artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
青年団若手自主企画vol.84 櫻内企画『マッチ売りの少女』
会期:2020/09/26~2020/10/04
アトリエ春風舎[東京都]
青年団若手自主企画vol.84として櫻内企画『マッチ売りの少女』が上演された。櫻内企画は青年団・お布団に所属し技術スタッフとして活動する櫻内憧海が「公演ごとに異なる演出家とタッグを組み、既成戯曲の上演を行う個人企画」。企画第一弾となる今回は1966年に早稲田小劇場の杮落としとして鈴木忠志の演出で初演された別役実『マッチ売りの少女』を橋本清の演出で上演した。
『マッチ売りの少女』は大晦日の晩、ある男(串尾一輝)とその妻(畠山峻)が夜のお茶をはじめようとしたところに女が訪ねてくるところからはじまる。市役所から来たという女(新田佑梨)の来訪の目的は判然としない。やがて女は自分はあなたたちの娘なのだと言い出すが、夫婦の娘は七つのときに電車にひかれて死んだはずである。さらに、女は外で待っている弟も呼んでいいかと問うが、そもそも夫婦に息子はいない──。
女がマッチを売っていたのは20年前、彼女が七つの頃のことだという。この戯曲が初演された1966年から20年前と言えば戦後間もない頃だ。「男の声」によって回想されるその頃の情景も戦後の日本のそれと重なる。女はマッチを売るだけでなく、お客相手に「マッチを一本すって、それが消えるまでの間」「その貧しいスカートを持ちあげてみせ」るようなこともしていたらしい。「ささやかな罪におののく人々、ささやかな罪をも犯し切れない人々、それらのふるえる指が、毎夜毎夜マッチをすった」と男の声は語るが、その罪はもちろん「ささやか」などではない。自分たちを「この上なく善良な、しかも模範的な市民」だと言う男は「あの頃のことは忘れることです。みんな忘れちまったのです。私も忘れちまいました」などと言う。しかし終幕に至って女が発する「許して、お父様。許して下さい。マッチを、マッチをすらないで……」という言葉は、男もまた加害者であることを強く示唆している。
過去から蘇る、闇に葬り去ったはずの罪。戦後の日本はさまざまな犠牲のうえに存在している。それはいまも変わっていない。だが、戦争を経験した世代が亡くなっていくにつれ忘却は加速し、自分にとって都合のいい過去だけを信じる者はますます増えている。だからこそ、この戯曲は(残念ながら)いまなおアクチュアルなものとしてある。
橋本は妻役に男性俳優を配し、弟役を声のみの出演とすることで、この戯曲の現代性をより鋭く浮かび上がらせてみせた。舞台上にあるのは現在と過去との対立であると同時に上の世代から下の世代への加害、下の世代から上の世代への糾弾でもあり、それはつまり現在と未来の対立でもある。そして上の世代、いや、「現在」は過去の加害にもかかわらず未だに男性中心主義に支配されている。上の世代を象徴する夫婦がともに男性俳優によって演じられているのはそれゆえだろう。
声だけの存在である弟の立場はさらに弱い。生まれてさえいないはずの弟は、かつて男に暴行されていたのだと体に残るアザを見せる。しかしもちろん、そのアザを観客が視認することはできない。夫婦の反応からは弟の言葉は根拠のないデタラメなものであるような印象も受ける(それは実体のないフェイクニュースのようでもある)。だが、忘れてしまった罪と異なり、認識さえしていない罪を思い出すことはほとんど不可能だ。
女には四つと二つの二人の子供がいる。舞台には登場しない彼らの存在は、女の話と、「市の防災班」の男の「寝息が聞こえます。小さいのが二つ」という言葉によってのみ示される。この作品は、もっとも若い、その言葉さえも聞くことのできない子供たちの寝息が聞こえなくところで終わる。新年の朝に潰える命。過去の罪を認めまいと足掻く大人たちの傍らで、いくつもの未来の可能性がひっそりと閉じられている。その罪もまた、多くは認識されないのだろう。
公式サイト:http://www.komaba-agora.com/play/10592
2020/10/03(土)(山﨑健太)
mimacul『孤独な散歩者の白夜』
会期:2020/10/03
京都市京セラ美術館[京都府]
10月の第一土曜の夜に毎年開催される文化イヴェント「ニュイ・ブランシュ(白夜祭) KYOTO」。京都市内の美術館やアートスペースの夜間開館とともに、現代アートの展示、パフォーマンス、映像上映やDJ、コンサートなど各種イヴェントで賑わう。「ニュイ・ブランシュ KYOTO 2020」同時開催プログラムとして京都市京セラ美術館で開催された「ナイト・ウィズ・アート2020」では、mimaculによるツアーパフォーマンス『孤独な散歩者の白夜』が行なわれた。mimaculは、ダンサー・文筆家の増田美佳が主宰するユニットであり、本作は、パフォーマンス、小説と俳句、美術館の空間の探索、サウンドインスタレーションといったさまざまなメディウムの駆使と、「身体を見る視線とジェンダー」への問いで構成されていた。
観客にはマップと小説の小冊子が配られ、順路と指示にしたがって、今春リニューアルオープンした美術館の空間を進む。小説を一章ずつ読み進めながら、物語の展開と交錯する「イヴェントの発生」を館内各所で体験していく、パラレルな仕掛けに満ちた二重構造だ。小説は、会場自身を思わせる美術館を舞台に、画家の男が、美術大学の同級生の女に再会し、2人の会話を中心に展開する。戦後GHQに接収され、歴史的な展覧会が開催された「この美術館」の記憶や空間の痕跡。「ここに来ると、ムソルグスキーの『展覧会の絵』が脳内で再生される」と男は語り、現実空間ではパフォーマーがハミングで奏でるその旋律が響く。小説のなかで2人は収蔵品の展示を見て回り、恥じらう裸婦モデルを描いた竹内栖鳳の絵を鑑賞し、女は絵をやめてモデルの仕事をしていたこと、「裸」と性的なイメージの境界について語る。一方、観客は、パフォーマーと筆談で対話し、「美術館によく来るのか」「どんな絵が好きか」「『裸』という言葉にどんなイメージを持つか」などの質問を問いかけられる。隣の小部屋では、ソファに横たわった女性モデルを、男性がデッサンしている(私の参加回では会話の流れや時間制限のため、使用されなかったが、「ヌードを主題にした絵画」の図版を集めたシートも用意されていた)。さらに地下に下りると、「ヌードモデルを務める女性」の映像がほぼ等身大のスクリーンに映され、フレーム外の男性画家との会話が流れる。小説の「再現」を思わせるが、彼女はカメラを一心に見つめ、「一方的な視線の対象から見つめ返される」という眼差しの抵抗は、(とりわけ男性観客を)居心地悪くさせる。
一方、終盤は「俳句」が浮上。小説内では女が「白夜」を季語に俳句を詠み、観客は渡された鍵でコインロッカーを開け、「俳句」の短冊を宝探しのように見つける。さらに屋外の庭園を通って解放感のある屋上に出ると、さまざまな声が詠んだ「白夜の俳句」が聴こえてくる。ライトアップされた美術館の建築が、非日常性を増幅させる。
小説と現実空間の入れ子状の仕掛けに加え、美術館の空間の探索、「ヌード」とパフォーマンスの対比、1対1のコミュニケーション、俳句、サウンドインスタレーションと盛りだくさんの内容だった一方、「身体を見る視線とジェンダー」というテーマは拡散してしまった印象を受けた。美術館という制度化された空間の中に生身の身体を持ち込み、「展示」することが、「見る視線」そのものを相対化して問い直す契機になりえるかどうかが問われている。
2020/10/03(土)(高嶋慈)
プレビュー:劇団ダンサーズ『都庁前』
会期:2020/10/09~2020/10/11
SCOOL[東京都]
劇団ダンサーズが岡田利規の能「都庁前」を上演する。「『ダンス当事者』が流動的に集まる場」であるダンス作戦会議から生まれたダンサーによる演劇プロジェクト・劇団ダンサーズは2019年5月に岸田國士『動員挿話』を上演して旗揚げ。今回の『都庁前』が第二回公演となる。
「ダンサーによる演劇プロジェクト」とは一体どういうことか。ダンス作戦会議のWebサイトには「ダンスの枠組みの中で演劇的手法を用いるのではなく、ダンサーがあえて演劇を演劇として実践することで、演劇の中にあるダンス的な可能性を探る」とある。ここに書かれていることは『動員挿話』『都庁前』双方の出演者でもある神村恵と美術家の津田道子によるユニット「乳歯」の取り組みとも共振している。彼女たちは『スクリーン・ベイビー』シリーズを通して「映画をダンスとして見」ることを試みていた。では、結局のところ追究されているのはやはりダンスなのであって、演劇や映画はそのための媒介に過ぎないのだろうか。
劇団ダンサーズによる『動員挿話』は私の目には「演劇のニセモノ」のように映った。ダンサーたちの演技は演劇として「巧い嘘」を立ち上げることには確かに失敗している一方、その一挙手一投足は並々ならぬ「真実味」とでも言うべき強度を湛えている。戯曲に基づいているという点でダンサーの身体動作に宿る「真実味」は『動員挿話』という演劇の「嘘」と無関係ではないのだが、同時にその強度は演劇の「嘘」を食い破るようでもあった。
このような「真実味」と「嘘」の奇妙なバランスが私に「演劇のニセモノ」という印象を抱かせたのだが、しかし私は「これは演劇ではない」などと言いたいのではない。むしろ、私はそれを演劇として観たからこそ、演劇の俳優とは異なるやり方でダンサーが立ち上げる「真実」の奇妙な手触りに魅せられたのだと思われる。そこで触知されたのは未知なれどたしかに「演劇」の面白さであり、ダンスはそれを発見するための触媒として機能していた。
今回上演される『都庁前』は岡田がドイツの劇場ミュンヘン・カンマーシュピーレのレパートリー作品として書き下ろした『NŌ THEATER』の一編。都議会で「お前は子どもを産めないのか」と野次を浴びた女性議員の生き霊(それは「フェミニズムの幽霊とも呼ばれる」)が登場するこの作品は、ドイツの俳優によってドイツ語で上演されドイツの観客によって観られることを前提に(日本語で)書かれたもので、そのような背景も含めてきわめて演劇的な目論見に満ちた作品として評価されるべきものだ。だが、今回の、つまり日本の「俳優」による日本語での上演ではそのような批評性/演劇性は抜け落ちてしまう。ダンサーの身体の導入はこの作品に新たな批評性/演劇性を見出す契機となり得るのだろうか。10月9日(金)からの本番を楽しみに待ちたい。
公式サイト:https://dance-kaigi.com/
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2020/10/01(木)(山﨑健太)
mimacul『Katastroke』
会期:2020/09/25~2020/09/27
THEATRE E9 KYOTO[京都府]
ダンサー・文筆家の増田美佳が主宰するユニット、mimacul。韓国、日本、インドネシアの伝統舞踊の踊り手3名と増田自身が出演する本作は、受け継がれてきた「型」の習得である伝統舞踊と、「型」を否定し個人的身体から出発するコンテンポラリーダンスとの対比や対話をテーマとしている。
本作の構成はシンプルで、金一志(韓国舞踊)、若柳吉寿扇(日本舞踊)、佐久間ウィヤンタリ(ジャワ舞踊)、増田(コンテンポラリーダンス)が順番に一人ずつ登場し、名前、ダンスの特徴、踊り始めた年齢や動機、ダンスで一番大切にしていること、忘れられない思い出、やめようと思ったことがあるか、なぜこの国にいるのかなどの質問に答え、基本的な型や文化的背景について簡単に説明したあと、10分ほどの短いソロを見せる。赤、青、黄、白のカラフルな韓服に身をつつみ、太鼓をリズミカルに打ち鳴らしながら、小刻みなステップと下半身を上下させる跳躍を見せ、躍動感にあふれた金一志の踊りは、農村での豊作祈願がベースだという。
対照的に、波文様を裾にあしらった黒い着物で、三味線と唄にのせて「青海波」を踊る若柳吉寿扇は、腰をぐっと落とし、扇子も駆使した手振りが多い。バルーンパンツに鮮やかな腰の飾りや輝くティアラを付けた佐久間ウィヤンタリは、ジャワ舞踊の特徴であると話す「水が流れるような」優雅な動きと、繊細な指の表情で魅了する。
一方、最後に登場した増田は、Tシャツにスパッツというラフな格好。コンテンポラリーダンスには型やメソッドの共有がなく、自分の今の身体と向き合って考え、身体の数だけダンスがあると言えること、即興を重視していることを話し、大学時代の授業で受けた「床に寝そべり、15分かけてゆっくり立ち上がる」というワークを実演してみせる。
胎児のように床に丸まり、超スローで体勢を変化させ、俯いた上体を重力に抗うように起こしていく増田。やがてほかの3人が姿を現わし、ウィヤンタリがジャワ語と日本語で太陽や月、鳥や動物の名前を告げ、金が手渡したケンガリ(円形の平たい金属製打楽器)は満月が夜空を渡るように動かされ、増田は自身に命を吹き込むようにTシャツの中に息を吹き込み、その深呼吸の音が響く。夜明け、再生、産まれ直した身体。立ち上がった増田と3人は、対面した相手と鏡像のように向き合い、互いの特徴的な動きを受け渡し、受け取りつつ、増田の「即興」という要素を加えて融合させ、新たな流れを生み出し、今ここで、この4人でだからこそできるダンスを形づくっていく。それぞれが個としてその場に立ち、共存し、各自の動きの要素を余韻として残しつつ、境界が曖昧になった先に、「今、ここに、私のこの身体がある」という力強い宣言で締めくくられた。
(アジアの)伝統舞踊とコンテンポラリーダンス、その対話をドキュメンタリーの手法で作品化する例としては、チョイ・カファイの『ソフトマシーン』がある。カファイとの対話を通して、伝統舞踊の踊り手が基本的な考え方や型、人生について自身の言葉で語り、ソロを見せるなかに、グローバルなアート市場で「商品」として消費される「アジアの伝統」、近代国民国家が抱える多様な地域性、ジェンダーやセクシュアリティと古典舞踊などの問題が照射され、戦略的な批評性が光る作品である。ただ、本作を見終えて振り返ると、「カファイと各踊り手」という1対1の閉じた関係に終始し、踊り手同士の(身体的)対話が見られないことが残念に思われた。
一方、本作は、身体的対話へと開かれていたが、個々の踊りや語りが垣間見せる人生の一端の提示に留まっていた点が惜しまれる。それぞれの「伝統舞踊」は、農村での祭り、宮廷文化、儀礼やコミュニティ、物語や詩歌の伴走など文化的・歴史的文脈から切断された状態でここ・劇場内にあり、ダンス単独で成立するものではない。「文脈からの切断や移動」は、とりわけウィヤンタリと金の場合、生まれ故郷から離れて日本で暮らす彼女たちの移民やディアスポラとしての人生でもある。さらに、より歴史的な射程で見れば、無垢なる「ダンス」と無縁ではない侵略戦争との関連が浮かび上がってくる。舞踊家の中国戦線や東南アジアへの従軍慰問、「アジア各地の諸民族の踊り」を「帝国」の文化的領土に包含しようとした植民地的領有。
Kata(型)の有無から出発し、Stroke(踊る身体の描く線/個人史の軌跡)の提示をとおしたその先に、戦争や紛争、近代化、植民地化、政治体制の転換などの「カタストロフ」による伝統舞踊の断絶や変容、そして個人的身体と接続した歴史の相を俯瞰的に見通す視座があれば、本作はさらに深化するのではないか。ユニットのウェブサイトでは、本作出演者以外にも(ときに出身国籍や地域と異なる)伝統舞踊の踊り手へのインタビューが公開されており、ワークインプログレスとしてプロジェクトの継続が期待される。
公式サイト:https://mimacul.com/
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チョイ・カファイ『ソフトマシーン:スルジット&リアント』|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年04月15日号)
2020/09/27(日)(高嶋慈)
地点『君の庭』
会期:2020/09/14~2020/09/22
ロームシアター京都[京都府]
地点×松原俊太郎の戯曲の第5弾。おそらく地点史上最もポップかつ過激。『正面に気をつけろ』『忘れる日本人』『山山』などで松原が主題化してきた「戦後日本社会の構造的歪み」「戦争の負債や震災の健忘症という現代日本の罹患した病」「家族」といったテーマを引き継ぎつつ、「天皇制」に真正面から取り組んで中核に据えることで、関連テーマのネットワークがより派生的な広がりを見せた。すなわち、戸籍制度、身分制、苗字と婚姻、理想的家族像としての皇室ファミリー、男系と男子による継承、女性蔑視、アメリカとの共犯関係であり、戦前から戦後民主主義の欺瞞を経て現在に「相続」される歴史的縦軸に、「家父長制とジェンダー」というテーマが交差し、激しくスパークする。登場人物は、「王」「娘」「その恋人」「侍従」「王妃」「コロス(あの総理、一般男性、一般女性など)」と抽象化されているが、「国民の象徴である我が家の仕事は慰霊や慰問のお言葉を述べること」と言う「王」と、それに抗う「娘」の対立を軸に展開する。虚構の家族ドラマに、日本国憲法の条文や皇室典範、昭和・平成天皇や米国防長官の発言などさまざまなテクストが引用され、多声性と歴史的積層の奥行を与える。
こうした豊穣で複雑な松原戯曲に対し、地点は「声」の位相において二つの演出的仕掛けを介入させ、「声の主体はどこにあるのか」という問いの提出でもって応答した。その仕掛けとは、1)「事前に録音した台詞」と「俳優の生声」の二重化やズレ、2)日本各地の「方言」による台詞の「乗っ取り」と「逸脱的使用」である。
開演してすぐ気づくのは、俳優たちは人形のように不動のポーズを保ったままだが、「録音された声」が口々に聴こえてくることだ。場面の進展に伴い、俳優の肉声のみ、ピンマイクの使用、録音と生声をダブらせる同時発話、録音/生声がズレた状態、口パクなど、さまざまなバリエーションが発生する。さらに、エフェクトをかけた録音音声が生声にかぶさる多重エコーは、「声の主体」の曖昧化や分裂的増幅を音響的に立ち上げ、発話者の背後で蠢く無数の帯同者や亡霊の存在を示す。「俳優は声を発さず、録音音声が流れる」という仕掛けは、「直接、肉声で語りかけることを抑制されている」コロナ禍の演劇へのメタ的な抵抗であると同時に、皇族(玉音放送や「お気持ち」会見など録音メディアを通した発話)の擬態でもある。硬直した不動の姿勢の背後で「録音の台詞」が流れ、「口パク」する俳優は、「生身の人間」から「人間の姿形をとったモノ」へと不気味に変容し、「象徴」「偶像」であることをまさに体現する。
また、「方言」による発話は、近代国民国家を枠付ける統一された「標準語」を解体し、「私たち」の均質性を裏切っていく、豊かな差異とノイズの混入として機能する。一方で、「キャラづけ」やアイデンティティの音声的基盤として「方言」を利用する演劇の常套手段を無視し、同一人物の発話に複数の地方の方言が共存・混線する逸脱的な使用法は、「主体」の明確な輪郭線を融解させていく。「主体はどこにあるのか」という問いは、「苗字がないから」誰から産まれたのかわからず、誰によって(憲法の条文?「国民の総意」?アメリカ?)つくられたのかわからない「我が家」のあり方へと重ね合わせられる。「主語がないから主体もない」、日本語の特性と戦後民主主義の欺瞞とは密かに通じ合っているのだ。
このように戯曲に上書きされた「声」の多層的な仕掛けに加えて、地点ならではの戯曲への言葉遊び的な介入と撹乱がポップに炸裂する。リズミカルに挿入される「ボボボボ凡人ボンジンニッポンジン♪」のコールは、「ボーン!」という爆発音へ変貌し、そこかしこで炸裂する(自決/テロ/米軍基地)。戦時中/令和へと反復され続ける「バンザーイ!」。流れ続ける「ピー」音は台詞の固有名詞に入り込んで侵蝕し、「タブー」とポップに戯れてみせる。壊れたレコードが同じ音を反復し続けるような「バグ」は、システムの綻びを示唆する。「万世一系」「天皇の国事行為」を歌い上げるラップ。「娘」の母である「王妃」が舞台上に現われず、「声」のみの演出は、「公務休養」に加え「産む道具」としての不在化を暗示する。また、「わたし、たっち」「こっくみん」という逸脱的な単語の区切りやアクセントによる発話は、『光のない。』『CHITENの近現代語』とのテーマ的連関を音響的に架橋する。
舞台装置も秀逸だった。赤い雛壇は階層化と身分制を示し、特権階級の座る雛壇を「一般人」が押してグルグルと回し続け、その労働の反復が円環を描き、不在の空虚な中心を出現させていく。終わりのない労働、戦前の構造の反復、抜け出せない円環と構造的可視化。終盤、「娘」は、父王と自身を紐帯/手錠として繋いでいた「帯」から手を離して雛壇から降り、この「空虚な庭」に降り立ち、「外」へと脱出する志向と声を発する権利を呼びかける(それはコロナ禍の閉塞的状況とも呼応する)。「すべての人たちと共同で(……)終わりのない対話のうちで作られる言葉こそがわたしたちの身体となる」というラストの宣言は、「象徴」「偶像」「人の似姿をしたモノ」としての非実体的な存在が、対話によって身体を取り戻すという切実な希求だ。同時にその台詞が(戦略的に)沖縄の方言とイントネーションで発話されることで、発話主体を支配階級から周縁化された存在へと転倒させ、民主主義の機能不全を問い質す。そこに、「琉球処分」、沖縄戦とその「慰霊」、「戦後処理」と天皇制存続、「本土復帰」と米軍基地といった歴史過程を照射しながら、国家(およびその基盤として皇室ファミリーが体現する近代家族)の枠組みを揺さぶる政治性が屹立する。
「議会ヤジ」を思わせる怒号の行き交うなか、空虚な庭は、「声」のバトルアリーナへと変貌していく。それは、書かれた戯曲に俳優が「声」を与え、音声的に介入し、攪乱し、実体化すると同時に解体寸前まで取っ組み合う格闘の場でもある。個人の声、単一の絶対的な声、その背後で倍音的に響く無数の声、死者たちの声が、歴史的積層の厚みとともに自在に圧縮/輻輳され、左/右、保守/リベラル、中庸の日和見主義の矛盾する声のるつぼを出現させ、「天皇制」に凝縮された構造的歪みを徹底的に批判した先に、「外」を希求するポジティブで力強い宣言が最終的に立ち上がる、圧倒的な強度の作品だった。
なお本作は、京都、豊橋、横浜の3都市公演それぞれにつき、映像演出を加えた「オンライン版」が10月18日まで配信される。
関連レビュー
地点『正面に気をつけろ』|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年04月15日号)
『CHITENの近現代語』|高嶋慈:artscapeレビュー(2015年05月15日号)
2020/09/19(土)(高嶋慈)