artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
ダリ展
会期:2016/07/01~2016/09/04
京都市美術館[京都府]
20世紀のシュルレアリスムを代表する芸術家サルバドール・ダリ。本展は、日本では2006年以来の大規模展であり、ガラ=サルバドール・ダリ財団(フィゲラス)、ダリ美術館(フロリダ)、国立ソフィア王妃芸術センター(マドリッド)の全面協力を得て、初期から晩年に至る約200点が集結している。いわば決定版というべき機会だ。なのに、展覧会を心から楽しめない自分がいる。どうしてだろう。ダリがいつの時代も器用に話題作をつくり続けてきたからか、タレントばりのセルフ・プロモーションが気に食わないのか、すでに何度も作品を見てきたので既視感があるのか。いずれにせよ、問題の本質はダリではなく、自分の思い込みにある。ピカソや岡本太郎などもそうだけど、メディアの露出が多い芸術家を、その影響抜きに評価するのは難しい。そんな筆者が本展で気に入ったのは、初期作品が並んだ第1章。そこには印象派や未来派の影響を受けた作品が並んでおり、若きダリが時代の流行を一生懸命学んだ形跡がうかがえる。「この人、本当はとても生真面目な人なのかな」。そんな気がしてダリを身近に感じたのだ。
2016/06/30(木)(小吹隆文)
楢橋朝子「近づいては遠ざかる 1985/2015〈ベトナムの場合〉」
会期:2016/06/21~2016/07/03
photographers’ gallery[東京都]
楢橋朝子は、以前同じタイトルの「近づいては遠ざかる 2009/1989」(東京アートミュージアム、2009)という個展を開催したことがある。そのときには、新作のドバイの写真(カラー)と旧作のスナップショット(モノクローム)を並置したのだが、今回も同じコンセプトを踏襲している。つまり、まだ学生だった1980年代半ばに「目を輝かせながらも少し恥ずかしそうにしている子どもたちや、朗らかでしたたかな人びとのエネルギーに惹きつけられて」ベトナムを3度にわたって訪ねたときの初々しい写真と、2015年に30年ぶりにホーチミン市を再訪した時の写真とが、交互に展示されているのだ。
同じ場所を、時を隔てて再び訪ねるというのは、写真家にとって興味深い経験なのではないだろうか。すっかり変わってしまった人や街の様子だけではなく、自分のものの見方の違いも確認できるからだ。今回の展示では、日付を入れて撮影された、素朴だが力強い1980年代の写真群(モノクローム)と、楢橋流にバイアスをかけて、やや斜めから距離をとって撮影された2015年のカラー・スナップの対比がもくろまれている。その狙いはうまく成功していて、近代化、資本主義化の急速な進行によって大きく変貌しつつある街の空気感が、ヴィヴィッドに伝わってきた。新作と旧作を同時に展示する「近づいては遠ざかる」のシリーズは、これから先も別なヴァージョンで続けていってほしいものだ。
なお、隣室のKULA PHOTO GALLERYでは、1985年にベトナムで撮影したVHSビデオを再編集した映像作品と、2015年撮影のデジタルビデオ画像を、マルチスクリーンで同時上映していた。2015年の、街を縦横無尽に走り回るバイクの群れの映像作品は、撮り続けていくとより面白くなりそうだ。
2016/06/30(木)(飯沢耕太郎)
「KENPOKU ART 2016 茨城県北芸術祭」企画発表会
会期:2016/06/28
上野精養軒[東京都]
この秋、茨城県北部で開催される芸術祭「KENPOKU ART 2016」の記者発表。これだけ国際展や芸術祭が増えてくると、よっぽど大金かけて海外の大物アーティストを呼ぶとか、ケガ人続出みたいな気の狂った企画を立てないと注目を集めないが、「KENPOKU ART」はどちらでもない。裏返せばとても真っ当な、もっといえば優等生的な芸術祭になりそうだ。まずテーマだが、「海か、山か、芸術か?」。テーマになってないが、田舎でやるんだという意気込みというか開き直りは伝わってくる。場所は日立市や高萩市など5市1町、のべ1,652平方キロ(越後妻有の2倍強)におよぶ広大な地域だが、そこにまんべんなく作品を点在させるのではなく、見に行きやすいように「日立駅周辺」「五浦・高萩海浜」「常陸太田鯨ヶ丘」「奥久慈清流」の4つのエリアに分け、作品を集中させるという。よくも悪くも越後妻有ほど非常識ではないのだ。総合ディレクターは森美術館館長の南條史生、キュレーターには札幌国際芸術祭にも関わった四方幸子の名前も。出品作家はミヒャエル・ボイトラー、藤浩志、日比野克彦、石田尚志、イリヤ&エミリア・カバコフ、妹島和世、須田悦弘、チームラボなど約20カ国から100組近く。地域の人たちとの対話を通して作品プランを組み立てるアートハッカソンを実施して選出したり、県南部のアーティスト・イン・レジデンス「アーカス」の経験者や、伊藤公象、國安孝昌、田中信太郎といった地元作家も入れ込んでバランスをとっている。海あり山あり芸術もあり、ちゃっかり各地の芸術祭の「いいとこどり」をしているような印象もある。後出しだからなあ。でもひとつ感心したのは、県知事で実行委員会会長の橋本昌がとても熱心なこと。会場からの質問も人任せにせず、みずから積極的に答えていた。トップが引っぱっている。出しゃばりすぎなければ最強だ。
2016/06/28(火)(村田真)
鈴木理策写真展「水鏡」
会期:2016/04/16~2016/06/26
熊野古道なかへち美術館[和歌山県]
田辺市美術館から、熊野の山の中へ分け入り、熊野古道なかへち美術館へ。妹島和世+西沢立衛/SANAAによる美術館建築は、展示室の外側をガラスの壁が取り囲み、鬱蒼とした山や川辺を眺めながら、回廊のように一周することができる。
こちらでは、鈴木理策の「水鏡」シリーズの写真と映像作品を展示。写されているのは、睡蓮の浮かぶ水面や、緑深い森の中の池や湖だ。上下反転した鏡像として、現実世界の像を複製する水面。イメージを写しとる皮膜としての、写真との同質性。そこには、シンメトリックな構造のみならず、水面上に浮かぶ睡蓮/空や樹木が写り込む水面=鏡面/水面下に沈んだ情景、さらに手前に写された木の枝や幹、といったさまざまな階層構造が出現する。加えて、浅い被写界深度とピントの操作により、手前に存在する睡蓮はぼやけて実体性を失う代わりに、鮮明に写された水面の反映像がむしろクリアな実体性へと接近する。こうした虚実の撹乱は、森の中の樹木が映り込んだ水面が、風の揺らぎによってブレることで、凸面鏡のように歪みながら現実の光景と浸透し合う写真によって完遂される。
こうした鈴木の写真では、「見る」ことが対象の全的な統一をもたらすのではなく、むしろ「見る」ことによって次々と分裂が引き起こされていく。そこでは、咲き誇る爛漫の桜や緑深い森の中の水辺といった極めてフォトジェニックなモチーフは、徹底して人工的な知覚世界を露出させるための口実/生け贄として捧げられているのだ。それは写真を見る経験において、視覚的酩酊の快楽や没入感を与える一方で、「見る」主体について問い直す醒めた姿勢を差し出している。私たちは、審美的な相を通過して、「美しい日本の原風景」といった被写体に付着した意味や物語性を振り払いながら、「見ること」をめぐる問いへと漸次的に接近するのだ。
2016/06/25(土)(高嶋慈)
鈴木理策写真展「意識の流れ」
会期:2016/04/16~2016/06/26
田辺市立美術館[和歌山県]
「Sakura」、「Étude」、「White」、「海と山のあいだ」の4つのシリーズで構成される本展。昨年、東京オペラシティアートギャラリーで開催された同名の個展を筆者は見ているが、本展では出品数を絞り、最新シリーズ「水鏡」は分館の熊野古道なかへち美術館に分けて展示することで、写真家のエッセンスをより凝縮して感じることができた。
とりわけ「Sakura」シリーズに顕著にみられる特徴が、浅い被写界深度とピントの操作による遠近感の撹乱と視覚的酩酊である。空間的には手前にある桜の花は曖昧にボケた白い色面となって浮遊し、ピントの合った遠くの枝は細部まで鮮明に像を結ぶため、むしろ手前に突出して見えてくる。そうした作品の構造を動的に提示しているのが、雪の結晶を捉えた映像作品《Sekka》である。水槽のような箱型のモニターをのぞき込むと、限定された狭い視野、ピント面の操作によって、結晶の像はクリアな輪郭を結んだかと思うと、たちまち溶けだすように曖昧にぼやけていく。水面を模したモニター面のさらに奥に、仮構的な透明の面が無数に存在するかのような深遠が錯覚される。
また、「White」シリーズでは、雪の「白さ」はその極点で印画紙の滑らかな表面の地色と溶け合って同化し、意味と物質の境界は弁別不可能になる。
一方、「海と山のあいだ」シリーズが展示された一室では、海辺から岩場、深い木々の間に顔をのぞかせる池などを写した写真群が、視覚的変奏をもたらすように配置されている。それは空間的、時間的な連続性ではなく、写真の視覚における連続性である。穏やかな波を縁どるキラキラとした光の粒は、淡くぼやけた白い円の重なりとなって浮遊し、円のイメージは森の中の池の波紋と共鳴し、浜辺に打ち寄せる波の曲線と響き合い、太い木の根や岩場の洞窟に開いた暗い穴へと姿を変えた後、その極点で日輪として出現する。そして再び、波に反射する無数の光の粒へと拡散していく。一部屋をぐるりと一周して連鎖的に展開し、クライマックスで闇から光への転調を迎えながら、円環状の完結へ。音楽にも似た連鎖と変奏が空間を満たしていた。
2016/06/25(土)(高嶋慈)