと椅子の効果的な使用により、戯曲世界がより立体的に膨らんだ。「崖の上にいる」不安定な状況は、「椅子の座面の上にしゃがんで座る」危ういバランスの姿勢で示され、「椅子や机を倒す」動作で「失踪」「死」を示唆する。
変化球の演出が光っていたのが、3本目の小林留奈(白いたんぽぽ)。感情を抑えた発声と、音楽劇の要素を取り入れた演出により、シリアスとリリカルさの対比が際立つ。「月が粉々に砕けた」シーンは、舞台上にばら撒かれ、飛び跳ねるスーパーボールで表現。散らばったカラフルなボールは、夜空の星屑のようにも、千尋と桃を取り巻く無数の死者たちの魂にも見える。「すな」「ほし」「ふうせん」「しずく」「さくらんぼ」といった「小さな丸いもの」の連想をささやく声に、「ポツポツ」「ポポポ」といった擬音のリズムとハミングが加わり、「この世とあの世のあわいにある空間」を音響的に出現させる。ゆっくり立ち去る千尋と、後を追えず座り込んだままの桃。引き止めるように桃が伸ばした指先にあたり、音もなく転がっていく小さなボールは、一滴の涙を想起させる。
そして、この小林演出の最大のポイントが、「崖の上のカップル」を女性2人に置き換え、「異性愛のカップルを基本単位とし、男性中心主義的視線で描かれた物語」に対して(ある程度まで)批評的に解体を試みた点だ。実は『チラ美のスカート』という作品は、(タイトルからして既に)ジェンダーの観点から問題含みである。「自分が買い与えたスカート(=女性性の記号)を身に付けているかどうか」で自尊心と所有欲求を満たそうとする男。「チラ美」というネーミング自体、「パンチラ」を想起させるように、「男性による一方的な性的視線の対象物である」ことが書き込まれている。そして、2組のカップルの対照的な帰結は、「崖の上/自宅内の研究室」という空間設定の対比が暗示する。「崖の上(逃げ場のない瀬戸際、生/死の境界)」はわかりやすい。一方、「研究室」は「実は田中の自宅内」であることが判明するやり取りがある。唐突なプロポーズに対するチラ美の反応を見て「失敗した」と思った田中は、挙動不審に陥って「帰る」と連発し、「ここあなたの家」と言い聞かせるチラ美と食い違った会話を交わした挙句、「あなたと私の家」と言われて落ち着きを取り戻す。だが、彼が取り戻した「安心」を支えているのは、「あなたの家」に女性が嫁いでくるという構造の安定性ではないだろうか。
山本の戯曲に限らず、多くの物語は異性愛の男女カップルが基本単位である(前回と前々回の『かさじぞう』『すなの』も男女カップルの会話劇である)。小林の演出は、「恋愛=男女」という限定を解除してみせた一方、別の限界もはらんでいる。先述のように、2組のカップルの帰結は対照的である。安定した「研究室(=マイホーム)」に戻ってきた田中は、「明日の朝、太陽が昇ったらもう一回告白するんだ」とチラ美に言い、2人は明日の到来を信じて前向きに生きている。だが、不安定な「崖の上」にいた千尋と桃は、順番に崖=境界を通過し、死者の世界に横たわる。小林の演出では、末路の分岐が、「異性愛/規範外」の対比に重ねられてしまった。異性愛という規範に沿ったカップルは、(滅亡が迫りつつあるものの)ポジティブに前を向き、この世界に踏みとどまる。一方、その規範から逸脱したカップルは、崖っぷちに追い詰められ、この世界の外に「追放」される、もしくはこの世界には居場所がない。「恋愛=男女」という限界を乗り越えたようで、むしろ異性愛の規範を強化してしまうというねじれ。あるいは、「純愛であれ悲劇であれ、マイノリティの死がドラマのなかで反復され続ける」という回路の再生産。男女カップルを女性2人に置き換えるのであれば、その批評的意味や限界までさらに熟考して演出してほしかった。もしくは、例えば「終末ラブストーリー」という設定を逆手に取り、「異性愛が正しい規範とされる世界は、終わりや綻びを迎えつつある」という読み替えの余地もあったのではないだろうか。
「演出違いの連続上演を見比べることで、戯曲世界の拡張や批評的読み替えの可能性を感じることができる」という機会は、多くはない。また、若手演出家支援という点でも本企画の意義は大きい。山本の戯曲の連続上演は今回で一区切りだというが、今後もこの企画が続くことを願う。
THEATRE E9 KYOTO 若だんさんと御いんきょさん『チラ美のスカート』:https://askyoto.or.jp/e9/ticket/21968
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2023/09/24(日)(高嶋慈)
KIACレジデンス・セレクション2022→23「SPA of Narratives/声と語りの浴場」 ユニ・ホン・シャープ『ENCORE-Mer』
会期:2023/09/22~2023/09/24
城崎国際アートセンター[兵庫県]
「KIACレジデンス・セレクション」は、城崎国際アートセンター(KIAC)で滞在制作を行なったアーティスト3名による成果発表を連続上演する企画である。アートセンターの建物がかつて公共の温泉宿だったことに想を得て、「劇場」を、多様な声や語りが交差する「浴場」に見立てた。本稿では、言語と翻訳をめぐる権力構造、身ぶりの批評的反復、文化の統治としての植民地支配、アイデンティティの流動性や多重性をめぐり、緻密に練り上げられた構成が秀逸だったユニ・ホン・シャープのレクチャー・パフォーマンス『ENCORE-Mer』を取り上げる(以下、作家名はユニ・H-Cと略記)。
『ENCORE-Mer』は、日本統治時代の朝鮮半島出身で、日本に渡って学んだモダンダンスと朝鮮民族舞踊を融合させた舞踊家として知られる崔承喜(チェ・スンヒ/さいしょうき、1911-1969)についてのレクチャー・パフォーマンスと銘打たれている。だが、より正確には、「崔承喜についてのリサーチ」という形式や題材を借りながら、根底で語られているのは言語と翻訳それ自体がはらむ複雑な力学であり、ユニ・H-C自身のアイデンティティに対する自問である(崔承喜のアイコニックな写真は一切登場しないことは象徴的だ)。そして本作の最大の仕掛けが、「通訳(者)」という媒介の可視化と、「母語/非母語」という区分の撹乱や転倒の操作である。
冒頭から終盤近くまで、ユニ・H-Cは一貫して、非ネイティブであるフランス語であえて語り続ける。そのことは、「フランス語は、自分が話したいことを言える言葉である」「私にとって母語は一番話しやすい言葉ではなく、他者である」といった発言や、自身の発音からも推察される。そして、ユニ・H-Cが語るフランス語は、(語り手の傍に付き添うのではなく)舞台上で対面する位置に座る翻訳家・平野暁人を通して、「日本語」に置換される。このようにいくつもの手続きを経て、複数の言語間を横断する「翻訳」という行為そのものに構造的に光が当てられる。
ユニ・H-Cの語りは、崔承喜についてのリサーチプロジェクトを進める自身の日々の記録と、崔の経歴や当時の公演評の紹介という2つのパートを断片的に行き来し、私的な視点と歴史的な軸のあわいを不安定に揺れ動く。そこには、断片の集積によってのみ接近可能な歴史の語り口がある。「崔承喜の足跡」は時に捉え損ねられ、「泊まったホテルのある神宮外苑」という場所をとおして再接続される。
一方、「崔承喜の舞踊の記憶」は、複数の「身ぶりの反復(ENCORE)」によって主題化され、「民族の文化の継承」をめぐる、アイデンティティと植民地支配の複雑な問題を浮かび上がらせる。崔は戦前の日本で「半島の舞姫」と呼ばれ人気を博したあと、戦後に北朝鮮へ渡って自身の舞踊研究所を設立したこと、そして崔の舞踊は現在の在日コリアンの民族舞踊の源流であることが語られる。それは文字通り、「国家と国家のはざまの波打ち際」で伝えられた舞踊だった。1950~1980年代には多くの朝鮮半島出身者が「帰国事業」で海を渡り、移民船が行き来したが、北朝鮮籍の者は日本の領土内への下船を許可されず、船の上で踊りを習ったという。そしてスクリーンには、崔の舞踊を継承した在日コリアンの舞踊家のユン・ミユが、海からの強い風を受け、まさに浜辺で踊る姿が映し出される。
一方、別のシーンでは、崔の舞踊の力強いポーズの写真がスクリーンに映し出され、ユニ・H-Cはそのポーズを真似しようとするが、バランスを崩し「失敗」してしまう。これは「民族の記憶」としての身体言語を自らはもっていないことを示すと同時に、「崔承喜の舞踊」が内包するねじれた構造に対する批評的身ぶりでもある。ユニ・H-Cがさまざまなポーズの模倣に「失敗」を繰り返すあいだ、戦前の日本の文化人が崔の舞踊を評した言葉が平野によって読み上げられる。「崔承喜という舞踊家はいはば和製品であつて全部が国産である」(石井漠)、「崔承喜の舞踊を初めてみて、これは日本人舞踊家の中で一番感心した。崔承喜を日本人の中にいれていいだろう」(板垣直子)、「優れた人が朝鮮から出ることを日頃どんなにか望んでいるだらう。それは日本の為にも非常にいい」(柳宗悦)。「民族色」「異国情緒」をモダンダンスに取り入れた踊りが「日本人の」舞踊家として評価される事態は、帝国という中心/近代が周縁/伝統を美的な対象物として馴致しようとする、「文化の私有化」という植民地統治の形態にほかならない。「崔のポーズの模倣の失敗」は、そうした植民地主義の言説に取り込まれることへの抵抗である。「お手本」としてスクリーンに映される「ポーズ写真」自体、崔自身ではなく、現代の服装にサングラスをかけた怪しげな人物であり、明らかにパロディなのだ。
だが、「身ぶりの模倣」は別の政治性ももつ。「崔が16歳で石井の門下生になり来日した直後の1926年、大正天皇の葬列に皆で参列したが、崔だけが葬列に背を向けてお辞儀をした」というエピソードが語られたあと、「海岸でお辞儀をするユニ・H-Cの姿」がスクリーンに映される。崔の身ぶりは、植民地主義と帝国主義に対する抵抗として受け継がれてもいるのだ。
後半では、ユニ・H-Cと平野が位置を交換し、レクチャー/通訳、言語間の従属関係が入れ替わる。そして通訳者であったはずの平野による、ふざけた日仏翻訳講座が始まる。伝授されるのは「あらゆる言語を、世界一美しく完璧なフランス語風に発音するための3つのルール」。そして、「在日(zai-ni-chi)」という単語を「ゼニシュ」とフランス語風に発音するレッスンが始まる。そしてこれは、東京生まれで現在はフランスを拠点とするユニ・H-C自身が辿った軌跡の音声化でもある。かつて呼ばれた「在日」という名は、フランスでは「ゼニシュ」という「美しい音」に変換されてしまう。ユニ・H-Cは「私は日本語とも韓国語とも違う、安全地帯としての言葉を必要とした」と語るが、ここには同時に、他者の言語を「発音・聴取可能な音」に変形し、ノイズを排除してしまう「翻訳」の暴力的な側面が露出する。
「崔承喜」という名自体、「チェ・スンヒ/さいしょうき」という2つの発音をもっていた。そこには、植民地支配者/被支配者という非対称性が言語間の関係として投影されている。そして、「崔承喜についてフランス語で語る」行為は、そうした言語の権力関係や重力圏から脱する一方、植民地支配の根幹の問題により深く触れる面ももつ。1905年、日露戦争を終結したポーツマス条約で朝鮮半島の一部の利権が日本へ譲渡され、植民地支配の土台となったが、この条約はフランス語で交わされたことがレクチャー内で語られる。この事実は、西洋(の辺境)に初めて勝利した日本が、「西洋の承認」を得て欧米列強の仲間入りをしたことの象徴でもある。
終盤、ユニ・H-Cと平野はそれまでそれぞれがしゃべっていた言語を交換し、ユニ・H-Cが日本語で、平野がフランス語で、かつ両者が同時に声を発する。互いを打ち消すように重なり合う声は聞き取りにくいが、「母語/非母語」という区分や「翻訳」という営為それ自体をかき消し無効化するようでもある。「翻訳によって安全地帯の外へ連れ出されていく」という声が、かろうじて私の耳に届く。「安全地帯」などどこにもなく、常に複数の言語や権力関係が交錯し、反転し、密通し合う場のただ中に私たちがいることが、音響的に示されるのだ。
KIACレジデンス・セレクション2022→23「SPA of Narratives/声と語りの浴場」:http://kiac.jp/event/2334
ユニ・ホン・シャープ『ENCORE-Mer』:http://kiac.jp/event/2377
2023/09/23(土・祝)(高嶋慈)
ソー・ソウエン「Your Body is the Shoreline」
会期:2023/09/16~2023/10/14
√K Contemporary[東京都]
ここ最近、なんとか働きながら、わたしはソウルに断続的に滞在している。でもソウルといってもかなり森のほとり。最寄りのスーパーまでバスを乗り継いで20分くらいかかる(コンビニは徒歩20分)。鶏卵を買いたくて巨大なスーパーをウロウロしていたら、30個入りがあった。6個入りより断然お得。ただし、その卵ケースは下が再生紙、その上にプラスチックのカバーがふんわり掛かっていて、再生紙とプラスチックは30個の卵をサンドイッチしているだけで、両者を束ねる十文字に掛けてある結束テープが頼みの綱だった。買おうと持ち上げた途端、ぐにゃりと再生紙がたわみ、卵がケースからズルズルと落ちていきそうな気配を感じる。バスで帰るには荷が重いと、買うのをやめた。
ソー・ソウエンの個展が東京の神楽坂にある「√K Contemporary」で開催された。間接照明の効いた広い空間に入ると、スポットライトを浴びた鶏卵が床に点在していた。卵はフロアのタイルの目地にうまく収まっていて不安定な様子はない。ものによってはお尻がひび割れていた。壁には二つのパフォーマンスのアーカイブ映像が掛かっている。
ひとつ目は屋外のポールの傍らに立つ人の映像だ。その人は上半身裸で、ポール(や木)と身体の間に卵を介在させている。卵が割れないように、愛しいものにこんな風に頬擦りできたらいいなというように。もう一方は女性のかかとと床の間に卵が挟まっている状態を撮影したもの。つま先立ちをしているのか、卵は案外割れない。とはいえ、スカートの裾から覗くかかとの様子からして、力加減をコントロールしているわけでもなさそうだった。程なく卵はピキっと音を立て、かかとはゆっくりと卵の殻を崩していき、黄身と白身をどろりと押しつぶしていく。
わたしは壁にもたれ掛かって映像をぼんやり見ていたが、足元を見ると、会場の壁際をぐるりと一周するように文字が書かれている。冒頭だけ抜粋しよう。
「《エグササイズ》 Eggsercise 傷つきやすい身体で生きていく理由が知りたい。くぼみやへこみ、柔らかいところ。どうしてこんな形をしているのか知りたい」。
ソウエンは点描画で有名な作家だ。この卵をめぐる作品を見た後でペンティングを見ると、その1点ずつが、描かく対象を見つめた行為の軌跡に見えてくる。いくども、いくども、触れるように眼差したのだろうか。ひとしきり作品を見回ると、吸気と呼気が音声として会場に響いていることに気づく。ペインティングの掛かる壁の隅に設置されたスピーカーはソウエンの呼吸を伝えるものだ。点描画の反対側には「すいこむ はきだす」と鉛筆で書かれ続けたキャンバスがあった。無意識的な行為としての呼吸ではなく、何かがすいこまれ、はきだされているし、それを続けなくてはならないという、物質としての人間の静かな強迫観念がまとわりつく。「僕達は本当に怯えなくてもいいのでしょうか」と彫りつけ続ける福岡道雄と比べれば、次の瞬間には忘れてしまいそうだが幾度となく襲ってくるような。こうなってくると、先の点描画も、触れるように眼差すというより、その描かれた対象が確固たる個物として眼差されたというよりも、すべてを点で描くことが、すべての自然、あらゆる事物が等価であるという立場に基づいた描画に思える。
展覧会の順路は、このペインティングのフロアから地下へとエレベーターで向かう。真っ暗な会場に広がっているのは15個ほどのディスプレイに映し出された呼吸で上下するヘソの映像だった。ディスプレイごとにそれぞれの呼吸の音が流れているようだが、ディスプレイ同士の距離が近く、呼気の違いを辿ることができない。肌の色と質感、傷跡、脂肪の具合。区別可能なほどに異なる、個を直観させる身体的部位としてのヘソは、その一方で他者と十月十日つながった形跡でもある。哲学者のエマヌエーレ・コッチャが「生物と無生物の間にはいかなる対立もない。(中略)生はつねに無生物の再受肉であり、無機物の組み合わせであり、一つの惑星」
だというときに、ヘソは過去のあらゆる生物の集合であり通過点であるゆえに、もっとも人体において個が表われる部位だろう。しかし、人はその生において平等ではない。ソウエンはステートメントで「『わたしの身体はわたしのもの』という考えは(ジェンダー、階級などにおける)様々な闘争のもと確立されてきました」と、「わたし=身体」という前提が人類が獲得してきた革命の結果であると同時に、個人主義や大きな分断と隣接する契機となったことを記述する
。呼気が主要なモチーフであることを加味し、例えばジャン=リュック・ナンシーもまたcovid-19がその生物(と無生物)の等価性に人類が立ち返る可能性を見出したが、それは叶わなかった ことが想起される。ソウエンの言葉は次のように続く。「本展が、上に述べた人類の革命の歴史に敬意を払いつつ、身体というわたしから近くて遠い場を探求する様々な実践を通して、生きることがもたらす傷やジレンマを眼差し、解きほぐしていく機会になることを願っています」。なぜソウルで鶏卵はこんな傷つきやすい売られ方をしているのだろうか。聞くと、30個入りの卵は移動販売の名残らしい。わたしはどうしても30個入りの卵が買いたくて、今度はタクシーで帰ることにした(ソウルはタクシーがとても安い)。持ち上げた瞬間とてつもない緊張が走った。卵を食べるという人類の歴史は長い。紀元前約1万年前、狩猟採集民族であるクロマニョン人による壁画にはすでにタマゴが描かれ、彼らは放浪生活から定住生活へ移行するなかでメスの野鶏の家畜化を進めたし、紀元5世紀頃著された世界最古の料理書『料理大全』にはカスタードクリームのレシピが記載されている
。ソウエンはなぜ卵に頬擦りすることにしたのか。それは、人類がもっとも手づから割ってきた命だからだろう。21日間温めたら孵化しただろう卵は命の象徴であると同時に、無生物でもある。人は人に対してどこまでも残酷になるにもかかわらず、かかとで割ってしまった卵へも時に罪悪感を抱くのであれば、この生物と無生物の等価性、曖昧さに立ち返ることは、あらゆる事物もまた自己と結びつくということに人が立ち返るひとつの方法になりうるのかもしれない。ソウエンならこの30個の鶏卵をどうするのだろうと思った。会期中、ソウエンが会場と自身の体の間に卵を挟むパフォーマンスが行なわれた。その様子をもし見ていたら、ソウルのスーパーでのソウエンの振る舞い、すなわち、きわめてバナキュラーで個別具体的な卵とソウエンの付き合い方もまた想像できた気がする。
本展は無料で観覧可能でした。なお、まもなく京都で「FATHOM─塩田千春、金沢寿美、ソー・ソウエン」が開催されるそうです。
2023/09/21(木)(きりとりめでる)
安住の地『かいころく』
会期:2023/09/15~2023/09/18
日本基督教団 但馬日高伝道所[兵庫県]
「なぜだろう、と思った。いつか終わらせるいのちであるのに、なぜいまそうやって泣くのだろう」。
安住の地『かいころく』(企画・脚本:私道かぴ、出演:森脇康貴)は、蚕飼いの家に生まれ育ったひとりの男の語りを通して、かつて国の発展を支えた蚕と養蚕家の生に、国のために散ることを強いられた命に、そして生きることの意味に思いを馳せるような作品だった。もともとはかつて養蚕農家だった古民家での公演機会を得たことから構想された作品なのだという。私が観た豊岡演劇祭2023フリンジセレクションでの上演は日本基督教団 但馬日高伝道所で行なわれたのだが、そこが会場として選ばれたのも、天井の高さと風通しのいい空間が養蚕農家のそれとよく似ていたかららしい。
上演時間30分の短編作品ながら、蚕を通して命の有様と人間の営みの不条理を浮かび上がらせる巧みな構成と詩情に溢れた言葉には強く心を揺さぶられた。何より森脇である。生きる意味を問いながら、同時にそんなものがあろうがなかろうがどうしようもなくそこにあり、そして生きようとしてしまう命の姿を描いたこの作品がここまでの強度を持ち得たのは、四方を囲む観客の前にひとり立ち、語り、動き続けた森脇の身体が、命がただそこにあるということの説得力を宿していたからにほかならない。安住の地の、そして俳優・森脇康貴のレパートリーとして今後も長く上演し続けていくにふさわしい作品だと思う。
屍のように舞台に横たわる男。微かに残る命を示すように身じろぎした男は、降りはじめた雨に誘われるようにして自らの来し方を思い起こす。さわさわという五月雨の音は、かつて男が慣れ親しんだ、蚕が桑の葉を食むその音に似ていたのだった。
男は貧しい蚕飼いの家に生まれた。農業を営むには適さないその土地に住む一家にとって、蚕は糊口を凌ぐ唯一の手段だった。朝な夕な蚕の世話に追われる毎日。それでも男はそれなりに満ち足りて日々を過ごしていた。しかしある日、男は母の背に、その目に倦怠を見る。「来る日も来る日も、蚕の世話に追われて過ぎるこの生活は、いつになったら明るくなるのだろうか」。また妹は、美しい糸をとるために、繭の中で生きたまま煮られる蚕を思い涙を流す。そんな妹の態度は男のなかに苛立ちを呼び起こす。「それならなんで蚕はこうして生きているのか。知らない。それならなんで私たちはこうして何万頭も産み送り出しているのか。知らない。わたしは何も知りたくない」。
蚕の生を巡る問答はやがて、戦争を背景とすることで人間の生を巡るそれへと折り返されるだろう。「何も知りたくない」という男の言葉は、知ってしまえば生の無意味さに、世界の不条理さに耐えられなくなってしまうことに気づいているがゆえのものだ。妹への苛立ちもまた、憐れみを向けられた蚕の運命が、自らのそれと重なるものであることに気づいているがゆえのものなのだ。やがて男のもとにも召集令状が届くことになるだろう。
そして戦地で死の淵にある男は祈りの空間である教会で自らの来し方を振り返り、そこは束の間、生家である養蚕農家と二重写しになる。床に点々と散る繭は包帯に包まれた体を暗示するようでもあり、どこか銃弾のようでもある。貧しい家族の生を支え、主要な輸出品として国の発展に寄与し、そしてときに軍需物資の材料ともなってきたその繭は、死を内包して静かに転がっている。
「幾日も手をかけ育てた子らを、一瞬にして奪われる営みよ。出兵の前の晩、がらんどうとした蚕部屋。そうか、わたしはあそこに居たのだ」。 出荷を終えた蚕部屋はシンと静まり、かつてそこに満ちた「桑がいのちを終える音、蚕がいのちを繋ぐ音」ももはやない。そして青年もそこを出ていく。桑から蚕へ、蚕から青年へと命は連なり、しかし青年の命はどこに連なるだろうか。
最後に語られるのは、羽の弱さゆえに決して飛ぶことができない蚕蛾が、それでも外の世界へと旅立つ準備を整え、そのからだを震わせるようにして繭を割り、まるで飛び立とうとするかのように懸命に羽を広げる様だ。
「蚕はね、繭から出られたとしても、羽が弱くて飛べなくて、口がないから食べられなくて、結局、死んでしまうのよ。結局、死んでしまうとしても、身体がそれを、認めない。羽、傷ついて、身体、よろけて、音、かすれて、関節、ゆがんで、それでも飛ぶことを、諦められなくて」。
飛び立つ蚕蛾の幻を青年が見たその瞬間、教会の窓から差し込んだ陽光は奇跡のようで、しかし日はまたすぐに移ろい翳りゆく。繭に包まれた蚕が飛び立つことも、青年がその先の未来を生きることも決してない。
安住の地の次の活動としては2023年11月3日(金)から12日(日)まで、大阪・扇町にオープンする新しい劇場「扇町ミュージアムキューブ」でのアートフェス型演劇公演『INTERFERENCE』が予定されている。森脇が構成・演出・出演を務める『SHINIGAMI』など3本の演劇作品の上演に加え、過去作品の上映会や展示・ワークショップなど、安住の地という集団の多彩な活動を知るのに最適なイベントとなりそうだ。
2023/09/17(日)(山﨑健太)
Q『弱法師』
会期:2023/09/15~2023/09/17
城崎国際アートセンター[兵庫県]
物語の原型と上演形式を古典芸能から借用し、とりわけ性やジェンダーをめぐる社会構造や人間の欲望の歪さをグロテスクな過剰性とともにえぐり出す市原佐都子の最新作。能「弱法師」や「俊徳丸伝説」、さらに歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)の演目として派生した「摂州合邦辻」を下敷きとする。長年子どものいない長者の夫婦に容貌の整った息子が生まれるが、横恋慕した継母によって失明・ハンセン病に罹患する。そして流浪の物乞いとなるが、神仏への祈願で病が癒えるという物語だ。戯曲は『悲劇喜劇』2023年9月号に掲載。
市原は、古典の物語を、うらぶれた安アパートを舞台に、現代日本の匿名的な家族に置き換えた。交通誘導員として、毎夜、工事現場に立って誘導灯を振り続ける男。ドライバーに毒づかれる度に感情を押し殺し、「自分は人形だから」と言い聞かせて働いている。帰宅すると、妻とセックスして疲労と性欲を吐き出す日々だ。ここで観客の度肝を抜くのが、それぞれ「交通誘導」「性欲処理」の用途のために作られた文字通りの「人形」を操って演じられることだ。夫は人間の代わりに工事現場に立って腕を機械的に振る交通誘導人形「安全太郎」が演じ、妻は巨大な胸と脱着式オナホールを持つラブドールが演じる。粗雑な造形で棒のような手足の安全太郎と、精巧で整ったラブドールとの落差が、ゴツンゴツンと音を立ててぶつかり合う「人形同士のセックス」のグロテスクさを一層際立たせる。
さらにグロテスクなのが、人形の背後では常に、「生身の人間の姿」をさらけ出した「人形遣い」が影のように張り付いている点だ。三人で一体の人形を操る人形浄瑠璃ではなく、一人の人形遣いが一体の人形を操る「乙女文楽」を参照し、安全太郎とラブドールはそれぞれ男女のパフォーマーが一人で操る。ただし、黒衣ではなく、肌色の下着を付けているため裸のように見え、腰や関節を人形と連結させて動かす。そのため、「人形の動き」は「遣い手の手足の動き」と常に連動し、人間が人形を抱え込んでいるようにも人形が人間を背負い込んでいるようにも見え、両者の分離不可能性が際立つ。
さらに事態を複雑化させるのが、「夫は行為後、妻の脱着式オナホールを取り外して丁寧に洗う」という語りだ。文字通り「ラブドールを妻として暮らす男」を安全太郎が演じているのか、それとも「互いにモノ化された生/性を生きる夫婦」をそれぞれ人形が演じているのか。
やがて夫婦の間には息子が生まれる(美少年の人形を男性パフォーマーが操る)。だが「出産」という役割を終え、「容貌が衰えて夫の性欲をそそらなくなった妻」は、「寿命」を迎えて納棺されてしまう(=ダンボール箱に詰めて捨てられる)。一方、家には派手な女がしばしば来るようになり、父の留守中に息子に口淫する。そこに父が帰宅。「この子が誘った」と言い張る女。「泣くのを必死に我慢しているじゃないか」と非難する父。ここで注意したいのが、少し前のシーンから、「息子の人形」には遣い手がいなくなる点だ。性被害者が「モノ」として扱われ、さらに二次被害により感情を抑圧してしまう事態を示唆する。
第二幕では、継母に顔を包丁で刺されて失明し、ゴミの山に捨てられた息子が、「性風俗のマッサージ店」で働く人形たちに拾われる。彼らはマッサージの代価として客から奪った眼球、耳、指、毛髪、ペニスなどの身体パーツを増殖的に装着し、好き勝手に身体改造している。その店に息子がいるとは知らず、肉体労働の疲れを癒そうと父親がやってくる。そして、快感と引き換えに胸にナイフが付き立てられ、えぐり出される心臓。その先にはさらにホラーな展開が待ち受けている……。暴かれるのは、「自らを決して傷つけず、意のままに扱える人形のような存在」を常に欲する人間自身の欲望だ。
終盤、「僕は人間になった」と歓喜する息子も、パニックになった人形たちも、激しくのたうち回る。それは歯止めが効かない欲望の暴走のようにも、人形を操っているはずの「人間」が自らの肥大化した欲望をふりほどこうともがき苦しんでいるようにも見える。ラストシーンでは、父親の首吊り死体がぶら下がるが、彼の安全ベストは暗闇で命の鼓動のように赤く瞬く。「死ぬことのできない人形」は、「人間の欲望の終わりのなさ」の裏返しでもある。
このように本作は、「人形遣いが人形を操る」構造を露骨に見せることで、非人間化された労働、ジェンダー、性産業、(児童の)性被害といった問題や欲望の歪さを描き出した。太夫(語り)と三味線という人形浄瑠璃の分業形態を参照し、ナレーションとすべての台詞を声色で演じ分けた原サチコと、琵琶で併走した西原鶴真の力も大きい。市原の近作は、ギリシャ悲劇やオペラ『蝶々夫人』という古典を参照しつつ、「男性のみで演じられたギリシャ悲劇をすべて女性で演じる」「多言語・多人種の俳優陣」といった戦略的な上演形式により、換骨奪胎と現代社会批判を両立させている。「人形やアバター/人間」「操る/操られる」という構造を利用しつつ撹乱する仕掛けは、例えば百瀬文の映像作品《Jokanaan》(2019)や、許家維+張碩尹+鄭先喻の上演型インスタレーション《浪のしたにも都のさぶらふぞ》(2023)など近年秀逸な作例が多い。本作もまた、古典の枠組みと上演形式を戦略的に書き換え、アイロニーと滑稽さを突きつけた。
なお、ジェンダーの観点から、本作がもつ功罪の両面を指摘したい。まず、古典への批評的視線について。原作、とくに歌舞伎や人形浄瑠璃の「摂州合邦辻」では、「継母」が物語のキーパーソンであり、義理の息子への恋愛感情を拒絶されたため、毒を盛って病にかからせるが、実は暗殺から彼の身を救うための計画であり、自分の生き血を飲ませて病を治癒させる。ここには、「男を誘惑し破滅させる悪女/自己犠牲により救済する聖女(母)」という、男性にとって都合のよい女性表象の二面性がコインの表と裏のように接続されている。市原は、「継母の生き血」を「父の心臓」に変更することで、「実は貞女の鑑だった継母が命をかけて息子を救う自己犠牲の物語」を消し去った。そのため継母の存在感は薄れるが、例えば同じく「摂州合邦辻」を現代演劇化した木ノ下歌舞伎では、「女性表象のステレオタイプの二極化」が等閑視されていた事態に比べて一歩前進したと言える。
一方、第二幕で登場する「性風俗マッサージ店で働く人形たち」の造形には疑問が残った。安全太郎/ラブドールはどちらも「人間の外見」だけでなく、安価で代替可能な労働力としての男性/その性欲処理を担う女性として、強固なジェンダー役割を模倣している(しかもラブドールは「妻の役割」として「出産」する)。だが、ジェンダーという制度自体、この操り人形のようなものではないだろうか。生まれたときから、「女」または「男」の特徴を備えたとされる人形を、自らの主体的な意思とはまったく無関係に強制的に装着され、他人の目に晒され一方的にジャッジされるのは、自分自身の前面にくくりつけられた「人形」の方なのだ。その「人形」を違和感なく操ることができる人もいれば、うまく操れず取り外したいと願う人もいる。だがその「人形」はがっちりと強固に取り付けられ、そう簡単には取り外せないのだ。
二元論的な性規範を体現する安全太郎/ラブドールとは対照的に、マッサージ店の人形たちは、顔面に無数の目玉を付け、カラフルなカツラを全身にまとい、ブラジャーを鎧のように重ねて装着し、ペニスを鬼の角のように額から生やしている。自分の身体に好きなパーツを好きなだけ付けて、「売りたい自分を売る」「今日は この子はちんこ二本 この子はまんこ三個」「私は両方二個ずつ付けてます」。だが、「二元論的な性規範からの逸脱」を、フェティッシュな身体パーツや性的記号を増殖させた「過剰な異形性」「奇形的な改造人間」として表象し、「おぞましいモンスター」として造形化することは、トランスフォビアと通底しているのではないか。マッサージ店に入った父親は「入る店を間違えた」「性別は? なんて尋ねたら笑われるかも」と独り言を言うが、この発言は性風俗で働くトランス女性を想起させる。近親相姦や両性具有は市原の過去作品でも登場する要素だが、「規範からの逸脱=(見た目の)奇矯性やグロテスクな過剰性」と直結してしまう回路の安易さには、「そのようにしかクィアは想像・表象されえないのか」という疑問と諦念が残った。
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豊岡演劇祭2023:https://toyooka-theaterfestival.jp/program
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2023/09/16(土)(高嶋慈)