artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
KAAT DANCE SERIES2019『NIPPON・CHA! CHA! CHA!』
会期:2020/01/10~2020/01/19
KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]
如月小春の戯曲『NIPPON・CHA! CHA! CHA!』が描くのは敗戦からおよそ20年、東京オリンピックを直前に控えた日本。初演されたのは五輪から24年後の1988年、バブル崩壊前夜のことだった。周囲の期待を背負いマラソン日本代表への道をひた走るカズオ。だが、代表選考がかかったレースの直前に足を捻ってしまう。それを隠したままトレーニングを続けた結果、足は悪化。ついにコーチにも気づかれてしまうが、カズオはそれでもレースに出ると言うのだった。そしてレース当日──。
戦争、オリンピック、バブル、そして再びのオリンピック。歴史は繰り返すという言葉があるが、「戯曲を上演する」という演劇の形式のひとつの意義はここにあるだろう。込められたアイロニーは痛烈だ。
ヨシダ、キシ、タナカ、ミキ。登場人物の名前は歴代総理大臣からとられている。周囲の期待に応えようとして果たせず、そして消えてしまったカズオは犠牲者だったのだろうか。カズオはこう言っていた。「皆、お膳を囲みながら思ってるんだ。もっと大きなお膳が欲しい、もっと大きなお皿が欲しい、大きな冷蔵庫が、洗濯機が、風呂が、(略)そんな皆の熱い想いが、電波に乗って俺の中に入り込むのがわかる。(略)皆が俺に望んでいるんだよ」。あるいは「僕は皆の夢なんだ。夢は無理矢理さまされるまで、見続けなくちゃいけない。(略)僕は日本だ。日本そのものなんだ」と。レースの対抗馬はニクソン、シュミット、カストロ、モウ、シュウたちだ。国を背負って立とうとしたカズオは、同時に擬人化された国そのものの姿でもある。小さな個人と国とに分裂した登場人物たちは歌う。
「なーんでもない どーうでもいい そーんな気分になっちゃうよ(略)ぼくら けなげな 小市民 胸のここには せつない願い 消費生活 楽しくやろうぜ 小さな脳ミソ キリキリ絞って そのうちいいこと 何かあるだろ(略)NIPPON・CHA! CHA! CHA!」
同じくKAATの企画で2019年6月に昭和・平成ver.、令和ver.とふたつのバージョンが上演された多田淳之介演出『ゴドーを待ちながら』(作:サミュエル・ベケット)を思い出す。キャッチコピーは「男たちはいつから待っていたのか。そして、これからも待ち続けるのか」。二幕構成の『ゴドー』は一幕二幕とほとんど同じことを繰り返す。その繰り返しをさらに昭和・平成/令和へと拡張すること。そこには変化は待つものではなくもたらすものではないかという問いかけがあった。「そのうちいいこと 何かあるだろ」。
結局、カズオはレースの最中、失踪してしまう。夢想として挿入される未来において、カズオの存在はほとんど忘れられ、しかし人々は豊かな暮らしを送っているようだ。回顧されるべき過去は忘れられ、ときに捏造される。それは同時にまぎれもない「現在」のことでもある。加害者としても被害者としても無自覚な、能天気な人々。我が身の情けなさに涙が出た。
今回の山田うん演出版では、演劇版に続いてダンス版が上演された。演劇版の途中に10分の休憩はあったものの、それは文字通りに続けて上演される。演劇版のラスト、カズオがひとり亡霊のように立ち尽くす場面は、彼がふらりと動き出すことによってそのままダンス版のオープニングとなる。歴史は繰り返す。
ダンス版に言葉はなく、構成も戯曲をそのまま「再現」しているわけではなさそうだ。ところどころに見覚えのある場面がある気がするものの、意味内容を正確に汲み取るのは難しい。それでも、演劇版をすでに見ている私は、目の前の動きを物語と結びつけようとする。ダンサーの存在は、その運動は否応なく物語に巻き込まれていく。カズオという存在が、オリンピックにおけるスポーツがそうであるように。
しかし同時に、ダンスは純粋な運動の喜びでもある。演劇版から引き続き主役を演じ舞台上を伸び伸びと動き回る前田旺志郎からは開放感にも似た心地よさを感じた。そこに物語からの解放を重ねて見るのは、それこそひとつの物語に過ぎないだろうか。だがそれこそが、如月のアイロニーに対する山田からのド直球の返答のように思えたのだった。
公式サイト:https://www.kaat.jp/d/chachacha
2020/01/19(日)(山﨑健太)
ゲッコーパレード『ぼくらは生れ変わった木の葉のように』
会期:2020/01/10~2020/01/20
旧加藤家住宅[埼玉県]
埼玉県蕨市を拠点に活動を展開してきたゲッコーパレードが新たな演劇祭を立ち上げた。その名も「ドメスティック演劇祭」。ドメスティックは「国内の、家庭内の、業界内の、家畜化された」などの意味を持つ英単語だ。第0回と銘打たれた今回は唯一のプログラムとしてゲッコーパレード『ぼくらは生れ変わった木の葉のように』(作:清水邦夫、演出:黒田瑞仁)が彼らの本拠地である一軒家・旧加藤家住宅で上演された。
舞台はとある一軒家。物語はそこに自動車が突っ込む事故が起きた直後から始まる。「よく見ると、自動車が壁を突き破って、ある家のリビングルームにめり込んでいた」。乗っていたのは学生運動崩れの男(堀井和也)と家出してきたらしい女(鶴田理紗)。居合わせた夫(浅見臣樹)と妻(河原舞)とその妹(崎田ゆかり)はしかしなぜか彼らを歓待し、男と女はずるずるとその家にいることに──。
これまでにもさまざまな作品を旧加藤家住宅で上演してきたゲッコーパレードだが、一軒家が舞台となっている作品を上演するのは今回が初めてなのだという。当日パンフレットには「多くの演劇は劇場で上演され、舞台の上には王宮なら王宮の舞台セットが作られて上演されます。(略)なら私たちもゲッコーパレードとして活動5年目の節目に、ほかの多くの演劇がするようなことをしてみようと思いました。日本の一軒家が舞台の物語を、日本の一軒家で演劇として変わったことをせずに上演しようと思ったのです」と記されている。しかしこれは明らかにおかしい。なるほど、一軒家を舞台とする戯曲を劇場で上演するためには舞台セットを立て込まなければならない。だが、一軒家でそれを上演するならば舞台セットは必要ない。一軒家を舞台にした戯曲を一軒家で上演するというのはたしかに捻りのない企画ではあるかもしれないが「ほかの多くの演劇がするようなこと」にはなっていない。
しかも、本物の一軒家での上演を選択した結果、舞台からは自動車の姿は消えてしまった。本物の一軒家に本物の自動車を突っ込ませるわけにはいかず、舞台美術として自動車が用意されることもなく、それが「ある体(てい)」で演技は行なわれる。本物の一軒家というリアルとあからさまな虚構の奇妙な同居。
もちろん、演劇というのは大なり小なり嘘をつくもので、どこまでを「リアル」とするかについては作品ごとに線を引かなければならない。自動車を「あることにする」というのは許せる嘘の範疇にも思える。だがそれでも、本作における果物の扱いはあまりに奇妙だ。劇中、食べ物が登場する場面では基本的に本物が用いられている(飲み物だけは「ある体」なのだが、百歩譲ってそこはいいとしよう)。バナナにせよみかんにせよ、登場人物たちはそれを食べようと皮を剥くのだが、彼らはそれを実際に食べることはなく、「食べた体」で芝居は進行する。皮を剥かれたバナナやみかんはテーブルの上にゴロンと置かれたままだ。その演出に明確な意図や効果があるとも思えず、私は釈然としないままその約束事を飲み込むしかない。
そもそも、なぜこの戯曲がドメステッィク演劇祭の演目に選ばれたのだろうか。第0回の開催にあたりゲッコーパレードは「誰にとっても我が事のような演劇を」という言葉を掲げているが、1972年に初演され、学生運動の気配を引きずるこの戯曲の上演が果たして、「誰にとっても我が事のような演劇」になり得るのだろうか。
戯曲が描くのは非日常=外部が日常=家=内部に侵入し、やがて絡めとられていくまでの時間だ。この戯曲が収録されているハヤカワ演劇文庫『清水邦夫Ⅰ』の解説で古川日出男は「劇場には外がある。体制にも外がある」と書いている(「外」にはそれぞれ傍点)。だが、外部など本当にあるのだろうか。
ゲッコーパレード版の上演では、そもそも自動車はリビングルームに突っ込んでいない。外部ははじめから侵入などしていない。リビングルームの外にあるべき劇場はなく、そこには地続きの一軒家があるだけだ。観客である私も奇妙な約束事を飲み込んで共犯者としてそこにいる。外部はない。
この戯曲の上演が「誰にとっても我が事のような演劇」となり得るとしたらそのようなパラドックスにおいてだろう。内部の論理が肥大し外部を飲み込みんでいくその様子はたしかに、あまりに2020年の日本的だ。
公式サイト:https://geckoparade.com/
2020/01/11(土)(山﨑健太)
梅田哲也 うたの起源
会期:2019/11/02~2020/01/13
福岡市美術館[福岡県]
サウンド、光、重力といった物理現象を取り込み、場所の特性とともに成立させるインスタレーションと、パフォーマンス作品を手がける梅田哲也の、美術館での初個展。看視スタッフの誘導によって鑑賞者が展示可動壁を押し、奥のホワイトキューブ空間で起こる「何か」を体験する作品《うたの起源》のほか、水の重量の移動によって上昇/下降する物体、明滅する光を惑星の回転のように壁に投げかけるライトの運動、回転する三つの拡声器から流れる人声や楽器の音が混じり合うハーモニックな音響など、さまざまな作品が美術館内のあちこちに仕掛けられている。メイン空間のほか、コレクション展示室、入口ロビーと階段、普段は入れない倉庫など複数の空間に作品が設置されているため、「館内ツアー」の側面ももつ。
このツアー的な要素を「ギャラリーツアーを模したパフォーマンス」として昇華した公演が、年末の1日限りで開催された。出演者は、梅田自身に加え、ダンサー・振付家のハイネ・アヴダルと篠崎由紀子、捩子ぴじんら。美術館の外→梅田作品の点在する展示室内→バックヤードという三層構造でツアーは構成されている。
観客はまず、ガイド係の看視員に導かれ、美術館の「外側」を歩く。かつては博多湾の海底だったという説明を聞きながら隣接する庭を抜けて、裏側の搬入口へ。パフォーマーの存在感は、偶然居合わせた通行人と見紛うくらいのささやかさだ。搬入用のエレベーターに乗って館内に戻り、ガラス張りの通路を進むと、「樹のあいだに赤い実が見えますか」とガイドに問いかけられる。ガラス越しに何かを凝視する男が佇む。角度によって現われたり見えなくなったりする「赤い実」は、ガラスに反映した館内の赤いライトだ。コレクション展示室内に入ると、再び看視員のガイドにより、ダリや田中敦子、アニッシュ・カプーアの作品の解説が始まる。だが少し離れたところでは、3人の男女が謎めいた儀式風の所作を繰り返している。梅田作品を通過したあとは、階段を降りてバックヤード空間へ。機械空調室の重い扉を開け、暗闇をライトで探るパフォーマー。機械のたてるノイズ、内臓のように壁を這う太いチューブ、暗闇に明滅する無数の赤い光。天井板を剥がした開口部からは、何かが動く不可解な物音が響く。ドアのない狭い空間に誘導されると、突然明かりが消え、暗闇のなかで一瞬のハミングに包まれる。古美術の展示室で薬師如来像の解説を聞き、ピアノの爪弾きが聞こえるホールを通り抜け、入口ロビーに戻ったときには、胎内巡りを終えて「日常」に帰還したような感覚に包まれていた。
普段は表から見えない「バックヤード」をあえて見せる。とともに、看視員など「裏方スタッフ」を「パフォーマー」として作品の要素に取り込む。内/外の空間を裏返し、知覚を研ぎ澄ませるよう促し、非日常を通り抜けて日常へと回帰する感覚を味わわせる。その意味で本公演は、劇場空間の機材や裏方スタッフの「運動」そのものを舞台上で見せながら非日常的なイリュージョンの旅を体験させた舞台作品『インターンシップ』の、「美術館バージョン」と言える。
公式サイト:https://umeda.exhb.jp/#event
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2019/12/27(金)(高嶋慈)
村田沙耶香×松井周 inseparable『変半身(かわりみ)』
会期:2019/12/18~2019/12/19
ロームシアター京都 ノースホール[京都府]
「サンプル」主宰の劇作家・演出家の松井周と小説家の村田沙耶香が共同で原案を務め、それぞれが演劇と小説で発表するプロジェクト「inseparable」。共同体、家族、生殖、性、高度医療、倫理、変態といったテーマの共通性をもつ2人のコラボレーションだ。舞台版では、現代日本社会の縮図のような架空の島「千久世島」を舞台に、温暖化による気候変動と海面上昇を生き延びるため、人間が遺伝子操作によってイルカと融合するポストヒューマン的な近未来と、古事記の「国産みの神話」を元ネタとする神話的イメージとが交錯する、ぶっ飛んだ世界観が展開された。
舞台となる近未来の日本は、遺伝子医療が高度に発達し、生殖が国家の管理下におかれた、徹底した管理社会として描かれる。体内の遺伝子を改変し、身体機能の強化や疾患治療、アンチエイジングを行なう「ゲノム操作」が普及し、産まれる子どもについても、ゲノムを編集された「カスタム」か「ナチュラル」かを選択できる(ただし課税率が異なる)。だが子どもをもつには、国家による「生殖免許」を取得する必要があり、生殖を目的としないセックスは「野良交尾」として「リビドー防止法」によって禁止されている。また、ゲノム操作に必要な「レアゲノム」の配分は、国民に義務化された成績表である「スコア」の点数で決められる。「東京ではみんな少しでもスコアを稼ごうと、我さきに年寄りを担いで走っている」と揶揄されるほど、エゴと配慮が逆転した社会だ。
そんななか、外界から隔絶した孤島「千久世島」では、世界的に希少なレアゲノムが発見され、ゲノム採掘が島の新たな産業となる。だが島の経済は、東京の企業の資本に依存/搾取され、劣悪な労働条件下にある山中での発掘作業は海外からの技能実習生が担い、ゲノムが出る山地に住む「山のもん」と資源を持たない「海のもん」という共同体間の対立がより浮き彫りになっていく。
島では、レアゲノムの密猟を防ぐため、ゲノムの採掘と供給を独占する東京の企業から派遣された指導員の下、4名の男女が監視を務めている。そのひとり、秀明は、2年前に島の奇祭「ポーポー祭」で弟の宗男を亡くし、弟の昔の恋人と「夫婦」の免許を取得している。だが、死んだはずの弟が戻ってきた出来事を境に、現代社会批判の要素が強かったドラマは加速度的に混迷を深めていく。
「カラオケルームのような暗い部屋で、モニター越しに現世を見ていた」と臨死体験を語る宗男。その暗い空間に、プレッピーな学生スタイルの兄の秀明が現われ、「卒業試験のためのプレゼン」と称して、荒唐無稽な「国産みの神話」を紙芝居風に説明し始める。その昔、「ポーポー神」が混沌の塊のような黒い球体から自らの分身をつくった。この神は下半身に「とんがった部分とくぼんだ部分」を持つ両性具有だった。だが、分身には肛門が無かったので、糞詰まりで膨張して苦しんだ。そこで神は「とんがった部分」を尻に刺して口まで貫き、消化管をつくった。肛門から流れ出た水が海となり、最初の子ども「イルコ」(ヒルコのもじり)は海へ流され、そのあと、突起を突き刺す度に、日本列島、動植物、人間が産まれたのだという。こうしてできた「この世界」とは、実は秀明が手にする「カプセルの中で培養されるゼリー状の物体」であり、彼が「神様の世界の卒業試験」をパスできるかどうかは、その培養物の存続/崩壊にかかっているのだ。もしパスできなかったら、「就職できず、結婚もできず、親の資産頼み」とぼやく秀明の姿は、「管理社会を入れ子状に制御しているメタ世界もまた厳然たる管理社会である」という皮肉を示す。
崩壊が進む「この世」では、地球温暖化による気候変動と海面上昇を生き延びるため、遺伝子操作によるイルカとの融合化が進み、動物/人間の境界が融解する。「イルカのゲノムを入れた」秀明の妻の背中には背びれが生えて変態していく。イルカ語が公用語になり、イルカ相手の性風俗が島の新たな産業になり、イルカと人間の交尾の常態化が暗示される。一方、一度死んで「この世」と「あちら」を行き来できる宗男は、「この世界の糞詰まりから人類を救う」ため、ボイスの「社会彫刻」をもじった「ソーシャル・エネマ(社会浣腸)」を提唱する。そこには、高度遺伝子医療が進展して「自然死」がなくなった結果、循環が停滞した糞詰まり状態になり、逆説的に滅びに向かうという皮肉が示唆される。
また宗男の死の原因は、祭の高揚感のなかで「野良交尾」した際、崖から落下したことも語られる。崖を転がり落ちながらも「生の実感」に溢れ、「自分たちはもっと動物に近いはず」と言う彼は、遺伝子操作や国家による性と生殖のコントロールの枠外の象徴だろう。だがゾンビのような身体を引きずる彼は「死ぬことができない」ため、島民たちに自分の体を食べるように頼む。「今年の祭の代わりに」島民たちが彼の腹から内臓を引きずり出して食べるラストシーンは、共同体存続のための「祭」「儀式」の虚構性とともに、グロテスクながらもその原初的な美を示していた。ポストヒューマン的な新人類にとって「前時代」の象徴である彼は、新たな創世記の「神」として昇華/消化されたのだ。
タイトルの「変半身(かわりみ)」には、音読が示唆する「下半身」も含め、複数の意味が交錯する。遺伝子操作による異種混淆。人間/動物、人間/神の融合。両性具有。そして、自らの「半身」への思慕。弟の宗男は、同性で兄である秀明への思慕を押し殺して生きてきたことを告白する(じつは宗男は、「あちらの世界」の秀明が自らの細胞から培養し、「この世」に飛ばした半身だったことが明かされる)。「下半身」つまり性の欲望が徹底して抑圧・管理される社会と、ヘテロセクシャルの規範から逸脱する、生殖に結びつかない性。国産みさえ、イザナギとイザナミという「男女」の神ではなく、両性具有神と性別不明の分身とが浣腸=肛門性交を行なうことで成立したのだ。現代日本社会批判、ディストピア的な近未来像、土着的な神話世界、性(生)と倫理への問いを情報過多なほど混ぜ合わせた怪作だが、「最愛の人に看取られて死ぬ」というラストは、救いととるか、エモーショナルに回収したオチととるかで、評価が分かれるだろう。
公式サイト:
http://samplenet.info/inseparable/ [演劇版]
https://www.chikumashobo.co.jp/special/kawarimi/ [書籍版]
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2019/12/19(木)(高嶋慈)
shelf『AN UND AUS | つく、きえる』
会期:2019/12/12~2019/12/15
THEATRE E9 KYOTO[京都府]
『AN UND AUS | つく、きえる』は、ドイツの劇作家ローラント・シンメルプフェニヒが2013年に新国立劇場の委嘱を受け、東日本大震災と福島第一原発事故を取材して書き下ろした作品である。とはいえ、震災や原発を直接的に指し示す言葉も固有名詞も登場せず(唯一の例外は「いわき」)、抽象度が高く、詩的なイメージと寓話性に満ちている。
登場人物は、それぞれが不倫関係にある3組の夫婦、彼らの不倫現場である海辺のホテルに勤務する「眼鏡をかけた若者」、そして彼の恋人である「自転車を持っている娘」の8名である。A氏とZ夫人、Y氏とA夫人、Z氏とY夫人は決まって月曜日に、海辺のホテルで情事を重ねる。ホテルに勤務する若者の恋人は、湾岸警備の仕事のため高台を離れることができず、2人は携帯電話のSMSで連絡を取り合っている。
だがある月曜日、「明かりが消えて、またついた」あと、彼らは自分自身の身体がすっかり別のものに変容してしまったことに気づく。「頭が二つになった」と言うZ夫人、「口がなくなった」A氏。身体が重くなり「石になった」A夫人、彼女を魅了する魅惑的な肉体を持っていたが「心臓が燃え上がって止まらなくなった」Y氏。「黒い雨が降ったあと、翅が生えて蛾になった」Y夫人、「死んだ魚になった」Z氏。これらのメタモルフォーゼと状況説明が、自分自身を客観的に観察・報告するような第三者的な語りにより、独白の連鎖として連なっていく。「窓の外に魚が見える」という台詞は、海辺のホテルが水の底に沈んだことを暗示する。だがそれは、メタファーに変換された現実ではない。起こった出来事が理性的な理解の範疇をはるかに凌駕してしまっているため、リテラルに描写しようとする行為はメタファーとして誤変換され、あるいは事実の過酷さゆえにメタファーとしてしか語りえず、彼らはみな、「自分にとってはそう感じられる」切実さと理解されなさの狭間で引き裂かれながらしゃべり続けるのだ(「サメだ」「BMWよ」)。
この「同じ出来事を共時的に経験しつつ、わかり合えない」意思疎通の困難さは、背後の壁に投影されるト書きによって補強される。自身に起こった身体的変容について語ろうとしつつ、彼らは「言うのをためらう」「どう表現したらよいのかわからない」「理解してもらえないと思っている」葛藤を抱えており、しかし不倫相手の目には「いつもと同じ」に映るのだ。
彼らのパラレルな共時性と交わらない孤絶は、今回のshelfの矢野靖人による演出では、「横一列に並んだ椅子の上に俳優を配置する」という操作によって、端的に提示されていた。俳優たちは、あてがわれた椅子の上に縛り付けられ、自由に移動できない。モノローグの内容をなぞるような/逸脱するような身振りの傍らでは、彫像のように凝固した者、ゆっくりとポーズを変えていく者、語る声に呼応したかのように動き出す者たちが、緊張感に満ちた運動の磁場を作り出すが、彼らの視線はけっして交差することはない。
そして、椅子の足元に、「脱ぎ散らかされた靴」が転がったままであることに注意しよう。椅子の上で身じろぎする俳優たちは、裸足を宙に浮かせており、「床(現実)から遊離した」彼らの身体は、それが死者のものであることを示唆する。彼らが唯一「移動」するのは、「揺れたときの避難」の再現場面である。互いにぶつかり合いながら、狭い座面の上を綱渡りのように歩く危うさは、それが生と死の境界線上の歩行であることを想起させる。この「避難」を挟んだ後半では、男女の並びが入れ変わり、「本来の正しいカップル」が復元され、以前の平和な日常生活の回想が語られる。だが、足元に転がる「靴」は以前の並びのままであるため、齟齬をきたす。秩序の回復への希求が示されつつ、「完全な回復」ではないことを暗黙裡に告げる仕掛けだ。
Y氏が語る「燃え上がる心臓」は原発炉心のメルトダウンを、Y夫人が語る「黒い雨による蛾への変態」は放射性物質による身体の奇形化を、A夫人が語る「石化」やA氏が語る「口の消滅」は感情を喪失した鬱状態や失語症を、Z氏の語る「死んだ魚」は津波に飲まれたことを指すのだろう。椅子の上の彼ら=死者を挟む構図で両端に「立つ」若者と娘は「生存者」と思われるが、「身体が透明になって空を飛んでいく」と語る若者は、空席だった七つめの椅子の上に靴を脱いで上がり、死者への仲間入りを暗示する。ここで最後に、「自転車の娘」の異質性が、行為と語りの双方において露わとなる。無造作に転がった靴を丁寧に揃える彼女の行為は、持ち主が不在の抜け殻となった靴=遺体の埋葬の担い手である。また彼女は、若者をクジラに、自身をミツバチに例えた神話的な壮大な物語の語り手となる。高台へ向かおうと空を飛んだクジラは、太陽に焼き尽くされて海に落ち、一方、クジラに会うために月に乗って海へ潜ったミツバチは、海中で月に押し潰されてしまう。「語ること」がつねに出来事から遅れて生起する事後性とともにあること、それは同時に死者の弔いでもあること、そして「物語」の形式でしか語りえない出来事があること、それは「演劇」の存在基盤でもあること。メタモルフォーゼ、メタファー、そしてメタ批評。本作が単に「震災と原発事故を題材にした作品」であることを超えて、「語ること」そのものについての物語であることを照射する、秀逸な上演だった。
2019/12/14(土)(高嶋慈)