2020年06月01日号
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artscapeレビュー

あごうさとし『無人劇』

2020年05月15日号

会期:2020/04/29

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

「出演者、スタッフ、受付、そして観客も不在のまま、無人の劇場で上演される演劇」というきわめてコンセプチュアルな試み。本作を「鑑賞」する観客には、「開演時間の14:00に、自分が今いる場所で、一度、大きく呼吸する」ことだけが呼びかけられている。「入場料」は、劇場の運営費として活用される。演出家・劇作家のあごうさとしはこれまで、スピーカーやモニターを空間に立体的に配置し、録音音声や映像のみで構成され、生身の俳優が不在の「無人劇」を発表し、演劇の複製の(不)可能性について問うてきた。一方、本作は、コロナ禍による自粛要請で閉鎖中のTHEATRE E9 KYOTOの芸術監督であるあごう自身の、より切実な現状への異議申し立てであると同時に、「演劇」に対するメタ的な思索を多角的に含む点で、大きく異なる。

第一にそれは、相次ぐ「上演中止や延期」の事態を逆手にとり、「人々が集うこと」が禁止され、「たとえ『俳優もスタッフも観客も不在』であっても、上演は行なわれている」とする宣言である。同時に、「なにもない裸の舞台をひとりの人間が横切り、別の人間がそれを見つめることで演劇行為が成り立つ」とするピーター・ブルックの「なにもない空間」のコンセプトを参照すれば、「演劇」をどこまで最小限の単位に切り詰められるかという、モダニズム的な還元性の思考実験を徹底的に推し進める側面も持つ。また、「観客が実際に見ることができない」、すなわち徹底した「表象の禁止」は、一種の上演批判としても機能する。同時にそれは、観念性のレベルを超えて、「実際に劇場が(法的権力によって、あるいは「SNSでの批判の炎上や電凸」といった匿名的な攻撃によって)封鎖された事態」において、本来ならそこに集う観客に何ができるか? を問うシミュレーションでもある。

何もない、誰もいない、虚無的な時空間に向かって想起を向けること。それは、一種の「黙祷」さえ思わせる(そこで追悼を捧げられるのは、コロナ禍による「文化的な死」なのだろうか)。だがここに、逆説的な希望があるとすれば、通常の「黙祷行為」のように、「ある一定時刻に、その場所に集った人々を悲劇的出来事の中心性へと集約させる」ことで、(例えば「ヒロシマ」のナショナルな領有におけるような)国民国家的な共同体を強化・再生産する強制的な枠組みを欠いていることだ。観客は、自分が今いるその場所で、ただ、「呼吸」を行なう。ここに本作の賭け金がある。普段は無意識的に行なっているが、生命維持に必要不可欠な行為である「呼吸」、すなわち「同じ場所で他人と同じ空気を吸って吐く」ことが禁止事項とされている事態。「呼吸」というきわめてささやかだが、抵抗でもある行為を通して本作は、個々の観客が、それぞれの場所で、バラバラに孤絶されたまま連帯を示すことの可能性を提示していた。

公式サイト: https://askyoto.or.jp/e9/ticket/20200429

2020/04/29(水)(高嶋慈)

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