artscapeレビュー

KERA CROSS ver.4『SLAPSTICKS』

2022年02月15日号

会期:2022/02/03~2022/02/17

シアタークリエ[東京都]

ケラリーノ・サンドロヴィッチの戯曲をさまざまな演出家が上演するKERA CROSSのver.4として『SLAPSTICKS』が上演された。同作はNYLON100℃ 2nd SESSIONとして1993年に初演された作品。これまでに鈴木裕美が『フローズン・ビーチ』を、生瀬勝久が『グッドバイ』を、河原雅彦が『カメレオンズ・リップ』をとベテランが演出を担当してきたこのシリーズだが、今作では若手を起用しロロの三浦直之が演出を担った。ロロの旺盛な活動と並行して、海野つなみのマンガを原作とした朗読劇『逃げるは恥だが役に立つ』の脚本・演出や松本壮史監督の映画『サマーフィルムにのって』の脚本など活動の幅を広げている三浦だが、自分以外の劇作家の戯曲の演出を手がけるのは今回が初となる。

かつて「チャーリー・チャップリン、ハロルド・ロイド、バスター・キートンの三大喜劇王を全員ワキに廻した」こともある喜劇俳優ロスコー・アーバックル(金田哲)。ある事件をきっかけに映画界から排斥されてしまった彼の映画のリバイバル上映を企画するビリー(小西遼生)は、配給会社で働くデニー(元木聖也)に当時の思い出を語りはじめる。時は1939年から1920年へ。喜劇俳優を目指す若き日のビリー(木村達成)はマック・セネット(マギー)のスタジオで助監督として働いていた。ある夜、ビリーがスタジオで独りフィルムを編集していると憧れの女優メーベル・ノーマンド(壮一帆)が現われる。恋仲だったセネットのスタジオを去って以来、高まる人気とは裏腹に彼女の出演作への評価は低調だ。精神的に不安定な状態にある彼女はその日もコカインをキメているようで──。人々を笑顔にするサイレント・コメディ。しかしその裏には過酷な現実がある。つくり手たちは体を張り、心をすり減らしている。


[写真提供:東宝演劇部]


着ぐるみ的なスーツを着てファッティ(デブくん)ことアーバックルを演じた金田が出色。2003年再演版では古田新太が喜怒哀楽もあらわにひとりの人間としてのアーバックルを演じていたのに対し、金田版アーバックルは飄々とすっとぼけた演技を貫き、現実でもサイレント・コメディの世界を生きているかのような人物として造形されていた。いかにも喜劇俳優然としたメイクの施された顔とハリボテの体も非現実感を強調する。シリアスな場面でも軽やかさを失わないアーバックルだが、だからこそそこには哀愁が寄り添う。時折見せる軽快な動きも楽しい。桜井玲香はビリーの初恋の人・アリスという振り幅の大きい役を巧みに演じ、ベテランのマギーはサイレント・コメディの空気感を牽引して頼もしい。喜劇俳優というハマり役を得たロロ俳優陣(亀島一徳、篠崎大悟、島田桃子、望月綾乃、森本華)も大舞台で生き生きとして見えた。


[写真提供:東宝演劇部]


[写真提供:東宝演劇部]


映画業界の光と影。フィクションと現実のギャップは歪みを生む。劇中でその極点として描かれているのが女優ヴァージニア・ラップ(黒沢ともよ)の死だ。彼女はアーバックルの主催するパーティーで何者かに暴行され、その4日後に亡くなってしまう。容疑者として逮捕されたアーバックルは裁判で無罪を勝ち取るものの人気は地に落ち、映画業界からはほとんど追放状態となる。

釈放され、「酒だって飲む、クスリもやる、人も殴る。だけどね、映画を創れなくなるようなヘマはしない」「映画が創れなくなるなら、死んだ方がマシです」と語るアーバックルの映画への思いには胸を打たれる。一方で、それでも他者を踏みつけにするアーティストがいくらでもいる現実を知ってしまっている現在の私に、その言葉は虚しくも響くのだった。


[写真提供:東宝演劇部]


リバイバル上映によって/戯曲に書かれることによって/戯曲が上演されることによって再び光があてられるアーバックルとは対照的なのがラップの存在だ。この戯曲において彼女はアーバックルに「仕事の相談」を持ちかけ、そして何者かに殺されるためだけに登場させられている。ラップは被害者であるにもかかわらず彼女自身に落ち度があったかのような中傷を受け、しかしもちろん反論の機会が与えられることはない。ラップは被害者としても死者としても、そして登場人物としても言葉を奪われている。

三浦の演出はそのことを告発するものだ。死者となり物語から退場させられたラップは幽霊のような存在としてその後もしばしば舞台上に登場する。誰にも言葉を聞いてもらえないままに舞台を彷徨うラップ。戯曲には存在しないラストシーンでもラップは独り舞台に現われ、改めて何事かを語るが、ここでも彼女に声は与えられない。言葉を奪われそれでも何かを語ろうとする彼女の顔がスクリーンに大写しになり、そして舞台は幕となる。

声を奪われたラップの存在は、この戯曲においてあまりに多くのネガティブなイメージを背負わされた女たちを代表するものでもあるだろう。性的に消費され、首の骨を折り、薬物中毒となり、嘘を吐き、自ら命を絶つ女たち。それらの幾分かは時代背景を反映したものでもあるだろうが、男たちに与えられた役割との差は歴然だ。彼女たちもまた声を奪われた存在だ。

だが、三浦のやり方はいささかマッチポンプめいても見える。あるいはこれが純然たるフィクションであればこのようなやり方も(それが最善だとも思えないが)あり得たかもしれない。しかしこの戯曲は史実に基づいて書かれたものであり、ラップは現実に存在した人間だということを忘れるわけにはいかない。セカンドレイプがあったこと自体もまた史実だとはいえ、劇中で行なわれるセカンドレイプと現実におけるそれとの間にいかほどの違いがあるだろうか。戯曲が上演されるたび、ラップの尊厳は傷つけられる。女たちの声が奪われていることを指摘するだけではラップへのセカンドレイプは購えない。

声を奪われた彼女たちを演じる生身の人間である俳優もまた、舞台上で自らの言葉を発することは許されていない。だから、問いは観客である私の側へ、現実の側へと投げかけられる。お前はどうするのかと。


KERA CROSS ver.4『SLAPSTICKS』:https://www.tohostage.com/slapsticks/
ロロ:http://loloweb.jp/

2022/02/03(木)(山﨑健太)

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