artscapeレビュー

地点『罪と罰』

2020年05月15日号

会期:2020/02/29~2020/03/01

神奈川県立青少年センター 紅葉坂ホール[神奈川県]

「あ」。驚愕、感嘆、絶望、嘆息、あるいは啓示。「知ってます」。傲慢、反感、糾弾、諦念、あるいは全知。繰り返される言葉はそのたびに響きを変える。それらはいったい誰の言葉、誰の感情か。一義的にはもちろん『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフ(小林洋平)のそれだろう。彼の心、信念の揺れが同じ言葉に異なる意味を持たせ、その移ろいこそがドラマとなる。だが、そもそもこれらの言葉が舞台上で初めて発せられる瞬間、それは開幕直後のことなのだが、このとき観客の多くはそれをラスコーリニコフの言葉としては受け取らないだろう。舞台上を行き交う多くの人。散発的に発せられる言葉から登場人物を特定することは難しい。自らを「選民」であると考え金持ちの老婆を殺すラスコーリニコフは匿名の群集に埋もれている。いや、群集に埋もれているからこそ彼は自らが「選民」であることを証立てるようにしてその手を血に染めるのだ。

[撮影:松見拓也]

杉山至の舞台美術もまたラスコーリニコフの心理を鮮烈に視覚化する。高さのある広い舞台の前面に迫るように設えられた壁面にはいくつかの開口部とそれらをつなぐ階段。壁面下段を横一直線に走るのは街路だろう。忙しなく階段を上り下りし、街路を左右に行き来する人々。蟻の観察キットのような世界はしかし、物語が進行していくにつれて奥行きを獲得していく。高くそびえる壁がそのまま舞台奥へと下がっていくのだ。世界の真理を「知ってます」と嘯いたラスコーリニコフだったが、皮肉にも彼は殺人を犯したことで自分には見えていなかった世界を突きつけられることになる。それは彼の「世界」の崩壊でもある。書き割りめいた壁が後退した隙間を埋めるものはなく、世界は断片と化す。ラスコーリニコフは舞台手前の足場に孤独に取り残される。世界から切り離されることによってのみ、神の視点は手に入る。ついには舞台奥に到達した壁にも亀裂が入り、しかしそこで開示される世界の真実は味気ない鉄パイプで組み立てられた工事用の足場に過ぎない。

[撮影:松見拓也]

「あ」「あ」「あ」と街中でラスコーリニコフを指差し罪を糾弾する群衆の姿と声はラスコーリニコフの罪の意識が見せる妄想・幻聴の類だろうが、一方でそれは遍在する神の声でもある。ラスコーリニコフに下された第一の罰は、それゆえ彼を「特別な人間」にするのだ。「あなたがいてくださらなかったら、私、どうなっていたでしょう」。並べ替えられ、繰り返される言葉のなかで、「私」や「あなた」の宛先もまた交換可能なものとなる。「私が何者かですって? ご存じじゃありませんか」「私はもう終わってしまった人間でしてね。それ以上のなんでもありません。あなたなんですよ」。「私」や「あなた」は群衆であり、ラスコーリニコフであり、神であり、誰でもよい。裁きの座から引きずり下ろされた神は罪人として裁かれることで再び神になり得るか。私はすでに答えを知っている。

[撮影:松見拓也]


公式サイト:http://chiten.org/


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