2021年09月15日号
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artscapeレビュー

渋谷慶一郎+岡田利規+YKBXほか『THE END』

2013年06月01日号

会期:2013/05/23~2013/05/24

Bunkamuraオーチャードホール[東京都]

先日、富田勲による「イーハトーヴ交響曲」がNHKで放送されていた。初音ミクを交響曲に導入するというこの作品の試みは、ニコニコ動画という枠を超えて、電子音楽の大家によってもヴォーカロイドが活用されうることを告げていた。なるほど、富田に留まらず、こうした試みは今後、ぼくらの想像力を超えた仕方で多様な分野へと広がってゆくのだろう。『THE END』は、まさにそうした初期初音ミクの実験のひとつとして後に振り返られる一作ではあろう。YKBXの強烈な映像世界は、パフォーマーの(渋谷慶一郎は舞台の陰で演奏をしてはいるとしても)いないオペラが、映像だけでもちゃんと舞台を満たしうることを証明した。ほかにもマーク・ジェイコブス(ルイ・ヴィトン)による衣裳や、ロビーを飾っていた等身大(?)のフィギュアなど、初音ミクという存在の魅力を新しく展開する要素はいくつも見られた。とはいえ、本作の中心となる初音ミクをめぐる物語的要素には、共感も新味な感動もほとんどえられなかった。とくに人間と同様の死が初音ミクに待っているという内容の前半のセリフには違和感があった。初音ミクが人間ではない(故に死が不可能)であることこそ、初音ミクとぼくら人間とを結びつける切ない絆を構成するものではないか、そう思うからだ(その点「わたしは初音ミク かりそめのボディ」などの富田「交響曲」に表われる歌詞のほうが説得力がある)。もちろん、今後、初音ミクになにかの役を演じさせるという試みも起きるだろうし、渋谷と岡田のアイディアもそうした志向の一種なのかもしれない。しかし、そうであるならば、なにかを「与えてもらう」ことで自分は存在しているというセリフが後半に出てきて再び戸惑ってしまうのだ。これは人間的な死という文言とは別種のきわめて初音ミク的な実存を語るものであり、その点を重視するなら、前半と後半のつじつまがあわない。プログラムでの渋谷の発言を参照すると「死」というテーマは、どうも初音ミクの存在からというよりも、オペラという音楽ジャンルの現状から引き出されたものらしい。オペラは「すでに死んだメディア」というきわめてステレオタイプな考えに渋谷は依拠している? これだけとは言いきれないが、ようするに渋谷の創作の背景から「死」というテーマが導き出されているようで、そうした作家性と初音ミクという素材との相性がぼくはあまり良くないのではと思ってしまった。ボカロPたちが、競って初音ミクに歌を歌わせているニコニコ動画の楽曲たちは、初音ミクという存在から引き出された言葉に魅力を感じさせられるものが多い。しかし、ボカロPのアプローチは既存のJポップ的なセンスに縛られすぎに映ることもある。だから、そうしたなかにあって渋谷のような作家の音楽性が現状を変化させることには価値があるはずだ。とはいえ、初音ミク的想像力に起因するものでないのならば、そうした試みは優れたあだ花としてしか残らないのではないかと危惧してしまう。


渋谷慶一郎・初音ミク オペラ 「THE END」 VOCALOID OPERA

2013/05/23(月)(木村覚)

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