artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

くものうえ⇅せかい演劇祭2020 キリル・セレブレンニコフ『The Student』

会期:2020/05/05~2020/05/06

「ふじのくに⇄せかい演劇祭」の中止を受け、開催予定だった4月25日~5月6日の期間、映像やトーク企画などの配信を行なう「くものうえ⇅せかい演劇祭」が開催された。『OUTSIDE-レン・ハンの詩に基づく』を上演予定だった、ロシア出身の演出家・映画監督のキリル・セレブレンニコフは、カンヌを始め世界各地の国際映画祭で評価を得た長編映画『The Student』(2016)を映像配信した。セレブレンニコフの映画作品は、日本初公開となる。

原作は、ドイツの劇作家マリウス・フォン・マイエンブルクの戯曲『Märtyrer(殉教者)』。主人公の男子高校生ヴェーニャは、水泳の授業をさぼったことが原因で母親と口論になる。問い詰める母親に対し、ヴェーニャは母が思ってもみなかった理由を口に出す──「水泳の授業は、自分の信仰と反する」。彼の「宗教的理由」は認められ、ヴェーニャはプールサイドでひとり、聖書を読みふける。だが、社会の縮図である学校は多様性の容認や異なる価値観の共存へと進む代わりに、「聖書の正しい言葉」を後ろ盾にヴェーニャが唱える原理主義に次第に染まり、さまざまなマイノリティ差別の構造を露わにしていく。

本作で描かれるのは、狂信的な原理主義とリベラルの対立の構図である。日和っているうちに感化され、「正しい」と思い込んで扇動されていく周囲の教師たち。ヴェーニャは、堕落と不貞を戒める聖書の語句を引用し、「ビキニは水泳の授業に相応しくない」と主張。女子生徒たちはカラフルなビキニの代わりに、黒いスクール水着と水泳帽を着用させられる。その光景を聖書を手に二階席から見下ろして微かにほくそ笑むヴェーニャは、大人や教師に従うべき「生徒」が、「大人たち」を支配しているという逆転構造を優越感とともに露わにする。「聖書=正義」の言葉が自分に権力を与えているという実感は、彼が「生徒」だからこそ、その歪さがより際立つ。


一方、ヴェーニャと徹底的に対立するのが、リベラルな生物学教師のエレナである。進化論の授業、セクシュアリティの多様性やセーフ・セックスについて講義するエレナに対し、ヴェーニャは畳みかけるような聖書の引用によって論戦を仕掛ける。「神はすべての造物主」、「同性愛は死に値する」、「婦人は男に教えたり、男の上に立つな」、「アダムはエヴァより先に生まれた」「女は、子を産むことによってエヴァの犯した罪から救われる」……。「聖書は2000年も前に書かれたもので、現代の価値観や科学とは相いれない」と反論するエレナに対し、ヴェーニャは彼女の名前がユダヤ系だからキリスト教を嫌悪するのだと言い返す。また、ヴェーニャを秘かに慕う同級生は、「足の障害を治す」奇跡を起こそうと、自分の足に触れて祈りを唱えるヴェーニャに欲情を覚えるが、「あらゆる病は懲罰」「女と寝るように男と寝るな」といった聖書の引用を投げつけられる。このように、聖書に依拠した彼の「正義」は、同性愛差別、女性差別、女性の「性の自己決定権」の否定、「進歩的」な性教育へのバックラッシュ、民族・人種差別、障害者差別といった「マイノリティ」を攻撃・排除する論理として作用し、社会の不寛容や根強い排他意識の病巣をあぶり出す。「大人・教師が生徒を管理する」閉じたコミュニティ、すなわち社会の比喩である「学校」を舞台に描く本作は、その意味できわめてリアリズムと言える。

ここで、ヴェーニャの台詞が「聖書の引用」で構成される点も重要だ。引用すなわち「自分自身の言葉ではない」ものを、自分の主張に合わせて都合よく切り貼りし、利用すること。また、ヴェーニャに「反論」を試みるエレナが、聖書を読み込んで「彼の主張」を切り崩す論拠に使おうとするくだりは、自説の論拠が反撃相手にも使用されるという両義性や脆弱性を示す。「相手の用いた言葉自体のなかに、反論や矛盾の根拠を見出そうとする」態度はまた、例えば歴史修正主義者の常套手段をも想起させる。

終盤、ヴェーニャは「殺人」と「虚偽の告発」という二重の罪を犯すが、最終的に「裁き」は下されない(前者は「事故」と片付けられ、「女性教師のエレナに身体を触られた」という後者は、校長はじめほかの教師たちが信じてしまう)。クビを言い渡されたエレナは、自分の足を靴ごと釘で貫いて床に打ち付け、「それでも私は出ていかない、ここは私の居るべき場所だから」と叫ぶ。この壮絶なラストは、原作戯曲のタイトル「殉教者」の方がわかりやすいだろう。それは、エレナはリベラルで進歩的な思想の持主だが、彼女自身もまた、自らの信念に狂信的な「殉教者」であるという両義性をつきつける。




「聖書の語句を引用しまくる緊迫した論争シーン」は長回しで撮影され、激しい長台詞の応酬は演劇的であると同時に、「台詞それ自体が『引用』である」という自己言及性は、一種の演劇批判でもある。一方で映像は、表向きは禁欲主義的なヴェーニャの態度とは裏腹に、カラフルなビキニで泳ぐ少女たちの伸びやかな肢体を、揺らぐ水中で下から捉えるカメラの躍動的な浮遊感や、「足を治すために触って祈ってほしい」とズボンを脱ぐ(脱いで誘惑する)同級生の太腿の窃視的なカットなど、エロティックな映像美が目をひく。「姦通するな」と聖書の言葉で「防御」しつつ、性に揺れ動く思春期のヴェーニャの内面的な危うさを、映像によってすくい上げていた。

公式サイト: https://spac.or.jp/festival_on_the_cloud2020

2020/05/05(火)(高嶋慈)

あごうさとし『無人劇』

会期:2020/04/29

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

「出演者、スタッフ、受付、そして観客も不在のまま、無人の劇場で上演される演劇」というきわめてコンセプチュアルな試み。本作を「鑑賞」する観客には、「開演時間の14:00に、自分が今いる場所で、一度、大きく呼吸する」ことだけが呼びかけられている。「入場料」は、劇場の運営費として活用される。演出家・劇作家のあごうさとしはこれまで、スピーカーやモニターを空間に立体的に配置し、録音音声や映像のみで構成され、生身の俳優が不在の「無人劇」を発表し、演劇の複製の(不)可能性について問うてきた。一方、本作は、コロナ禍による自粛要請で閉鎖中のTHEATRE E9 KYOTOの芸術監督であるあごう自身の、より切実な現状への異議申し立てであると同時に、「演劇」に対するメタ的な思索を多角的に含む点で、大きく異なる。

第一にそれは、相次ぐ「上演中止や延期」の事態を逆手にとり、「人々が集うこと」が禁止され、「たとえ『俳優もスタッフも観客も不在』であっても、上演は行なわれている」とする宣言である。同時に、「なにもない裸の舞台をひとりの人間が横切り、別の人間がそれを見つめることで演劇行為が成り立つ」とするピーター・ブルックの「なにもない空間」のコンセプトを参照すれば、「演劇」をどこまで最小限の単位に切り詰められるかという、モダニズム的な還元性の思考実験を徹底的に推し進める側面も持つ。また、「観客が実際に見ることができない」、すなわち徹底した「表象の禁止」は、一種の上演批判としても機能する。同時にそれは、観念性のレベルを超えて、「実際に劇場が(法的権力によって、あるいは「SNSでの批判の炎上や電凸」といった匿名的な攻撃によって)封鎖された事態」において、本来ならそこに集う観客に何ができるか? を問うシミュレーションでもある。

何もない、誰もいない、虚無的な時空間に向かって想起を向けること。それは、一種の「黙祷」さえ思わせる(そこで追悼を捧げられるのは、コロナ禍による「文化的な死」なのだろうか)。だがここに、逆説的な希望があるとすれば、通常の「黙祷行為」のように、「ある一定時刻に、その場所に集った人々を悲劇的出来事の中心性へと集約させる」ことで、(例えば「ヒロシマ」のナショナルな領有におけるような)国民国家的な共同体を強化・再生産する強制的な枠組みを欠いていることだ。観客は、自分が今いるその場所で、ただ、「呼吸」を行なう。ここに本作の賭け金がある。普段は無意識的に行なっているが、生命維持に必要不可欠な行為である「呼吸」、すなわち「同じ場所で他人と同じ空気を吸って吐く」ことが禁止事項とされている事態。「呼吸」というきわめてささやかだが、抵抗でもある行為を通して本作は、個々の観客が、それぞれの場所で、バラバラに孤絶されたまま連帯を示すことの可能性を提示していた。

公式サイト: https://askyoto.or.jp/e9/ticket/20200429

2020/04/29(水)(高嶋慈)

ロロ「窓辺」 第1話『ちかくに2つのたのしい窓』

会期:2020/04/19~2020/04/25

YouTube

離れた土地で暮らす人々の、ビデオ電話でのコミュニケーションを描く連作短編通話劇シリーズ「窓辺」をロロが開始した。出演俳優は実際にZoomを使って会話劇ならぬ「通話劇」を演じ、記録映像ではなくYouTube上で生配信される。第1話『ちかくに2つのたのしい窓』は、3日間で計6ステージが上演=配信された。

スマホを手に、「オンライン飲み会」をする30代の男性2人が登場人物。それぞれ地元の仙台と東京で離れて暮らす高校時代の同級生だが、互いに想いを寄せ合う関係性が次第に明らかになっていく。それは、離れて会えないからこそ貴重で愛おしく、言葉にすると脆く壊れてしまいそうな、繊細な感触だ。「どんなに手を伸ばしても届かない相手への、一途で切ない想い」は、ロロが得意として描いてきたが、本作では、「ひび割れたスマホの液晶画面越しに、傷の付いた(ように見える)相手の頬に触れる」というやり取りが効いていた。それは、「修復不可能な亀裂の入った日常」の比喩であるとともに、「Zoomを用いて演じる」設定の消化と物語の消費を超えて、これが「演劇」として成立することの担保としても機能していた。「ひびの入ったスマホで相手の顔を見ながら会話している」設定だが、当然、観客が見ている画面には、その「ひび=傷」は映らない。だがそこにこそ、演劇的想像力の駆動する余白が生まれる。

画面の向こうの相手に繋がろうと、『E.T.』を真似て液晶画面に人指し指を付けて言う「ともだち」から、「友達、パートナー、恋人……。どんな関係でもお互いが納得していればそれでいい」という台詞への繋ぎ方や、冒頭で歌われた鼻歌が「架空の魔法少女アニメの主題歌」として劇中で反復され、「テレポーテーション 窓を抜けて 瞬間で手をつなぐ」という歌詞のメタ性とともに回帰する構造など、20分という短編だが、よく練られていた。

また、「スマホでZoomを介した会話」という本作の設定および実際の使用は、「視聴デバイスによって、観劇体験が左右される」という面に気づかせる(本作の場合、PCやiPadよりも、スマホ視聴の方がより臨場感や親密さが高いだろう)。ロロは今後、5月中旬に第2話、6月上旬に第3話の配信を予定している。シリーズを通して、Zoom演劇の面白さや可能性がどう開拓されていくのか、楽しみに待ちたい。

公式サイト: https://note.com/llo88oll/n/nb7179ad5e3a5?fbclid=IwAR3I-4YxVu_p_HHztKIL88VVzmqypEnasPmhVbYu5hgHaDxX9UXlFJFll0A

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ロロ「窓辺」 第1話『ちかくに2つのたのしい窓』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年05月15日号)

2020/04/22(水)(高嶋慈)

ロロ「窓辺」 第1話『ちかくに2つのたのしい窓』

会期:2020/04/19~2020/04/25

ロロが新たに立ち上げたシリーズ「窓辺」は、離れた土地で暮らす人たちのあるひと晩のビデオ電話を切り取った連作短編通話劇。すでに4月に第1話『ちかくに2つのたのしい窓』が上演され、5月22日(金)〜24日(土)には第2話『ホームシアター』の、6月上旬には第3話の上演も予定されている。YouTubeLiveを使った生配信形式の作品は「ビデオ通話」というシンプルなシチュエーションを用いながら、劇場で上演されてきたこれまでのロロの本公演や「いつ高」シリーズと同じく「いまここに(い)ないもの」への想いをかき立てる。いや、そこには「いまここにいないもの」とつながることを可能にしながらも不十分でしかあり得ないビデオ通話だからこその親密さとさみしさがあった。

[Photo by Masami Ihara]

さて、ここからは作品内容に触れるが、第1話『ちかくに2つのたのしい窓』は第2話の上演に先立つ5月21日(木)に再演が予定されている。未見の方は続きを読む前にぜひ再演をご覧いただきたい。

『ちかくに2つのたのしい窓』で描かれるのは宮城県に住む村田秋乃と東京都在住の川岸風太の通話。会話は仕事から帰ってきた旧友同士のそれとして始まるが、やがて風太はパートナーと別れてきたことを秋乃に告げる。どうやら風太と秋乃は想いを寄せ合っているらしい。しかし二人の気持ちが完全に一致するわけではない。秋乃は風太にもっと宮城に帰ってくればいいのにと言うが、秋乃はそんなに気軽に新幹線は使えないと言い返す。問題は距離だけでない。それぞれが置かれている状況の違いはなかなか見えづらく、ときに相手を傷つけてしまうこともある。

[Photo by Masami Ihara]

ロロとしては珍しく、直接にエロティックな場面があったのが印象的だ。ビデオ通話の画面越しに触れ合う二人。風太のスマホは画面がひび割れているらしく、画面に映る秋乃のくちびるにも細かい傷があると風太はそれをなぞる。当然、観客にそのひび割れは見えないのだが、だからこそ観客は風太のなぞる指先を改めて想像する。それを受けて照れてみせる秋乃の想像は観客のそれと重なり合っているだろう。

ところで、秋乃と風太はそれぞれロロのメンバーの亀島一徳と篠崎大悟が演じていて、設定にも二人が男性であることがはっきりと記されている。セックスするかどうかについてのセリフもあるにはあるのだが、二人の関係がどのようなものであるのかがはっきりと語られるわけではない。ロロ/三浦直之はこれまでの作品でも既存の枠組みに捉われない関係の結び方を描いてきた。本作では、単に男性同士のパートナー関係を描くのではなく、二人の人間が結ぶ関係が本来どのようなかたちにでも開かれているということを描いている。秋乃と風太との間で互いへの想いが一致しているかどうかはわからないし、その必要もない。二人の関係はこれからまた変わってもいくだろう。画面越しに触れ合いE.T.の真似をするふたりが何度も繰り返す「ともだち」という言葉はそのたびに違って聞こえる。

自分とは、いまとは違う「普通」を想像すること。それもまた「いまここにないもの」への想像力だ。そこには「いまここ」を未来へと開いていく可能性がある。

[Photo by Masami Ihara]


公式サイト:http://loloweb.jp/
ロロ『窓辺』:https://note.com/llo88oll/n/nb7179ad5e3a5


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2020/04/19(日)(山﨑健太)

市原佐都子『バッコスの信女─ホルスタインの雌』

発行所:白水社
発行日:2020/04/10

第64回岸田國士戯曲賞受賞作として市原佐都子の戯曲『バッコスの信女─ホルスタインの雌』が白水社から刊行された(同時受賞の谷賢一『福島三部作』はすでに2019年11月に而立書房から刊行されている)。選評によれば、審査員一人ひとりが最終候補作のそれぞれに対して○△×で評価を示すところから始まる選考会において、「珍しく、最初から委員全員が大意において同じ方向を向いてい」て、『バッコスの信女─ホルスタインの雌』には「誰ひとり『×』をつけなかった」(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)らしい。平田オリザは「全体のことで言うと、今年は例年に比べてレベルが高」かったと述べており、レベルの高い最終候補作のなかでも市原の戯曲が選考委員の圧倒的支持を集めたということがわかる。私個人としてもここ数年、岸田賞の最終候補作にはすべて目を通しているが、同様の印象を持った。

『バッコスの信女─ホルスタインの雌』の主人公は一見したところ「普通の」主婦である。しかし彼女はのっけから「ケロッグのコーンフレークってマスターベーションをやめさせるために生まれたらしい」などと観客に向かってまくしたてる。性と食はこれまでの市原のほとんどすべての戯曲で中心的なモチーフとなっており、それはつまり、市原が演劇を通して生の生々しさを描き出し曝け出そうとしていることを意味する。性にせよ食にせよ、ほとんどの場合、それが他者を必要とする営みであるという点において共通しており、市原はそれらを奇妙に混線させることで人間の営みの欺瞞を暴き出す。

かつて「家畜人工授精師」として働いていた主婦が「獣人」(牛と人間のハーフであり、かつ上半身が女、下半身が男の「ハーフ」でもある)を生み出してしまうという物語は単に荒唐無稽な、あるいは作家のフェティシズムを具現化したものではなく、確固たる構造に裏打ちされたものだ。獣人は「母」である主婦を女性だけの楽園に誘い、彼女と結びつき「生まれ直す」ことを夢見るが(母乳と精液の循環!)、その願いが成就することはない。肉を食いたい、セックスがしたい、子供がほしい。他者を欲望する限りその回路を閉じることは不可能だ。自己完結のユートピアに閉じこもることはできない。

日本で性が語られるとき、反応の多くは対象への性的な興味か、私的領域に留めるべきものが公の場で語られることへの羞恥に二分され、性が十分に真っ当な議論や教育の対象となっているとは言いがたい状況がある。市原はならばとばかりに「過激」な言葉を並べ立てる。それは観客の生理的な反応をより一層引き出すだろう。だがその背後に奇妙ではあるかもしれないがある種の論理的構造が確固たる作品の枠組みとして用意されている。劇作家としての市原の強みはその両輪の確かさにある。

併録された『妖精の問題』は2016年の「相模原障害者施設殺人事件を受けて生まれた」作品で、本書のあとがきによれば市原は「事件によって、自分のなかにある優生思想や、自分が抱えている生きづらさを意識させられた」のだという。市原はさらに「できるだけ偽善的ではない方法であらゆる生を肯定することを試みたいと思った」とも書いている。「できるだけ偽善的ではない方法」というのはそこにある問題そのものから目を逸らさないということだろう。市原は演劇の上演という枠組みを利用して観客に「直視すること」を迫る。真っ直ぐな言葉で自らの創作について語る市原のあとがきも本書の読みどころのひとつだ。『妖精の問題』は5月16日(土)・17日(日)にオンライン公演が予定されている

あいちトリエンナーレ2019で初演された『バッコスの信女─ホルスタインの雌』は、ドイツで3年に一度開かれる世界演劇祭(テアター・デア・ヴェルト)での上演も予定されていたのだが、残念ながら新型コロナウイルスの影響で演劇祭自体が2021年6月へと延期となってしまった。現時点で次は9月、神奈川芸術劇場KAATでの上演が予定されている。市原の主宰する演劇ユニット「Q」の近作は多くがレパートリー化されているが、本作は作品の規模的にも再演の機会は限られてくるだろう。この機会に再演が実現することを切に願う。


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2020/04/18(土)(山﨑健太)