2020年02月01日号
次回2月17日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

澤登恭子「Rondo」

会期:2019/07/13~2019/08/03

CAS[大阪府]

パフォーマンス、映像、インスタレーションを通して、女性性の問題や、記憶や夢といった無意識の領域を扱ってきた澤登恭子。本展では、代表作と言えるパフォーマンス作品《Honey, Beauty and Tasty》の再演と、近作の映像インスタレーションが展示された。

《Honey, Beauty and Tasty》は2000年に大学院修了制作として発表された後、国内外で再演を重ねてきた。作品の核は澤登自身が行なうパフォーマンスにあり、本展でも初日にパフォーマンスが行なわれ、会期中は、使用されたDJブースの背後に記録映像が投影されている。回転するLPレコードの上に滴り落ちる蜂蜜を舌で舐め続ける、キャミソール姿の女性。DJのスクラッチの代わりに、舌の動きと堆積していく蜂蜜の重みによって、高揚感を誘うトランステクノには、次第にノイズや歪みが混じっていく。淡々と行為に従事し続ける澤登は無表情だが、辛そうにも気だるげにも見える。時折、髪をかき上げる仕草や、顔や髪の上にも滴り落ちる蜂蜜は、エロティックな含みを増幅させる。「レコードの上の蜂蜜を舌で舐める」というシンプルな行為だが、それが含意する問題提起は明らかだ。つまり、「(男性の)性的快楽のために奉仕させられる女性」への強烈なアンチである。

「Honey」は、体液の代替物であり、恋人への甘い呼びかけであり、ご褒美としての甘い蜜でもあり、多義的な意味を担う。赤いマニキュア、口紅、キャミソールといった記号としての「女性」を身にまとった澤登は、ビートの効いたダンスミュージックの高揚感や陶酔が暗示する、性的快楽の高まりに従事し続ける。だが、高揚感や快感をもたらすはずのダンスミュージックは、舌の動きと蜂蜜の重みによって次第に鈍く不穏なものへと変容し、引き伸ばされた快楽は絶頂に達しないまま、ただ回転し続ける。ここでは、不在で不可視の「踊り手」こそが問われている。《Honey, Beauty and Tasty》は、極めて戦略的な選択により、「(男性の)性的快楽のために従事する女性」を一種の記号化されたパロディとして演じ直すことで、問題提起を突きつける。



[撮影:笹岡敬]


「回転」は、もうひとつの出品作品《Träumerei-夕べの夢想》にも共通する要素だ。この作品では、夜の遊園地で撮影されたメリーゴーランドと観覧車の映像が、重なり合った薄いオーガンジーの幕に投影され、夢のなかの光景のような浮遊感をもたらす。煌めくイルミネーションや夜景の夢幻的な儚さ、オルゴールの音が増幅させる懐かしさ。だが、夜間の無人の遊園地はどこか不穏さをたたえ、回転する木馬も観覧車もどこへも行き着けない。「幸福な幼年期の夢」に閉じ込められた出口のない世界、という悪夢的な状況がここでは差し出されている。



[撮影:笹岡敬]


2019/07/20(土)(高嶋慈)

ディミトリス・パパイオアヌー『THE GREAT TAMER』

会期:2019/07/05~2019/07/06

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

2004年アテネオリンピック開閉会式の演出を手がけたことでも知られる、ギリシャの演出家、振付家のディミトリス・パパイオアヌーの初来日公演。

舞台上には、黒く塗ったベニヤ板を重ねて敷き詰めたスロープが闇を背に設えられ、客入れの段階から、スーツ姿の男性パフォーマーがひとり、佇んでいる。幕が上がると男性は服を脱いで全裸になり、揃えた両脚を観客に向けて横たわる。別の男性パフォーマーが登場し、遺骸を覆うように白い布をかけて立ち去る。しばらくすると、もうひとりの男性パフォーマーが登場し、床から一枚のベニヤ板を剥がすと、手から離してパタンと落下させる。その風圧で、布は軽やかに宙を舞い、覆われていた裸体の全身が露わになる。すると再び、布をかけた最初の男性が登場し、床に落ちた布を拾って横たわる裸体を覆うが、2番目の男性が戻ってきて同じ行為を繰り返し、風で煽られた布はあっけなく「全裸の死体」をさらけ出してしまう。このシュールなやり取りが、無言のまま、次第に間隔を狭めて執拗に繰り返される。「足の裏をこちらに向けて横たわる、白布をかけられた男の裸体」は、短縮法を駆使してキリストの遺骸を描いたマンテーニャの《死せるキリスト》を想起させる。西洋古典絵画への参照、「死(体)」を超越しようとする欲望が駆動させる芸術という営み、露わにすることと隠すこと、行為の執拗な反復が生み出す時間感覚の変調やナンセンス、宙に浮遊する布が示唆する「重力との戯れ」など、本作のテーマが凝縮したシーンだ。

上述したマンテーニャのように、本作には、西洋美術史から抽出・引用した身体イメージが、次々と舞台上に召喚されていく。例えば、墓から復活したキリストの身体と、それを見守る3人のマリア。レンブラントの描いた《テュルプ博士の解剖学講義》。だが、キリストの輝かしい身体は、マリアたちが代わるがわる吹きかける「息」を受けてグニャリと歪み、解剖台の上の「死体」からは内臓が次々と取り出され、解剖台はカニバリズムさながらの狂乱の食卓へと変貌する。完璧にコントロールされた美とナンセンス、グロテスクと脱力したユーモアの共存。また、しばしば登場するのが、「頭部、上半身、左右の腕、脚」をそれぞれ異なるパフォーマーが担当し、露出以外の部分は黒子のように隠すことで、バラバラのパーツが接続されたキメラ的身体である。裸体を組み合わせてだまし絵的にドクロを形作るダリの写真作品を連想させるとともに、女性の身体に男性の身体が接合されたイメージは、錬金術やギリシャ神話における雌雄同体や両性具有を想起させる。あるいは、頭部、胴体、手足がバラバラに切断された遺体や双頭のシャム双生児を思わせるシーンは、ゴヤの版画「戦争の惨禍」の凄惨な戦場や、「フリークス」を見世物にしてきたサーカスやショーの歴史への言及を匂わせ、連想の輪は広がっていく。

地球儀のボールを抱えて虚空に浮遊させる男は、死の静寂で満たされた宇宙空間や重力への示唆とともに、アトラスを体現する。アダムとイヴ、キリストの磔刑、ピエタなどの図像群を経て、ラストシーンでは開かれた書物の上に頭蓋骨が置かれ、この世の儚さを説く「ヴァニタス画」が完成するなど、キリスト教美術や神話に基づく「死や(再)生」をめぐるイメージ群が散りばめられる。



[photograph by Julian Mommert]


パフォーマーの卓越した身体を使って、西洋美術やSF映画などから引用した「身体イメージ」を3次元化し、緻密な計算による構築と解体が次々に展開する──ワンアイデアだが、レファランスの多彩さ、次々と繰り出される小道具や衣装の仕掛け、スピーディーな展開により、約90分間、緊張感に満ちたテンションを維持し、飽きさせない。

パフォーマーたちはしばしば、サーカスの曲芸のように重力と戯れ、イリュージョニスティックな運動を繰り広げる。支えが無いかのように宙に浮く身体、無重力状態で浮遊するかのような石ころ、根の生えた靴底を天に向けて逆立ちで歩き、上下感覚や重力を失効させる男。ラストシーンでは、男が薄い紙に息を吹きかけ、宙に浮遊させ続ける。パフォーマーたちが戯れる「重力」は、物理的重力であると同時に、(ギリシャが起源のひとつである)西洋文化の重みというもうひとつの重力圏でもある。そこから逃れることはできず、優美に戯れ続けるしかないのだ。

なだらかな丘を形成する「積み重なった板」という舞台装置はまた、堆積した歴史的地層のメタファーでもある。パフォーマーたちは、その地盤に自在に空けられる「穴」や「開口部」から出入りし、落下し、あるいは巨大な子宮の割れ目から生命が誕生し、穴から死体の手足が掘り出される。だが、その地盤の下にある「抑圧された下部」は、観客の目には見えず、隠されており、時折、バラバラ死体のような悪夢的なイメージが噴き上がるのみだ。

「創世から死までの、時空を超えた人類の歴史」をコラージュ的に紡ぐ本作だが、それは西洋文化中心主義や偏重であり、その重力圏の重みと地層的厚み、そして抑圧構造を示唆しつつも、内実には深く踏み込まない。台詞が一切なく、レファランスは多いが広く流布したイメージであり、「既視感」に安心して寄りかかれること。その「わかりやすさ」からは、本作が世界ツアーの巡業を前提にしていることが明白である。



[photograph by Julian Mommert]


公式サイト:https://rohmtheatrekyoto.jp/lp/thegreattamer_saitama_kyoto/

2019/07/06(土)(高嶋慈)

フィーバー・ルーム、プラータナー:憑依のポートレート

会期:2019/06/30~2019/07/03

東京芸術劇場[東京都]

東京芸術劇場において、「響きあうアジア2019」のプログラムを通じ、現代のタイに関わる舞台芸術を2つ体験した。ひとつは2年前、開始時間を間違える痛恨のミスで見逃したアピチャッポン・ウィーラセタクンの《フィーバー・ルーム》(2015)である。普通に客席で座るのではなく、舞台側を使う演出は、ほかにも体験したことがあるけど、これほど効果的な作品は初めてだった。というのは、これまでは基本的に客と演者の両方が舞台側にいるという設定だったが、本作は舞台と客席の関係を反転し、しかもプロジェクターが投影する映像の一方向性を逆に利用していたからである。

(以下の内容は、少しネタバレ的な部分を含むが、たとえそれを知っていたとしても、予想を超える体験になるはずだ)。

前半は舞台側で完結しており、正面と左右に吊り下げられたスクリーンに囲まれ、病院から川や洞窟をさまよう映像を鑑賞する。が、観客席と隔てる幕が開けると、夜の豪雨と雷鳴の風景が出現し、そこからはプロジェクターが放つ光の粒子を全身に浴びる体験に移行するのだ。これはスクリーンの彼方、いや夢の中に没入する奇跡の映像体験である。そしてCGや3Dを駆使した大予算のハリウッド映画にもできない世界だ。どんなにお金をかけようとも、結局は旧来の劇場のシステムをなぞっているからである。


もうひとつの作品は、タイの小説家ウティット・ヘーマムーン×岡田利規×塚原悠也《プラータナー:憑依のポートレート》(2018)である。なんと休憩を一回挟み、4時間超えの長丁場だった。若いアーティストという個人、サブカルチャーの受容、国家の社会的な激動が絡みあう、四半世紀にわたる性と政治をめぐる物語である。特に俳優らがもみくちゃになる激しい身体運動は、演劇ならではの見せ場だった。日本人にとっては、あまりタイの歴史はなじみがないが、同時代の出来事を想像しながら、共感して鑑賞することができる。考えてみると、岡田の《三月の5日間》(2004)も、大きな歴史的事件(=アメリカのイラク攻撃)と渋谷の一角の若者の性愛をパラレルに描いた演劇であり、《プラータナー》の演出に向いていたのではないか。

公式サイト:https://asia2019.jfac.jp/

2019/07/03(金)(五十嵐太郎)

木村悠介演出作品 サミュエル・ベケット『わたしじゃない』

会期:2019/06/27~2019/06/30

Lumen Gallery[京都府]

暗闇に浮かぶ「口」が「彼女」と呼ばれる者について断片的に語り続ける、サミュエル・ベケットの戯曲『わたしじゃない』を、独自の映像技術「Boxless Camera Obscura」を用いて演出した公演。木村演出の要はこの映像技術の使用にあり、『わたしじゃない』の上演史における革新性と映像メディアへの自己言及性、双方にまたがる射程を兼ね備えていた。異なる4人の俳優による4バージョンが上演され、(スタンダードな上演の)女優/男優、日本語/英語など、演出方法がそれぞれ異なる。私は伊藤彩里によるAバージョンを観劇した。

上演空間には、白いスクリーンが貼られた壁と相対して椅子が置かれ、口元の高さにはマイクとルーペ(凸レンズ)が、足元にはスポットライトが設置されている。黒いジェラバ(フード付きロングコート)で全身を覆われた俳優が椅子に座ると、暗転し、スポットライトが俳優の口元を照らす。その光はレンズを通して集められ、対面した壁に、倒立した「口」の映像が浮かび上がる。通常の「カメラ・オブスキュラ」の場合は、「暗い箱」の名の通り、ピンホールやレンズを通して、密閉された箱のなかに対象物の像が映し出される。一方、「Boxless Camera Obscura(箱なしカメラ・オブスキュラ)」では、対象物、レンズ、投影像が隔たりのない同一空間に存在し、「光源とレンズと焦点距離」という極めてシンプルな装置により、映像の原理的構造を体感することができる(凸レンズとロウソクを使った中学校の理科の実験を思い出してほしい)。木村は、映画前史の映像デバイスについてリサーチと実験を行なう過程で、この技術を発見したという。



SCOOLでの東京公演 [撮影:脇田友]


スクリーンに映る「口」は、拡大された倒立像であることもあいまって、グロテスクに蠢く不可解な生き物であるかのように、自律性を帯びて見えてくる。唾で濡れた唇、その奇妙に生々しい肉感、間からのぞく白い歯、洞窟のような口腔。普段は凝視しない、「発声器官」としての「口」の即物的な動きが強烈に意識される。時折映る鼻の穴は、暗い眼窩のようにも見える。俳優の身体が少し動くだけで映像はボケて不鮮明になる。発話する俳優の身体と映像の「口」は、光を通して繋がってはいるのだが、同時に別個の独立した存在として知覚される。生身の身体から「分離」されつつ光の紐帯によって繋がっている―この繊細な感覚は、ビデオカメラによるライブ投影では得られないだろう。純粋な光学現象によって得られる映像の美しさ、魔術性、危うい繊細さが体感される。

そして、こうした即物的な物質性や分裂/同一性を揺れ動く曖昧さは、戯曲の構造とクリティカルに結びつく。「口」が語り続ける内容は断片的で整合性を欠き、しばしば中断や否定を含み、意味内容の正確な把握は困難だ。だが、一見破綻した言葉の羅列を聞き続けているうちに、「口」の語る「彼女」とは、「口」自身のことではないかという疑念が頭をもたげてくる(以下の引用は、木村自身の翻訳による)。例えば、「……彼女は自分が暗闇の中にいるんだって気付いた……」「……彼女が何を言ってるんだかさっぱり!……」「彼女は思い込もうとした……(中略)全然自分の声じゃない……」「……そしたら彼女突然感じた……(中略)自分の唇が動いてるって……」「……体全部がまるでなくなったみたい……口だけ……狂ったみたいに……」といった台詞群は、「口」の語る「彼女」=「口」自身の置かれた状況との一致を示唆する。だがその一致の可能性は、「…なに?‥だれ?‥ちがう!……彼女!……」という、「口」自身が繰り返す激しい否定によって決定不可能な領域に置かれる。

また、生身の身体から切り離され、非人称化された「口」の映像は、「……それに唇だけじゃなくて……ほっぺた……あご……顔中……(中略)口の中の舌……そういう全部のゆがみがないと……喋ることはできない……でも普通なら……感じることなんてない……気を取られていて……何を話してるかってことに……」といった台詞とリンクし、発声器官としての即物性を強調する。

さらに戯曲中には、「……気付いた……言葉が聞こえるって…」「じっと動かず……空(くう)を見つめて……」といった台詞が示唆するように、ト書きに書かれた「聴き手」=「彼女」の一致の可能性も書き込まれている。ここで、俳優の衣装に改めて目を向けると、もうひとつの仕掛けがあることに気づく。木村は、「聴き手」の衣装として指定された「黒いジェラバ」を俳優にまとわせることで、「発話主体であり、同時に聴き手でもある」二重性をクリアしてみせた。



SCOOLでの東京公演 [撮影:脇田友]


三人称で語ることへの固執、何かの役を演じること(代理表象)と俳優自身の身体の二重写しとズレ、発声器官としての即物性、「自らの声」の聴き手でもある二重性。「口」=「彼女」=「聴き手」の一致と分裂。ここから照射されるのは、語る主体の問題、「わたしじゃない」存在を演じる俳優という演劇の原理的構造である。木村は、「Boxless Camera Obscura」という装置を秀逸にもベケットの戯曲に適用することで、語る俳優の身体を複数のレイヤーへとラディカルに解体しつつ、多重化してみせる。それは、「親の愛情を受けずに育ち、コミュニケーションから疎外された人生を送ってきた、70歳の孤独な老婆の分裂的なモノローグ」という表層のレベルを超えて、メタ演劇論としての戯曲の深層を照らし出す。「俳優の『口』以外を黒い幕で覆う」「ビデオカメラで『口』だけを映像化する」といった従来の演出ではなしえなかった境地に到達した。

演劇の原理的構造への応答という点では、ある意味「最適解」である解像度の高い演出ではあるが、本作の試みには、まだ未踏査の領域が残されている。それは、カメラ・オブスキュラ(及びその延長上にある映像)と窃視的な欲望との共犯関係、そこに内包されるジェンダーの問題である。ピンホール=覗き穴から見た光景を(内/外を逆転させて)拡大投影したような「口」の蠢きは、女性器のメタファーとしても機能し、エロティックな含意を帯びている。本作の「彼女」同様、例えば『しあわせな日々』のウィニーのように、女性の身体が被る拘束や抑圧的状況とどう結びつくのか。本公演の到達点の先には、さらなるクリティカルな可能性が広がっている。

2019/06/29(土)(高嶋慈)

温泉ドラゴン『渡りきらぬ橋』

会期:2019/06/21~2019/06/30

座・高円寺1[東京都]

日本初の女性劇作家・長谷川時雨を描いた本作。異なるいくつかの時代を切り出し場面を構成することで、変わりゆく状況とそれでも変わらない時雨の思いを描き出す原田ゆうの戯曲が巧みだ。

時雨(役名は本名のヤス/筑波竜一)の周囲には文学仲間を中心にさまざまな人物が集うが、その態度は男女ではっきりと対照をなしている。そもそも最初の夫である水橋新蔵(内田健介)からして根っからの放蕩者であり、次に深い仲になった中谷徳太郎(祁答院雄貴)とは文学活動を共にするも喧嘩別れしついに夫婦とはなれなかった。彼女が才能を見出しデビューのために手を尽くした三上於菟吉(阪本篤)は年下の夫となるも、売れてからは芸者遊びのための待合で原稿を書く始末。寄り添い続けることの叶わない男たちに対し、時雨の周囲には岡田八千代(いわいのふ健)や生田春月(東谷英人)ら多くの女性が文学仲間として集う。しかし彼女たちもまた、男との関係をうまく結べずにいるのであった。死者として現われたときに時雨の相談役となる樋口一葉(蓉崇)の言葉を借りるならば、「苦しさの中に人生はあり」「煩わしくて恨めしくて寂しい恋こそ、本当の恋」だ、と言ってよいものか。

時はまさに『青鞜』が生まれた、日本において女性の権利が意識されだしたばかりの時代であり、男たちの女への態度と、女性による文学運動の立ちゆかなさは別個の問題ではない。三上は女遊びに明け暮れながらも時雨とは別れず、時雨が創刊した『女人藝術』を金銭的に支え続けもするのだが、赤字続きの雑誌に対し、つい「おやっちゃんの道楽にとことん付き合うつもりだよ」と本音を口にしてしまう。時雨が己の人生を懸けてきた文学を「道楽」と言ってのける三上。両者の認識の差が残酷に浮かび上がるこの場面にこそ、本作のテーマは凝縮されていると言ってよい。男の援助は尊大な感情に支えられたものでしかなかった。男女間の思いと文学に懸ける思いとが綯い交ぜとなって浮かび上がる感情は切なく苦い。

しかしそれだけに、全キャスト男性での上演という演出(シライケイタ)には疑問を呈さざるをえない。俳優たちの演技は素晴らしかった。だが、全キャスト男性での上演は、舞台から女性を排除し、男性によって女性に声を与え(てや)るという選択にほかならない。それは戯曲の内容を裏切っている。もちろんそのような意図はなかったのだろう。だが無意識にであれそれは、男が稼いだ金によって女に居場所を与え(てや)るという三上の行為と意識の反復となってしまっている。

本来的には、女性の声を男性が代弁しても問題ないと見なされるべきなのだろう。当事者しか声を上げられないのはそれはそれで問題である。だがいまだ男女差別甚だしい日本において、圧倒的優位に置かれている男性が女性の置かれている状況を描く場合、より一層の繊細さと謙虚さをもって創作にあたる必要があるのではないだろうか。


公式サイト:https://www.onsendragon.com/13

2019/06/27(山﨑健太)

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