2020年10月15日号
次回11月2日更新予定

artscapeレビュー

地点『君の庭』

2020年10月15日号

会期:2020/09/14~2020/09/22

ロームシアター京都[京都府]

地点×松原俊太郎の戯曲の第5弾。おそらく地点史上最もポップかつ過激。『正面に気をつけろ』『忘れる日本人』『山山』などで松原が主題化してきた「戦後日本社会の構造的歪み」「戦争の負債や震災の健忘症という現代日本の罹患した病」「家族」といったテーマを引き継ぎつつ、「天皇制」に真正面から取り組んで中核に据えることで、関連テーマのネットワークがより派生的な広がりを見せた。すなわち、戸籍制度、身分制、苗字と婚姻、理想的家族像としての皇室ファミリー、男系と男子による継承、女性蔑視、アメリカとの共犯関係であり、戦前から戦後民主主義の欺瞞を経て現在に「相続」される歴史的縦軸に、「家父長制とジェンダー」というテーマが交差し、激しくスパークする。登場人物は、「王」「娘」「その恋人」「侍従」「王妃」「コロス(あの総理、一般男性、一般女性など)」と抽象化されているが、「国民の象徴である我が家の仕事は慰霊や慰問のお言葉を述べること」と言う「王」と、それに抗う「娘」の対立を軸に展開する。虚構の家族ドラマに、日本国憲法の条文や皇室典範、昭和・平成天皇や米国防長官の発言などさまざまなテクストが引用され、多声性と歴史的積層の奥行を与える。

こうした豊穣で複雑な松原戯曲に対し、地点は「声」の位相において二つの演出的仕掛けを介入させ、「声の主体はどこにあるのか」という問いの提出でもって応答した。その仕掛けとは、1)「事前に録音した台詞」と「俳優の生声」の二重化やズレ、2)日本各地の「方言」による台詞の「乗っ取り」と「逸脱的使用」である。

開演してすぐ気づくのは、俳優たちは人形のように不動のポーズを保ったままだが、「録音された声」が口々に聴こえてくることだ。場面の進展に伴い、俳優の肉声のみ、ピンマイクの使用、録音と生声をダブらせる同時発話、録音/生声がズレた状態、口パクなど、さまざまなバリエーションが発生する。さらに、エフェクトをかけた録音音声が生声にかぶさる多重エコーは、「声の主体」の曖昧化や分裂的増幅を音響的に立ち上げ、発話者の背後で蠢く無数の帯同者や亡霊の存在を示す。「俳優は声を発さず、録音音声が流れる」という仕掛けは、「直接、肉声で語りかけることを抑制されている」コロナ禍の演劇へのメタ的な抵抗であると同時に、皇族(玉音放送や「お気持ち」会見など録音メディアを通した発話)の擬態でもある。硬直した不動の姿勢の背後で「録音の台詞」が流れ、「口パク」する俳優は、「生身の人間」から「人間の姿形をとったモノ」へと不気味に変容し、「象徴」「偶像」であることをまさに体現する。

また、「方言」による発話は、近代国民国家を枠付ける統一された「標準語」を解体し、「私たち」の均質性を裏切っていく、豊かな差異とノイズの混入として機能する。一方で、「キャラづけ」やアイデンティティの音声的基盤として「方言」を利用する演劇の常套手段を無視し、同一人物の発話に複数の地方の方言が共存・混線する逸脱的な使用法は、「主体」の明確な輪郭線を融解させていく。「主体はどこにあるのか」という問いは、「苗字がないから」誰から産まれたのかわからず、誰によって(憲法の条文?「国民の総意」?アメリカ?)つくられたのかわからない「我が家」のあり方へと重ね合わせられる。「主語がないから主体もない」、日本語の特性と戦後民主主義の欺瞞とは密かに通じ合っているのだ。

このように戯曲に上書きされた「声」の多層的な仕掛けに加えて、地点ならではの戯曲への言葉遊び的な介入と撹乱がポップに炸裂する。リズミカルに挿入される「ボボボボ凡人ボンジンニッポンジン♪」のコールは、「ボーン!」という爆発音へ変貌し、そこかしこで炸裂する(自決/テロ/米軍基地)。戦時中/令和へと反復され続ける「バンザーイ!」。流れ続ける「ピー」音は台詞の固有名詞に入り込んで侵蝕し、「タブー」とポップに戯れてみせる。壊れたレコードが同じ音を反復し続けるような「バグ」は、システムの綻びを示唆する。「万世一系」「天皇の国事行為」を歌い上げるラップ。「娘」の母である「王妃」が舞台上に現われず、「声」のみの演出は、「公務休養」に加え「産む道具」としての不在化を暗示する。また、「わたし、たっち」「こっくみん」という逸脱的な単語の区切りやアクセントによる発話は、『光のない。』『CHITENの近現代語』とのテーマ的連関を音響的に架橋する。



[撮影:山口紘司]




[撮影:山口紘司]


舞台装置も秀逸だった。赤い雛壇は階層化と身分制を示し、特権階級の座る雛壇を「一般人」が押してグルグルと回し続け、その労働の反復が円環を描き、不在の空虚な中心を出現させていく。終わりのない労働、戦前の構造の反復、抜け出せない円環と構造的可視化。終盤、「娘」は、父王と自身を紐帯/手錠として繋いでいた「帯」から手を離して雛壇から降り、この「空虚な庭」に降り立ち、「外」へと脱出する志向と声を発する権利を呼びかける(それはコロナ禍の閉塞的状況とも呼応する)。「すべての人たちと共同で(……)終わりのない対話のうちで作られる言葉こそがわたしたちの身体となる」というラストの宣言は、「象徴」「偶像」「人の似姿をしたモノ」としての非実体的な存在が、対話によって身体を取り戻すという切実な希求だ。同時にその台詞が(戦略的に)沖縄の方言とイントネーションで発話されることで、発話主体を支配階級から周縁化された存在へと転倒させ、民主主義の機能不全を問い質す。そこに、「琉球処分」、沖縄戦とその「慰霊」、「戦後処理」と天皇制存続、「本土復帰」と米軍基地といった歴史過程を照射しながら、国家(およびその基盤として皇室ファミリーが体現する近代家族)の枠組みを揺さぶる政治性が屹立する。



[撮影:山口紘司]




[撮影:山口紘司]


「議会ヤジ」を思わせる怒号の行き交うなか、空虚な庭は、「声」のバトルアリーナへと変貌していく。それは、書かれた戯曲に俳優が「声」を与え、音声的に介入し、攪乱し、実体化すると同時に解体寸前まで取っ組み合う格闘の場でもある。個人の声、単一の絶対的な声、その背後で倍音的に響く無数の声、死者たちの声が、歴史的積層の厚みとともに自在に圧縮/輻輳され、左/右、保守/リベラル、中庸の日和見主義の矛盾する声のるつぼを出現させ、「天皇制」に凝縮された構造的歪みを徹底的に批判した先に、「外」を希求するポジティブで力強い宣言が最終的に立ち上がる、圧倒的な強度の作品だった。

なお本作は、京都、豊橋、横浜の3都市公演それぞれにつき、映像演出を加えた「オンライン版」が10月18日まで配信される。

関連レビュー

地点『正面に気をつけろ』|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年04月15日号)
『CHITENの近現代語』|高嶋慈:artscapeレビュー(2015年05月15日号)

2020/09/19(土)(高嶋慈)

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