artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
映画美学校アクターズ・コース『シティキラー』
会期:2020/03/05~2020/03/10(公演中止)
アトリエ春風舎[東京都]
『シティキラー』(作・演出:本橋龍)は映画美学校アクターズ・コース2019年度公演として2020年3月5日から10日にかけて上演される、はずだった。私は上演されなかったこの作品の関係者として、「無観客」で行なわれたゲネプロの現場に立ち会った。
会場入口の螺旋階段を下りると、多くの人が集まった空間が映し出された古いテレビが受付に続くドアの上方に据えられている。それは劇場の内部、舞台と客席の様子を中継した映像なのだが、そのことに気づいたのは会場に入ってからだった。ドア付近からは劇場の内部は見渡せず、ゲストハウス風に設えられたアトリエ春風舎の様子も普段とはまったく違っていたので、それが劇場内部を映したものだとは気がつかなかったのだ。だから、それが中継ではなく録画だったとしても私にはわからない。私は私のいる「今ここ」からしかものごとを見ることができない。
舞台は東京から離れたどこかのゲストハウス。ヤマミ(近藤強)が脱サラして始めたそこヤマミ荘には若者を中心にさまざまな人が集い、長期滞在する者や繰り返し訪れる者、はては移住してきた者までいる。ライブや演劇もできるスペースを備えるそこは地元の人々の交流の場にもなっているようだ。
「シティキラー」というのはもし地球に落ちればひとつの都市を破壊してしまうほどの大きさの隕石のことで、2019年7月頃に地球はそのシティキラーとすれ違っていた、と上演版映像の冒頭で本橋は説明する。同じような説明は劇中でもなされ、「私たちはそのことを知らなかった」と語られる一方で「遠い向こうの島」に流れ星が落ちるのが目撃される場面もある。ヤマミ荘の近くにあるクレーターは比較的最近(およそ300年前)の隕石によってできたらしい。
私がいる「今ここ」とは別の、私がいない、ことによると人間さえいない「今ここ」がある、あった、あるだろうということ。隕石や万年雪の存在が示すその事実。テーブルの上では上演が始まる前からずっと、惑星をかたどったオブジェが運動を続けていた。冒頭でヤマミ荘にやってくるコイシ(綾音)と入れ違うようにネムリ(井上みなみ)は東京に戻るが、それでもヤマミ荘の時間は続き、東京に戻ったネムリの時間も続く。彼女は東京に戻ることを冗談めかして「死ぬ」というが、もちろん彼女が死んだあとも、『シティキラー』が終わったあとも時間は続く。
2時間の舞台作品を15分×8回の連続ドラマへと構成し直した『シティキラーの環』(編集:和久井幸一、以下『環』)には『シティキラー』本編の映像だけでなくそのオフショット、美学校で学び公演に向けて準備を進める俳優たちの姿を捉えたドキュメンタリーパートが挿入されている。映画美学校のある渋谷のスクランブル交差点にネムリの格好で立つ井上は、果たしてどちらとしてそこに立っているのだろうか。街頭ビジョンには「新型コロナウイルス」の文字が見える。
本橋はしばしば、異なるはずの二つの時空間をひとつの同じ時空間に重ね合わせて観客に提示する手法を用いる。演劇の制約を逆手に取り、「ひとつの世界で、それぞれに異なるモノを見て生きている」人間の姿を浮き彫りにする巧みな演出だ。一方で映画は、ばらばらの時空間で撮影された素材を巧みに組み合わせることで一貫したひとつの世界をつくり出す。ところが、『環』ではむしろ、それが完結したひとつの物語世界などではないことが積極的に示されている。画面にはしばしば、画面の外の客席に座る本橋や、撮影しているカメラマンの姿までもが映り込んでいるのだ。
つまり、『環』は全体が『シティキラー』上演の(あるいは映像制作の)ドキュメンタリーとしてつくられているということだろうか。だが、カメラマンなど「余計なもの」が映り込んでいないショットも同じくらいあるのだから話は一筋縄ではいかない。切り返した先にいるはずのカメラマンがいない場面もあり、それはつまり、その部分はカメラマンが映っていない別撮りのカットにわざわざ差し替えられているということだ。
演劇における本橋の手法は裏返しで映像へと適用されている。例えば第2環でマコト(中島晃紀)がモリコ(宇都有里紗)に告白する場面。二人の背中越しに夜景を思わせる幻想的な光が見えるのだが、カットが切り替わると二人は座卓の上に立っていて、その周囲にはヤマミ荘の仲間たちが座り込んでいる。ひとつの世界に見えるものは、バラバラの視点を持つ者が集まることで紡がれていく。
鳥によって結ばれる二つのエピソードが印象的だ。森(?)で鳥に遭遇したオヤカタ(廣田彩)は「ここってどこですかね」と問いかける。その先にいるのはしかし、ウズベキスタンからヤマミ荘にやってきたシトラ(淺村カミーラ)の姿だ。彼女は何か言葉を返すが、それは日本語でも英語でもなく(ロシア語らしい)、オヤカタは「鳥語だからわかんねえ」とぼやく。
続く場面ではヤマミ荘で飼育されている鶏がシメられる。ワルというその鶏の名前は、ほかの鶏をいじめることから付けられたものらしい。母親(山田薫)と共に移住してきてヤマミ荘の近くに住んでいるアサト(秋村和希)は初めて鶏をシメる。その夜、実は中学のときにいじめられていたのだと彼は母親に告げる。鳥との遭遇から鳥をシメるまでの一連の流れはその後、夢のなかでの出来事のようにかたちを変えてもう一度繰り返される。だが、そこで吊るされシメられるのはワルではなく「誰か2」(百瀬葉)と呼ばれる存在だ。『環』にはその瞬間を彼女の視点から見た、首すじをカッターナイフで切りつけるアサトの姿を正面から捉えた映像も差し込まれている。
オヤカタと鳥=シトラの、ワルとアサトの、あるいは私と誰かの世界は違っている。それでもネムリの言葉を借りれば「いろんな者たちがすれ違って、すれ違って、すれ違って、かろうじてこうしてある」。学校は、劇場は、そのことを学ぶ場所だ。この作品は、映画美学校アクターズ・コースという俳優養成講座の修了公演として上演が予定されていた。
映画美学校:http://eigabigakkou.com/
『シティキラー』上演版映像:https://youtu.be/_aHAiDaLFBI
『シティキラーの環』第1環:https://youtu.be/eNWh038oOoU
関連記事
ウンゲツィーファ『転職生』 │ artscapeレビュー(2018年04月01日号) | 山﨑健太
2020/03/04(水)(山﨑健太)
キュンチョメ『いちばんやわらかい場所』
会期:2020/03/01~2020/03/02
ゆりかもめ台場駅周辺[東京都]
「参加者のみなさまには、子供の頃いちばん大切にしていたぬいぐるみをお持ちいただきます。もし探してもみつからない場合、もう捨ててしまっている場合は、今たいせつにしているぬいぐるみがあればそれをお持ちください。なにもない場合、自分が子供のころに一番大切にしていた『やわらかいもの』に関する記憶を思い出しながら、会場にお越しください」。
シアターコモンズ'20で開催されたキュンチョメによるワークショップ『いちばんやわらかい場所』の参加者に事前に送られてきたメールにはこう記されていた。
ゆりかもめ台場駅前に集合した20名ほどの参加者は二人一組となり、互いのぬいぐるみを紹介し合いながら歩くよう促される。私が子供の頃に大切にしていたネコのぬいぐるみは探しても見つからず、代わりにかつて高校の同級生からオーストラリア土産としてもらったコアラのぬいぐるみを持参した。私はほかにもうひとつしかぬいぐるみと呼べるものを持っておらず、ごく最近手元に来たそれはこのワークショップの趣旨に合っているとは思えなかった。一時期クレーンゲームにハマっていたこともあり、部屋にそれなりの量のぬいぐるみがあったこともあるのだが、それらはいまはない。記憶にないがおそらく捨ててしまったのだろう。
というようなことを話しながらしばらく歩いたところでペアをシャッフル。次の会話テーマはそのぬいぐるみを発見した(と出会った?)ときのこと。しばらくするともう一度シャッフルがあり、最後のテーマは「あなたを縛るもの」だ。私はコロナウイルスや花粉、金(のなさ)といったことをとりとめもなくしゃべった。
15分ほど歩いた先の会場にはウサギ、トラ、パンダ、ゾウ、カッパ、ライオン、リスなどの着ぐるみが用意されていた。参加者は今度はそれを着たうえで持参したぬいぐるみを持ってお台場の街を歩くのだという。初めて着た着ぐるみのなかは想像以上に暑く、私が選んだライオンは口のメッシュから外を覗くタイプだったので視界は極端に狭かった。心細くよろよろと歩き出すが、20人弱の着ぐるみ集団が小雨降るお台場の街に繰り出すさまは、一人ひとりはファンシーでも全体としては異様な迫力がある。
雨の平日、しかも昼間ということで人出はさほど多くはないものの、商業施設の集まるそのエリアにはそれなりに人がいる。着ぐるみを着た私に手を振る子供に手を振り返し、そうでなくともガラス越しに着ぐるみの集団を発見して驚く人々には自ら手を振ってみたくもなる。外国人観光客と思しき人々と記念撮影もした。
広場で集合写真を撮ると20分の自由時間だと言われ、私はショッピングモールの中に入ってみる。ギョッとする人。手を振ってくる人。話しかけてくる人。視界が狭いのでいまいちどこを歩いているのかわからない。気づけばシネマコンプレックスの入り口らしきところで、危うく係員に追いかけられそうになる。再び外に出るとリスとパンダが音楽をかけて踊っており、私はそこに合流する。
着ぐるみは相当に無敵である。常ならざる大胆な行動ができてしまう。子供にも人気だ。小雨も気にならない。しかしそれらの行動は私の意思によるものだっただろうか。着ぐるみならば手を振るべしと思っていたところは確実にある。外見が私の行動を、他者の反応を規定する。子供も外国人観光客も係員も、着ぐるみの内側の36歳男性を見てはいない。無敵は孤独とセットなのだ。「やわらかい場所」は守られていて、守られているから「やわらかい」。
時間が来て着ぐるみを脱いだ私たちは改めて「集合写真」を撮る。それは参加者が持参したぬいぐるみたちだけが並ぶ集合写真だ。ワークショップはここで終わる。
後日、ワークショップの様子を記録した写真が送られてきた。だがそこに記録されていたのはワークショップの後半、つまり着ぐるみを着てからの参加者の姿だけだった。そこに写っているのが「私」であることを保証するのは私自身の記憶と、ライオンが手に持つコアラのぬいぐるみだけである。私のアイデンティティはコアラのぬいぐるみとして示される。昔の写真を見ても当時のことが思い出せないというのはよくあることだ。記録は残っても記憶は薄れていく。友人に確認すれば、コアラのぬいぐるみは高校ではなく中学のときの土産だったらしい。過去と現在の私をつなぐ曖昧な記憶。その頼りないよすがとしてのぬいぐるみも既製品に過ぎず、写真に写るそれが本当に私のものであるという保証はない。コアラのぬいぐるみの記憶もほかの多くのぬいぐるみの記憶と同じように忘れられるかもしれない。そのとき、写真に写る「私」は私でなくなるだろうか。「いちばんやわらかい場所」は目には見えない。
シアターコモンズ'20:https://theatercommons.tokyo/program/kyun-chome/
キュンチョメ:https://www.kyunchome.com/
2020/03/02(月)(山﨑健太)
地点『罪と罰』
会期:2020/02/29~2020/03/01
神奈川県立青少年センター 紅葉坂ホール[神奈川県]
「あ」。驚愕、感嘆、絶望、嘆息、あるいは啓示。「知ってます」。傲慢、反感、糾弾、諦念、あるいは全知。繰り返される言葉はそのたびに響きを変える。それらはいったい誰の言葉、誰の感情か。一義的にはもちろん『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフ(小林洋平)のそれだろう。彼の心、信念の揺れが同じ言葉に異なる意味を持たせ、その移ろいこそがドラマとなる。だが、そもそもこれらの言葉が舞台上で初めて発せられる瞬間、それは開幕直後のことなのだが、このとき観客の多くはそれをラスコーリニコフの言葉としては受け取らないだろう。舞台上を行き交う多くの人。散発的に発せられる言葉から登場人物を特定することは難しい。自らを「選民」であると考え金持ちの老婆を殺すラスコーリニコフは匿名の群集に埋もれている。いや、群集に埋もれているからこそ彼は自らが「選民」であることを証立てるようにしてその手を血に染めるのだ。
杉山至の舞台美術もまたラスコーリニコフの心理を鮮烈に視覚化する。高さのある広い舞台の前面に迫るように設えられた壁面にはいくつかの開口部とそれらをつなぐ階段。壁面下段を横一直線に走るのは街路だろう。忙しなく階段を上り下りし、街路を左右に行き来する人々。蟻の観察キットのような世界はしかし、物語が進行していくにつれて奥行きを獲得していく。高くそびえる壁がそのまま舞台奥へと下がっていくのだ。世界の真理を「知ってます」と嘯いたラスコーリニコフだったが、皮肉にも彼は殺人を犯したことで自分には見えていなかった世界を突きつけられることになる。それは彼の「世界」の崩壊でもある。書き割りめいた壁が後退した隙間を埋めるものはなく、世界は断片と化す。ラスコーリニコフは舞台手前の足場に孤独に取り残される。世界から切り離されることによってのみ、神の視点は手に入る。ついには舞台奥に到達した壁にも亀裂が入り、しかしそこで開示される世界の真実は味気ない鉄パイプで組み立てられた工事用の足場に過ぎない。
「あ」「あ」「あ」と街中でラスコーリニコフを指差し罪を糾弾する群衆の姿と声はラスコーリニコフの罪の意識が見せる妄想・幻聴の類だろうが、一方でそれは遍在する神の声でもある。ラスコーリニコフに下された第一の罰は、それゆえ彼を「特別な人間」にするのだ。「あなたがいてくださらなかったら、私、どうなっていたでしょう」。並べ替えられ、繰り返される言葉のなかで、「私」や「あなた」の宛先もまた交換可能なものとなる。「私が何者かですって? ご存じじゃありませんか」「私はもう終わってしまった人間でしてね。それ以上のなんでもありません。あなたなんですよ」。「私」や「あなた」は群衆であり、ラスコーリニコフであり、神であり、誰でもよい。裁きの座から引きずり下ろされた神は罪人として裁かれることで再び神になり得るか。私はすでに答えを知っている。
公式サイト:http://chiten.org/
関連記事
地点『罪と罰』 │ artscapeレビュー(2020年04月15日号) | 高嶋慈
2020/02/29(土)(山﨑健太)
村川拓也『Pamilya(パミリヤ)』
会期:2020/02/22~2020/02/24
パピオビールーム大練習室[福岡県]
ドキュメンタリーやフィールドワークの手法を演劇に持ち込み、「コミュニケーション(とその断絶)」「再現性と不確定性」「不在と想起」「演劇(本物らしさ)と認知」「モノローグ/ダイアローグ」といった面から演劇を鋭く照射/解体してきた演出家、村川拓也。出世作となった『ツァイトゲーバー』(2011)は、その日の観客から募った「被介助者」役を舞台に上げ、本職の介助者が普段行なっている障害者介助の様子を「再現」する作品である。KYOTO EXPERIMENT 2017で上演された『インディペンデント リビング』(2017)では、この形式を踏襲しつつ、日本、中国、韓国の3カ国からそれぞれ参加した3人の介助者が、順番に普段の介助労働を再現し、介助という営みの普遍性と、言葉の端からわずかに感知される個別的な生のありようが提示された。
本作『Pamilya』も、『ツァイトゲーバー』→『インディペンデント リビング』の系列に位置づけられる作品である。だが、「観客のひとりを被介護者に見立て、本職の介護士が介護を再現する」という枠組みは共通するものの、1)個人の「家」ではなく介護施設が舞台であること、2)ALS(筋萎縮性側索硬化症)など重度身体障害者の介助ではなく認知症の高齢者の介護であること、3)日本で働く「外国人介護士」が登場すること、4)「現在の再現」ではなく時間軸の推移を含むこと、5)介護士が自身の人生や被介護者への想いを語ること、といった複数の要素が加わることで、かなり異なる印象を受け、より作品の枠組みが広がったと感じた。先取りすればそれは、「1日の介護のダイジェスト」の背後に幾重にも積み重なった時間的レイヤーの層──介護士と介護される高齢者、2人の女性それぞれの人生に流れた時間、現在の介護労働者の供給地/かつての侵略地域──を通して、「家族」「介護労働の担い手(専門労働者/家庭内労働者)」について問い、その先に「観客の眼差しこそが舞台上に(不在の)存在を現前させている」という演劇の原理を浮かび上がらせていた。
冒頭、(『ツァイトゲーバー』『インディペンデント リビング』と同様に)村川が舞台に上がり、この作品には「フィリピンから来た外国人介護士のジェッサさん」が登場すること、彼女が介護を担当した「エトウさん」という女性の役を女性の観客の希望者に担ってほしいことを告げる(なお、上記2作品とは異なり、被介護者役の観客には「3つの願い事」を好きなタイミングで発話するタスクは課せられていない。私の観劇回では、50代くらいの中年女性が「エトウさん」役を担った)。
ベッドと椅子が置かれただけの簡素な舞台上に、リュックを背負って自転車を押した若い女性が現われる。彼女はゆっくりと舞台を一周し、キーロックの解除、ドアを開ける、ロッカーの扉を開けるといった動作をマイムで、靴の履き替えと着替えは実際に行なう。「おはようございます」というほかの職員への挨拶。ベッドに横たわる「エトウさん」に近づき、「よく眠ったばい?」と九州弁で声をかける彼女。通勤と着替えの準備から始まり、「介護施設での1日の労働」が淡々と再現されていく。ベッドから車椅子への移動、洗顔と身支度、朝ごはんの配膳と介助。入浴。ラジオ体操と、レクリエーションのカラオケタイム。夕食、再びベッドへの移動。そして退勤。「エトウさん」役の観客は、ベッドや椅子に身体を預けたまま、基本的にほぼ無表情で無反応だ。
彼女は介助の傍ら、そんな「エトウさん」にずっと声をかけ続ける。「手で食べないで。もうべちゃべちゃ」「自分で食べた方がおいしいよね」、「昨日、娘さんが来たと。良かったね」、「(車椅子に身体を固定する)ベルト外すね。ごめんね、嫌いやね」……。時にぶっきらぼうな口調のなかに、「他人」「お客様」ではない、自身の家族に接するような親密で温かい距離感がにじみ出る。その理由は、介護場面の合間に挿入される、ジェッサ自身のタガログ語による語りによって徐々に明かされていく。
約3年前にフィリピンから二国間EPA(経済連携協定)介護福祉士候補生として来日したこと。「エトウさん」の力強い目に惹かれたこと。噛みついたり手を叩こうとする彼女が、闘おうとしているのだとわかったこと。フィリピンではすべての家に水道があるわけではなく、お風呂の習慣もなく、水辺や雨水で身体を洗うこと。子ども時代に可愛がってくれた祖母が倒れたが、日本で働いているため、世話もできない自分への自責の念。長期休暇のあいだに「エトウさん」が亡くなり、祖母と同じく最期を看取れなかったことへの後悔。最後に会った頃の「エトウさん」は衰弱が激しく、手を差し伸べても叩こうとしなかったこと。
「エトウさん」に自身の祖母を重ねるジェッサの言葉は、だが、至近距離にもかかわらず「マイク」を介して発せられる。一見するとそれは、距離感やコミュニケーションの不成立を強調する「断絶の装置」として残酷に映る(『ツァイトゲーバー』『インディペンデント リビング』においても、介助者は「マイク」を介して被介助者に語りかける)。だが本作で興味深いのは、「施設内のほかの被介護者や職員に話しかける(フリで発話する)際には、マイクを使用しない」というルールである。「エトウさん」に話しかけるときにだけマイクを使用するという対比性が際立つことで、「こんなに近いのに声が届かないが、それでもいま目の前にいる「あなた」に語りかけている」という、断絶ではなく声を届ける装置として「マイク」の役割が肯定的に反転して感じられた。
コミュニケーションへの切実な希求は、「エトウさん、私の手を叩いて」という何度も反復される言葉で示される。祖母と「エトウさん」の重なり合い、そしてジェッサ自身の人生と「エトウさん」の人生が重なり合うのが、中盤のカラオケタイムでジェッサが歌う歌謡曲「瀬戸の花嫁」だ。生まれ故郷の島と家族から離れ、海を渡って別の島に嫁ぐ花嫁の心境を歌うこの曲の歌詞に、労働者としてフィリピンから日本へ渡ったジェッサと、おそらく実家を離れて嫁入りしたであろう「エトウさん」の人生が重なる。だが「花嫁/労働者」というズレは、「家族と介護労働の担い手」という問題を浮かび上がらせる。作品タイトルの「Pamilya(パミリヤ)」はタガログ語で「家族」を意味するが、ジェッサ自身の家族についての私的な語りは、より広い社会的文脈へと接続される。家庭内労働者としての「嫁(女性)」が担っていた仕事を、海外からの専門労働者が担うこと。さらに、その労働力の供給源がかつて侵略した被占領地域であることは、日本の近現代という、より長い時間的スパンを射程に含む。
最後に、「観客のひとりが被介護者の役を担う」仕掛けが内包する、複数の役割について考えたい。1)まずそれは、(プロの俳優が登場するのとは異なり)、舞台を見る観客自身の身体と舞台上で起きていることを地続きに連続させる。2)リハーサルも準備もなく舞台に上げられた素人が見せる、どう振る舞ってよいか戸惑う表情の硬さや緊張した無表情は、本人の意志表示やそれを表情から読み取ることが困難なALS患者や認知症の高齢者に接近し、「コミュニケーション」の問題を浮上させる。3)(プロの俳優ではない)介護士の振る舞い方に影響するであろう、「被介護者役をどんな人が引き受けるのか」という最重要素を本番開始までブラックボックスにしておき、演出家のコントロール不可能な状態に置くことで、「いま目の前で起きている事態」のリアリティの度合いが最大限になる。「日々繰り返される労働現場の再現」だが、上演のたびに「被介護者役」とその微妙な反応が異なるため、原理的に「再現不可能な一回限りのナマの出来事」に近づくのだ。「再現可能性」(=演劇)を設定したうえで、「再現不可能性(出来事の一回性)」の予測不可能なリアリティが侵入し、後者が前者の枠組みを揺らす。しかし同時に見る者は、戸惑いや緊張のためにこわばり、プロの俳優のように「動けない」被介護者役の身体に、(不在のはずの)「エトウさん」の身体を投影し、想像的に重ね合わせるという、演劇的行為を行なっている。つまり、いったん「演劇」の内部に予測不可能な出来事の一回性の亀裂を入れたうえで、再び「演劇」を再起動させている。そしてそこで再起動の鍵となる、被介護者役の身体のぎこちなさや硬さは、それを一方的に見つめる私たち「観客の視線」がもたらしていることに気づいたとき、「観客の眼差しこそが舞台上に(不在の)存在を現前させている」という、演劇の原理を突く鋭さに、身震いを覚えるのだ。
キビるフェス2020公式サイト:https://kibirufes-fuk.localinfo.jp/
関連レビュー
村川拓也『インディペンデント リビング』|山﨑健太:artscapeレビュー(2017年12月15日号)
村川拓也『ツァイトゲーバー』|木村覚:artscapeレビュー(2013年03月01日号)
2020/02/24(月・祝)(高嶋慈)
シャンカル・ヴェンカテーシュワラン『インディアン・ロープ・トリック』
会期:2020/02/22~2020/02/23
京都芸術劇場 春秋座[京都府]
観客が集合的に物語を共有する=共同幻想を生み出す場としての「劇場」に身を置きつつ、「演劇」に対する自己批評をどのように社会批判へと眼差し返すか。繰り返し語られる物語が反復によって強度を増し、「真実」へと接近するプロセスそれ自体を俎上に乗せて冷静に分析することで、劇場、そしてそこに集う観客を没入から覚醒へと反転させることはいかに可能か。KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMNでの『水の駅』(2016)、『犯罪部族法』(2019)と京都での発表を積み重ねてきたインドの演出家、シャンカル・ヴェンカテーシュワランは、本作においても、インドの歴史と現代社会への鋭い眼差しから、極めてクリティカルな問いを立ち上げていた。
舞台上には、広場のように円形の客席が組まれている。観客が席につき始めると、出演者たちはその周囲をぐるぐると歩き回りながら、市場の物売りのような独特のかけ声を発し続ける。音楽的な抑揚をもったその声の重なり合いは、耳に心地よく響く。「市場の広場」の中央に姿を現わした彼らは、担いでいたトランクからさまざまなエキゾチックな品物──楽器、絨毯、蛇の置物、香辛料の小袋などを取り出し、驚くべき効能を謳う口上を述べながら、観客に売りつけようとする(実際に観客のひとりが、「値切り交渉」とともに香辛料を「買わされる」やり取りは、「フィクション」が第四の壁を突き破って「現実」の只中へと侵入してくる事態を序章として突きつけ、示唆的だ)。
やがて円形広場では、魔術師によるロープを使った見世物についての語りが始まる。魔術師がロープを空高く投げると、ロープは直立し、助手の少年がロープを登って姿を消す。いつまでたっても戻ってこない助手に業を煮やした魔術師は、口にナイフを咥えてロープを登り、その姿も見えなくなる。突如、観客の頭上から少年の悲鳴が聞こえ、バラバラになった手足が降ってくる。ロープから降りた魔術師が魔法をかけると、少年の身体は元通りになって生き返った、という。
本作の前半では、この「インディアン・ロープ・トリック」が、さまざまな時代と主体によって繰り返し語られてきたことが、出演者たちによる「再現」とともにバリエーションとして反復される。14世紀のモロッコ人イブン・バットゥータによる旅行記など、歴史的文献に記された叙述の数々。19世紀になると、欧米人がこの物語の語り手の列に加わる。新聞の発行部数を伸ばすために「フェイクニュース」を紙面に載せた米紙。賞金目的でトリック成功に挑んだ英国人興行師たち。ありえない荒唐無稽な物語が、繰り返し語られる(とりわけ「権威」の担い手によって)ことで、フィクションが事実化していくプロセス自体が提示されていく(一方で、「権威を持たない」と見なされる語り手が語るときは、「嘘」「捏造」として徹底的に攻撃・否定される。「インドでこのトリックを目撃した」と言う女性の証言者が、男性が独占する権威的組織によって異端視され、魔女狩りとして排除されたエピソードがその例だ)。
「物語」の再生産が、ナショナリズムや排他的な社会構造と共犯関係を結び強化する回路について示す例が、前半のラストで語られる「犯罪部族法」である。インド植民地政府が1871年に制定したこの法律は、カースト制度という既存の社会構造を植民地支配の円滑化のために政治的に利用し、「カースト外」に置かれた不可触民のコミュニティを「犯罪部族」に指定し、非定住生活を送っていた彼らを強制的に定住・拘留下に置く差別的な法律だった。「魔術師たちは祈祷師や小商人に転向した。トリックを死守した者は、最後の抵抗として、ロープを登って自ら姿を消した」という語りは、西欧近代が「迷信」を駆逐しつつ、共同幻想によって社会秩序の維持に加担し「現実」を形づくることについてメタフォリカルに指し示す。それは何も、カースト制度だけにとどまらない。フェイクニュース、歴史修正主義者の語る「正しい歴史」、社会的構築物としてのジェンダーに至るまで、私たちの日常を取り巻く常態だ。
また、出演者たちは、「インディアン・ロープ・トリック」の目撃談を語るたびに「再現」を試みるのだが、投げたロープは無様に床に落下し、「吊り具」が堂々と天井から降下し、あるいはトリックが「成功」しても「生き返ったフリ」にすぎず、共同幻想に没入させる装置としての「演劇」「劇場」に対するメタ批判が同時並列的に示される。伝統楽器をリズミカルに操るミュージシャンの生演奏と歌の力も借りて、「京都の劇場」が「インドの市場」へ、「劇場の観客」が「魔術の見物人」へと転位し、演劇の起源の姿がそこに立ち現われる。一方、演じるたびに魔術師と助手の役を交換する仕掛けや流動性は、アイデンティティを固定化しようとする力に絶えず抗い続け、攪拌しようとする抵抗でもある。
後半では、すでに聞き慣れた「インディアン・ロープ・トリック」の物語に、新しい別の要素が混ぜられて変容する。それは、「井戸を掘るために必要な製鉄技術を得るために、その知識を独占している共同体へ弟子を遣わし、教えを乞う」という、南インドの口承叙事詩に基づくものだ。1)共同体間の対立や排除という要素、2)ロープを投げて上空へ登るのではなく、「井戸を掘って地下深くへ降りていく」という上下のベクトルの反転によって、定型を逸脱・変容させた新バージョンが新しく作り上げられる。出演者たちの頭上から降りてくるのは、「ロープ」と「金属」が合体した「金属のチェーン」だ。彼らは互いの肩や腰を足場にして、「金属のチェーン」をよじ登って姿を消そうと何度もトライするが、ことごとく落下して「失敗」に終わる。ラストシーンでは、1人目の肩に上った2人目の肩をさらに足場にして3人目がよじ登り、「暗転」を迎える。それが一瞬であったなら、「演劇の約束事」として、「暗転=消失」すなわち「トリックの成功」と了解されただろう。だが、その意図的な暗転の「長さ」は、演劇の了解事項を逆手に取って、見る者に不穏な問いを突きつける。「あなたは、『暗転=消えた』と信じますか?」「これは『トリックの成功』であると思いますか?」。
観客が物語に没入し、共同幻想に浸る演劇空間においては、観客一人ひとりは「私と物語」の閉じた関係性の内に分断されている。一方、本作のラストは、「この新しく変容させた物語を、あなたは信じますか」という問いを、観客一人ひとりに反省的に投げかける。
「円形舞台」の構造も重要だ。舞台と客席を明確に分離して正対させる一般的なプロセニアム式舞台の場合、ほかの観客は意識から消え、「物語とそれを享受する私」の閉鎖系が形成される。しかし、本作の円形舞台の場合、向かい合ったほかの観客の姿が絶えず視界にあるため、自身もまた「観客(のひとり)」であることをつねに自覚しながらの観劇体験となる。共同幻想への没入(と分断)から、人々が同じ場に集いつつも個々が反省的に思考する場へ。「垂直に立つロープ=秩序の構築」/「地下に降りる井戸=不可視化されてきた領域の開示」のように、「劇場」の機能もまた反転させられる。劇場・演劇への自己批判を展開しつつ、それでもなお演劇の力を信じるヴェンカテーシュワランの、強い信念がロジカルな強度とともに差し出された作品だった。
公式サイト:http://k-pac.org/?p=8888/
関連レビュー
シャンカル・ヴェンカテーシュワラン『犯罪部族法』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年01月15日号)
2020/02/23(日)(高嶋慈)