artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

安田佐智種「VOID」

会期:2016/07/04~2016/07/30

BASE GALLERY[東京都]

現在ニューヨーク在住の安田佐智種は、2012年にBASE GALLERYで開催した個展で、今回も出品された「Aerial」のシリーズを展示したことがある。その時も、高所から見下ろしたビル群をデジタル処理してつなぎ合わせた画像の、めくるめくような視覚的効果に驚嘆したのだが、それから4年が過ぎて同シリーズはさらに進化しつつある。
前回は東京、ニューヨーク、神戸で撮影された作品だったが、今回はさらにケルン、長崎、パリの眺めが加わった。高層ビルが針を植えたように林立する都市の一角を、ただ単に切り取ったというだけではなく、より地勢学的に都市全体を俯瞰する視点があらわれてきている。また、撮影の足場になる地点が「空白(VOID)」のスペースとして表示されるのが、今回の展示のタイトルの由来なのだが、そのポイントの選び方(例えば東京スカイツリーやエッフェル塔)にも配慮が行き届いている。
さらに今回の展示で重要なのは、「Aerial」のシリーズのほかに、東日本大震災の被災地で撮影された「Michi」と題する作品も出品されていることだろう。福島県南相馬市の沿岸部の、津波で流失した家屋の土台部分を撮影した写真画像をつなぎ合わせた120×420センチの大画面の作品は、家屋自体の撤去作業が急速に進むなかで、震災の記憶を保持していくためのモニュメントとしての意味を強めつつある。2013年から制作が開始され、「今後も制作続行予定」というこの作品がどんな風に姿を変えていくのか、また「Aerial」のシリーズと、どのように関連しながら展開していくのかが楽しみだ。

2016/07/11(月)(飯沢耕太郎)

浅田政志写真展「ほぼ家族。」

会期:2016/06/18~2016/08/04

入江泰吉記念奈良市写真美術館[奈良県]

昨年、写真家の百々俊二が館長になってから、奈良市写真美術館のラインナップが大幅に変わってきた。もともと入江泰吉の作品を中心に展示してきたのだが、大胆な内容の写真展を次々に開催するようになった。今回の浅田政志「ほぼ家族。」展(入江泰吉「まほろばの夏」展と併催)も、意表をついたいい企画だった。
浅田は2009年に自分自身を含む家族のパフォーマンスの記録、『浅田家』(赤々舎、2008)で木村伊兵衛写真賞を受賞してデビューする。その時点で、たしかに面白い写真には違いないが、写真家としてこの先どんな風にキャリアを伸ばしていくのかが心配ではあった。いわゆる「一発屋」ではないかと危惧していたのだ。ところが、彼はその後も次々に新しいプロジェクトを実行し、精力的に自分の作品世界を拡大しつつある。今回の展覧会では、2000年にスタートして、現在も撮り続けているという「浅田家」をはじめとして、「NEW LIFE」、「八戸レビュウ」、「アルバムのチカラ」、「卒業写真の宿題」、そして近作の「みんなで南三陸」といったシリーズが、盛りだくさんに並んでいた。
浅田の写真の特徴は、徹底して「記念写真」にこだわり続けていることだろう。「記念写真」は19世紀以来、写真撮影のもっとも基本的なあり方として機能してきたのだが、当事者(撮り手とモデル)にとっては重要な意味を持っていても、第三者にとっては、関係のない写真と見なされてきた。浅田の写真がユニークなのは、「記念写真」を風通しよく万人に開いていることである。綿密な打ち合わせによって「どう撮るのか」を決め、細やかな気配りで写真家とモデルとの共同作業を進めていくことで、彼の写真には観客を巻き込んでいくパワーが宿ってくる。特に東日本大震災を乗り越えていこうとする人たちを対象にした「アルバムの力」や「みんなで南三陸」を見ると、彼らを親密な「擬似家族」として撮影していく「記念写真」のスタイルが、とても有効に働いていることがわかる。

2016/07/07(木)(飯沢耕太郎)

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アルバレス・ブラボ写真展 ─メキシコ、静かなる光と時

会期:2016/07/02~2016/08/28

世田谷美術館[東京都]

期待にたがわぬ素晴らしい展示だった。このところ立て続けに紹介されているラテン・アメリカの写真家たちのなかでも、マヌエル・アルバレス・ブラボ(1902~2002)の回顧展は特別な意味を持つ。作品のクオリティの高さ、多様性、持続力、どれをとっても世界的なレベルで通用する大写真家であることが、まざまざと見えてくるからだ。192点という点数もさることながら、年代順に章を区切って代表作を並べるというむずかしいキュレーション(担当=塚田美紀)を、きちんと実現できたのはとてもよかったと思う。
とはいえ、ブラボの作品はメキシコやラテン・アメリカ写真の文脈にはおさまりきれないところがある。むろん彼は初期から、メキシコの広大な大地、遺跡、独特の風貌のインディオたちや彼らの生活ぶりをカメラにおさめており、メキシコ・シティの活気あふれる路上のスナップもある。だが、それらはブラボの写真世界の中心に位置を占めているのではなく、むしろごくプライヴェートな場面、身近な人物たちの写真が、彼にとっては重要な意味を持っていたのではないかと思える。しかも、それらの写真の基調になっているのは「静けさと詩情」であり、喧騒に満ちたエネルギッシュなメキシコの現実は、写真の背後に退いているのだ。
晩年の80歳代で制作された「内なる庭」(1995~97)が典型的だろう。このシリーズは、メキシコ・シティのコヨアカンの自宅の庭を、淡々と縦位置で写しとめたものだ。壁に落ちる植物の影、波打つカーテンなど、ひっそりとした事物のたたずまいを静かに見つめているのだが、そこには目に見えない精霊たちと戯れているような気配が色濃く漂っている。このような内省的(瞑想的)な眼差しのあり方こそが、ブラボの写真を特徴付けているのではないだろうか。驚くほど多様な被写体を扱いながら、そこには明確にブラボの物の見方が貫かれているのだ。
それにしても、メキシコ(ラテン・アメリカ)の写真はじつに面白い。ぜひどこかの美術館で、その全体像を概観する展覧会を企画してほしいものだ。

2016/07/03(日)(飯沢耕太郎)

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From Life─写真に生命を吹き込んだ女性 ジュリア・マーガレット・キャメロン展

会期:2016/07/02~2016/09/19

三菱一号館美術館[東京都]

19世紀イギリスの女性写真家ジュリア・マーガレット・キャメロン(1815-1879)。本展は2015年に迎えた彼女の生誕200年を記念して、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館が所蔵する作品を同館のマルタ・ワイス学芸員の企画で構成する国際巡回展の日本展。キャメロンの作品、書簡類などのほか、同時代の他の写真家の作品も合わせて展示することで、彼女の作品の特徴──革新性を明らかにし、後世への影響をも見る。
キャメロンの作品の特徴は、技術的には人物のクローズアップ、意図的なボケ、現像液の斑や染み、ひっかき傷などネガに手の痕跡をあえて残しているところ。表現の主題としては、親しい人物たちを中心とした「肖像」、家族や友人、使用人たちをモデルとして演出、撮影した「聖母群」や「幻想主題」。とくにその技術面は、同時代の写真家、評論家たちからたびたび批判されたが、現在ではその絵画的表現は後のピクトリアリズム、モダニズムの写真を先取りしたものとして評価されている。「From Life」とは「実物をモデルにした」という意味で、ふつうは美術作品に用いられるが、彼女はしばしば自身の写真作品にこの言葉を銘記しているという。
写真史における評価もさることながら、キャメロンの人物、交友関係もまた興味深い。キャメロンの父親はイギリス東インド会社の上級職員、母親はフランス貴族の子孫。フランスで教育を受けたのち、1838年にインド・カルカッタでチャールズ・ヘイ・キャメロンと結婚。10年後にイギリスに戻ったあとは、妹サラ・プリンセプのサロンで著名人・芸術家たちと親交を結んでいる。キャメロンの家族はセイロン(現・スリランカ)でコーヒー農園を経営しており、1875年以降、同地に移り住み、そこで亡くなっている。彼女が写真を始めたのは48歳のとき。イギリス・ワイト島に住んでいた1863年のクリスマスに、娘夫婦からカメラをプレゼントされたことがきっかけだという。その出自、キャリア、年齢からすれば、彼女にとって写真は趣味に留まっていてもおかしくないように思うが、彼女はそうしなかった。カメラを手にした翌年には自身の写真の著作権登録を始め、ロンドン写真協会の年次展覧会に出品。写真専門誌からは手厳しい批判を受けてもひるむことなく、画廊と作品販売の契約を結び、1865年にはヘンリー・コウルを通じてサウス・ケンジントン博物館(後のヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)に作品を購入させ、同館で展覧会の開催にこぎつける。1868年には博物館の2室を撮影スタジオとして使用する許可を得る。コウルに宛てた手紙には自身の写真が「あなたを歓喜に痺れさせ、世界を驚嘆させる」と記しているという。なんと意欲的、なんと野心的な人物だろうか。
彼女は作品によって名声を得ることを切望したばかりでなく、その販売によって富を得ることも望んでいた。ただし、街の肖像写真師のように誰でも撮るのではない。肖像写真は付き合いのあったグループ、親しい友人たちが中心。有名人にモデルになってもらおうと務め、作品の価値を高めるために彼らにサインをしてもらってもいる。自身のブランディングにも余念がなかったようだ。そうした行動の背景にはコーヒー農園の経営不振があったようだが、はたして写真の販売によってその損失を補うことができたのだろうか。その経営の才がどのようなものであったか、気に掛かる。
本展に合わせて会場出口のショップの壁面がいつもとは異なるギャラリー風のしつらえになっている。こちらのデザインにも注目だ。[新川徳彦]

2016/07/01(金)(SYNK)

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From Life─写真に生命を吹き込んだ女性 ジュリア・マーガレット・キャメロン展

会期:2016/07/02~2016/09/19

三菱一号館美術館[東京都]

ジュリア・マーガレット・キャメロン(1815~79)は、19世紀イギリスを代表する写真家である。女性写真家の草分けの一人でもあり、48歳の誕生日に娘夫婦からカメラを贈られたのをきっかけにして、以前から持ち続けていた「美への憧れ」を満たす手段として写真撮影とプリントに熱中する。数年で自分のスタイルを確立し、「肖像」、「聖母群」(聖母マリアと幼子のイエス)、「絵画的効果を目指す幻想主題」(神話や宗教的なテーマに基づく演出写真)という3つのジャンルを精力的に作品化していった。
今回の三菱一号館美術館での展示は、キャメロンの作品を多数所蔵するヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)が、生誕200年を記念して開催した回顧展の掉尾を飾る日本巡回展である。貴重なヴィンテージ・プリント118点をまとめて見ることができる機会は、日本ではもう二度とないだろう。ほかにキャメロンの同時代の写真家たち、ルイス・キャロル、ヘンリー・ピーチ・ロビンソン、ヘイウォーデン卿夫人クレメンティーナらの作品も出品され、「キャメロンとの対話」の部屋には、キャメロンの世界観、写真観と共鳴するピーター・ヘンリー・エマーソン、アルフレッド・スティーグリッツ、サリー・マンの作品も並んでいた。見逃せない好企画といえるだろう。
キャメロンの写真は発表された当時から、ブレやピンぼけ、画像の剥落やひび割れなどの技術的欠陥について、強い非難を浴び続けてきた。だが、いまあらためて見ると、V&Aのキュレーターのマルタ・ワイスが指摘するように、それらの「失敗」が、彼女自身の身体性(「キャメロンの手の存在」)をより強く意識させる役目を果たしているのがわかる。彼女にとって、モデルの外貌を正確に描写するよりも、彼らの存在そのものから発するリアリティを受けとめ、捉えることのほうが大事だったのだ。そんな強い思いが、時には画面からはみ出してしまうような極端なクローズアップや、ふわふわと宙を漂うようなソフトフォーカスの画像によって、生々しく露呈し、強調されているように感じる。キャメロンは、当時の女性としては小柄な方だったという。にもかかわらず、その作品から放射されるエネルギーの総量はただならぬものがある。現代写真にも通じる大胆不敵な描写を、全身で味わっていただきたい。

2016/07/01(金)(飯沢耕太郎)

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